(五夏)
夏油傑はうっすら悩んでいた。
一番乗りの教室で一番奥の椅子に腰掛けて、足を組み、腕を組み、天井の木目を眺めていた。背もたれに体重を預け、つま先に力を入れ、四本ある椅子の脚のうち前二本を浮かせて、ゆらゆらと揺らす。
かれこれ半月ほど悩んでいる。いや、悩んでいるというほどのことでもないのだが、問題が浮上した後、解決はしていない。さて困った。困るほど深刻な問題でものだけれど。
瞬きをする。
引き結んでいた唇を緩める。
途端に空気が溜め息よろしく漏れていく。
傑の脳内を占拠している問題は、文字で表せばたったの十数文字で「悟とセックスをすることになった」だった。
いやなんで。
傾けていた椅子を着地させて額をかく。まあ、色々あった。この短い一文に至るまでに様々なことがあった。それこそ出会いから語らなければならないほどだ。
再び椅子を傾けて揺らす。小さなリズムを繰り返すことで頭が整理される、ということもなかったが、いくらか気は紛れる。
最終的な要因は「好奇心」という極めて単純な言葉で表すことが出来る。それか興味本位。男同士でも問題なくセックスが出来るらしいと気づいた二人はあまりにあっさりと「なら試すか」という結論に行き着いた。
その時傑は、普通は友達とそういうことをしない、という単純な結論をあっさりとどこかにすっ飛ばしていた。第一、友達なんてありふれた言葉を用いて説明するには、五条悟という人間の存在はあまりに希有だった。
これまでの人生にだって「友達」と呼ぶものだろうと思っていた人たちはいたが、悟と出会った今となってはあれが友達と呼べる関係であったかは甚だ怪しい。などと薄情なことを思うほどだ。なにせ彼らは「見えない」人たちだったのだし。
つまり、なんというか、悟という存在は、傑という人生においてあまりに特別だった。
なんか照れてきたな。
結果、セックスをすることに対する嫌悪どころか違和感すら抱けなくて、よしやるかとなって、しかし半月が経過していた。
せめて受け身でなければもう少し前向きに楽しみだった、のではないか。
今でも好奇心がひたひたに満ちてはいるのだが、流石に心の準備ができないでいた。日和った気持ちをもうすこし正直に言えば、覚悟が決まらなかった。現状の傑の知識は「尻を使う」程度止まりだ。尻だ。尻にいれる。そして悟のちんこというものはこれまた様々あって何度も見ているが、まあデカい。こんなものだったかな、と指で輪を作り顔をしかめた回数は知れない。
無理じゃないか?
あれを尻には、無理じゃないか?
流石に尻込みをする。尻だけにではないが。
結果半月もの間、なんやかんやと理由を付けて先延ばしにしてきた。かなり雑な言い訳をした日もあるのだが、驚いたことに悟は「おー」とか「んじゃ今日はゲームしようぜ」とか言うだけだった。強者も弱者も老若男女平等天上天下唯我独尊、無自覚に煽り喧嘩を売る悟がどうしたんだと偽物を疑った日もある。
待たせている立場の手前、いい加減に覚悟を決めなくてはと考えている。その度に指で輪を作り、いや無理じゃないか? を繰り返している。初めてするセックスを前にこんな悩みを抱える羽目になるとは、人生は分からないものだ。健全な十代の肉体故の快楽への興味と好奇心と、自分が受け身側になる事実と、悟のちんこがデカいことは、三竦みになるでもなくただ日和っている。
吐いた溜め息と共に、不意に耳を風が撫でた。
「五条なら遅刻だってさ」
これに、あり得ないほどに、驚いた。
ガタッと大きく音を立て、椅子の脚が跳ねて滑る。「うわ」と硝子の声が飛び退いて、そこに傑は椅子ごと倒れ込んだ。
大きな音と衝撃と共に、視界が天井の木目一色になる。ひょこりとのぞき込んだ硝子が「反転術式かけたげよっか」と、全く親切心のなさそうな声で言った。
さすがに恥ずかしい。
「大丈夫だよ……」と体を転がして、何事もなかったように立ち上がる。
ちょっと躓いただけだから何ともないんだよね、みたいな顔をしたところで、派手にすっころんだ姿は見られているのでごまかしようがないのだけれど。それでも多少は、取り繕いたい。全く困ったものだねみたいな顔をして制服を軽くはたき、椅子を起こす。そして座る。倒れた事実などなかったかのように。
硝子は「あはは、動揺しすぎ。マジじゃん」とからりと笑い、となりの椅子に腰を下ろした。手にしていたブリックパックを机に置き、ストローを刺す。甘い味のするカフェオレのパッケージは、硝子にしては珍しい。
「私が来たことにも気づかないとか、よっぽどだな」
「遅刻って、悟どうかしたの?」
「……家の用だって。さっき連行されてった。で、なんか文句言いながらこれくれた」
「ああ、それで」
甘いカフェオレも、悟が飲む姿ならよく見る。
「遅刻って言ったけど、夕方まで帰ってこないかもしんないって。夜蛾先生もなんか手続きがどうのって一緒に行ったし。で、私達は自習」
「自習か……そうだ、せっかくだし受け身の練習とかする?」
「パース。そうだ夏油、夜蛾先生が報告書一枚出てないって言ってたけど」
「……あ」
そういえば、出していないものがあったかもしれない。心当たりに目を丸くすれば「珍しいじゃん」と硝子がストローをくわえながら言った。
すっかり忘れていた。
悟とセックスをすることになった事実にリソースを結構もっていかれている事実が、こういうところからじわりとにじり寄ってくる。
いい加減本当に、どうにかしなければ。うやむやにして無かったