(爆轟本19年10月の再録)
1
「クソが!」
爆豪の声がそう叫んだ。同時にデッキブラシが掃除道具入れに叩き込まれただろう音が、大きく響いて聞こえて来た。
「あいつ元気だな」
掃除を始めて一時間以上経っているというのに、まだ唐突な理不尽への怒りを覚えているらしい。怒りへの持久力が高い奴だ。いっそ感心しながら、轟は注水ボタンを探していた。
雲一つない、六月の青空の下。
プールサイド、サメ肌のようなコンクリートの上を裸足で歩く。真夏になれば鉄板のように熱くなるここも、今はまだ何の熱もない。
先ほど水で流したばかりということもあって、少しひんやりとしているくらいだ。二人がかりで一時間かけて磨いた空っぽのプールは、冷え冷えとして見える。
あとは水を注げば掃除もお終いのはずだが、肝心のスイッチが見当たらない。プールサイドをぐるりと練り歩いた結果、すみっこの小さな扉の中で見つかった。カチリと押し込むと、背後から轟音が聞こえてくる。
驚いて振り向いた先で、滝のような勢いの水が、プールに注ぎ込まれていた。プールの外周には先ほどまではなかった小窓が現れており、そこから耳が痛いほどの勢いで水が噴き出している。
「おお」と感心しながら、プール脇の建物へと戻る。「爆豪」と呼びかけながら探すと、その姿は更衣室の中にあった。片付けたはずのデッキブラシを握って、眉間にしわを刻みながら床を磨いている。足元に伸びるホースからは水が流れ出続けていて、デッキブラシを前後させるたびに水が跳ねた。
「何してんだ?」
声を掛けると、顔を上げないまま爆豪が答えた。
「見りゃわかんだろ」
「頼まれたのはプール掃除だけじゃなかったか」
「やるなら徹底的にだわ」
つい先ほどまで怒っていたと思っていたのに、切り替えが早いというべきか、完璧主義というべきか。しかし怒る爆豪の動きは速いので、たった一時間で広いプールを磨き上げることが出来たともいう。
「なら俺も」と踵を返せば「テメェは向こうのシャワールームやってこい」と顎で示された。
「二人も要らねえんだよ」
追い払われたことを漠然と不満に思ったが、具体的な言葉にはならなかった。プールと比べたら更衣室もシャワールームも狭い。爆豪の意見の方が合理的だ。仕方なく「わかった」と頷き更衣室を出た。
掃除道具入れから濡れたデッキブラシを取り出し、シャワールームへ向かう。その途中、言いたいことがあって爆豪を探していたのだったと思い出し、更衣室に寄った。
顔を覗かせれば、気付いた爆豪が何の用だと言いたげに眉をひそめた。
「プールの水、すげえ勢いで出てるぞ」
「どんくらい」
「あっという間に満杯になりそうだ」
「ハッ、ンな無駄なもん付ける前に、清掃機能つけろや」
「でもこれなら、このあと泳げるな」
「泳がねぇよ」
そう言われ「さっさと行け」と指先で追い払われた。雑談をほどほどに切り上げ、シャワールームへ移動する。そこで水を出すものがないことに気が付いた。ホースは爆豪が使っているが、他にもあるのだろうか。それとも氷を溶かして使うか。
考えているとシャワーのコックが目についた。これでいいかと手をかけ、浴びないよう注意しながらコックを捻る。床全体が濡れたところでコックを閉め、デッキブラシを握り直した。
しゃこしゃこと動かせば、音が壁に跳ね返る。足元で水が跳ねる。足にも腕にも細かな水飛沫が掛かっては乾いて、心なしかじゃりじゃりした。掃除も注水も終わったあと、プールに飛び込めば、さぞ気持ちがいいことだろう。
まだ六月だが早くも梅雨も明けており、日々の気温は右肩上がりだ。暑くてたまらないという程ではないが、水の中に飛び込む想像をした時「寒そうだ」とはもう思わない、そういう季節。初夏だ。
プールを見ていると、夏の気配をしみじみと感じる。
そもそも何故二人でプール掃除をしているかといえば、理由は至極簡単で「運が悪かった」からだ。
今日は日曜日で、三年生になったクラスメイト達の大半は、インターンへと繰り出している。
そんな中で爆豪と轟は偶然、予定が入っていなかった。
そしてこれまた偶然、校内を歩く爆豪の姿を轟が見つけた。図書室から戻る途中のことだった。近付き声を掛けると、その後ろから二人まとめてオールマイトに呼ばれた。
全盛期と比べると相変わらず別人のようにほっそりとしているが、この頃は顔色も良さそうなオールマイト。三年目ともなれば見慣れるものだが、それでも二人の憧れたヒーローであることに変わりないオールマイト。呼び止められると、どうしたって嬉しかった。
「やあ二人とも、丁度いいところに」
なんて笑顔を向けられ頼まれたのが、プール掃除だった。
「ンでそんなこと」という爆豪の声と「分かりました」という轟の声が綺麗に重なった結果、オールマイトは「ありがとう」と頷いて爆豪の手にプールの鍵を握らせた。「勝手に話進めンじゃねえ!」と言いながらも鍵を投げ捨てないあたり、爆豪はオールマイトに甘い。やはり憧れの相手なんだよなと眺めていれば、目を吊り上げながら睨まれた。しかし見た目と言動に反してけっこう良い奴なので、文句を叫びながらもこうしてプール掃除に付き合ってくれている。
熱心にブラシを動かしていると、じわりと汗が噴き出してくる。プール清掃時は日差しが暑かったが、シャワールームは熱がこもって暑い。手早く洗い上げ、最後にまたシャワーで洗い流した。爆豪がここに居たら「雑」と言われたに違いない。排水溝に向けて水を誘導するように、ブラシを動かす。
「よし」と頷いて外に出る。爆豪はもう更衣室にはおらず、外の手洗い場をたわしで擦っていた。
光に金色の髪が透けている。
そんな光景を眺めながら、日の下に出た。
「手伝うことあるか?」
問い掛けると、赤い瞳がこちらを向いた。そしてたわしが投げつけられる。一歩避けたスペースから、交代しろの意図を汲む。爆豪が場所を空ける時は、そこに何かが置かれるべき時だ。お膳立てされた導線の上に炎を走らせたのは、いつの演習のことだっただろう。
爆豪が蛇口を捻った音も、背後から聞こえるプールへの注水での音でかき消されてしまう。となりに並ぶ横顔を眺めていると、ふと視線がかち合った。あっと息を飲んで逸らし、視線をたわしに落とす。押し出すように、言葉を探す。
「オールマイト、後でアイスおごってくれるって言ってたな」
「安過ぎんだろうが」
二時間の労働の対価じゃねえわ、と爆豪がぼやき、腕で額の汗をぬぐった。悪態を吐きながらも、もうすぐこの労働も終わりを迎えようとしている。
たわしを洗って、手洗い場を流して、掃除道具の確認をしてようやく終わる。急に静かになったなと振り向けば、プールへの注水が終わっていた。透明な水面が揺れながら淡い光を反射させている。真夏に比べれば、まだまだ日差しは弱いのだと実感した。
最終確認ということで、二手に分かれてプールサイドを回った。丁度反対側で、再び爆豪と出会う。
「これで終わりでいいのか?」と訊ねると「なんでも俺に聞くんじゃねえ」と睨まれた。
そこから今度は並んで戻っていく。
「俺、プール掃除は初めてだから、勝手がわからねえ」
「そいつは良かったな」
鼻で笑われたので、おうと頷く。
「だから少し面白かった」
空っぽのプールの内側に、素足で立つことすら初めてだった。
「物好きが」と今度は小馬鹿にされた。
「なあ本当に入らねえのか。オールマイトも一番乗りしていいって言ってただろ」
「入んねえよ。水着も着替えもねえだろうが」
面倒くせえ。と吐き捨てる横顔を、半歩後ろから見ていた。
その向こうでプールの水面が光っている。眩しさに目を細める。それから脳内でいくつか、記憶がぱちぱちと弾けた。
切島や上鳴の顔だ。夏とプールが含まれる会話の記憶。
あの二人は本当に楽しそうに話をする。爆豪は対照的で、怒っているか淡々と事実を伝えていることが多い。楽しそうな顔を見せる時は、日常の外への一歩を踏み出していることが多い。それともヒーローなのだから、戦うことも日常の内と言うべきだろうか。
色々と頭の中を過ぎるものがあった。考えたこともいくつかあった。だがそれらの細かなことも、本当はどうでも良くかった。その時のそれはただ「出来心だった」としか言いようがない衝動だったからだ。「急にさあ、切島が体当たりしてくるとか、ムリじゃね? 俺肉体派じゃないわけよ」と訴える上鳴の横で、切島が腹を抱えて笑っていた。「だって上鳴、すっげえ間抜け面してたんだぜ。押してくれって言わんばかりでさあ」
別に爆豪が油断していた訳ではなかった。けれど気を張っているという訳でもなかった。それから轟は、ちょっとした好奇心に敗北を覚えたところだった。
離れていた一歩分の距離を大きく踏み込んで、爆豪の肩を思い切り押す。
思ったよりもずっと、爆豪は油断していたようだ。気を張っていた時ならばブレもしなかっただろう攻撃に、あっさりと体が傾いた。片足がふわっと浮いて、体が水面に向かって倒れていく。「お」と声を出したのは轟の方だった。「ダチをプールに突き落としたことないのか? 落とそうとしたことも?」と驚かれたのは多分去年のことだ。
なぜ今実践しようとしたかといえば、完全な思い付きだ。思い出したから、それに爆豪ならきっと避けるか踏みとどまると思っていた。だから押してみた。
成功しそうになっていることに驚いて、それからぐんっと勢いをつけて振り向いた爆豪に、腕を掴まれたことにも驚いた。
水面に落ちる寸前、爆豪は悪い顔をして笑っていた。
一瞬の浮遊感ののち、大きな水音を立てて二人してプールに飛び込んだ。
空気が水の中で暴れまわる音に包まれ、冷たい水の圧を全身に浴びる。沈む体があるところで浮く。磨いたばかりのプールの底を蹴り、水面へと浮上した。
ぷは、と顔を出す。先に浮かび上がっていた爆豪は、水面に飛び込む寸前と同じ顔をしていた。怒鳴ってくると思っていたので少し予想外だ。それに、道連れにされるとは思っていなかった。
「どういう反射してんだ」と唇を尖らせると、爆豪は大きく口を開けた。
「ザマァ!」
「そういうお前も落ちてるだろ」
「落ちてやったんだろうが」
バァカ、と爆豪の愉快そうに口が大きく動く。なんだそれと眉を寄せながら、肌に張り付いた髪をかき上げる。一挙一動に水が付きまとう。揺れて跳ねて、したたり落ちる。
「にしても、テメェがアホ面どもみてえなことするとはな」
「あほ、ああ」
上鳴、と思い浮かべながらプールの岸へとたどり着く。縁に掴まり、腕の力で這い上がる。
「丁度その、上鳴のことを思い出したんだ」
「で、俺で実践しようてか。良い度胸してんな」
「悪かった」
水の中から出てしまうと、重力が強く意識された。びっしょりと濡れたジャージが肌に張り付き重く不愉快だが、代わりに先ほどまでの暑さは吹き飛んでいた。
振り向き、未だプールの中にいる爆豪に向けて手を伸ばす。
「悪いってツラしてねえんだよ」
「ちゃんと思ってる。ずぶ濡れになっちまったしな」
「全くだわ。俺は着替えがねえって言ったよなァ」
「それは俺もだ。寮に戻れるくらいには乾かしてやるから」
「てめえにンな器用なこと出来んのかよ」
「そういう練習もしてんだ」
濡れたものを乾かすというのは、災害現場などでも役立つ。衣服でも道路でも、色々と。逆に濡らす必要が生まれることもある。個性の出力調整の訓練としても有用だ。そのためにタオルを焦がしたことも数えきれないが。
短い距離を泳いでこちらにやってきた爆豪が、水中から腕を出した。その指先が伸ばされ、差し出した轟の手を掴む。ひやりと冷えた大きいてのひらを、握り返す。
感慨深い気分だった。
フラッシュバックのように脳裏を過ぎるのは、空を切る指先。それから飛び去って行く四人の後ろ姿。
掴んだ手を引っ張り上げれば、水音を立てながら爆豪の体が浮き上がる。その瞬間、探るような赤い瞳と目が合った。ふっと過去に飛んでいた記憶が、現実に引き戻される。
人の気持ちに寄り添うことをしないくせに、察しのいい男だ。何を考えていたのかバレてしまったかもしれない。けれどもう、表現し難い驚きのようなものが沸き上がってきて隠し難い。
差し出した手が、素直に掴まれた。この、感慨深いと思う気持ちは少し、嬉しいと似ているような気がした。まだ掴んだままの手を眺める。個性の都合か爆豪の方がてのひらが大きい。それに、熱い。
その手が急に引っ張られた。
「う、わ」と声を漏らした時、視界の端が大きく踏み込んだ爆豪の足を捕らえた。投げられる、と思った時にはどうしようもない状況だった。個性を使ってどうにかすることも出来たが、それは野暮だと思った。
爆豪が勢いを付け腕を振り抜き、轟の体が浮く。そして最良のタイミングで手が離された。
少しだけ空を飛んだ。
体が浮いて、空気を切る音が耳に刺さる。
派手な音を上げ背中からプールの真ん中に落ちた。先程落ちた時よりも大きな音がした。それでもプールの中に落ちたということは、おふざけだ。爆豪が本気で人を投げたら、もっとずっと遠くまで飛ぶ。
水面へ浮上し、大きく息を吸い込む。
「油断してんな舐めプ!」
プールサイドで中指を立てながら舌を出す、爆豪の姿が見えた。水面と水滴が光を受けてちかちかと眩しい。たまらず目をぎゅっと閉じ、またうっすらと開ける。
「なにすんだよ」
「仕返しに決まってんだろうが」
やられたらやり返す。なんて爆豪らしい。
直に夏が来る。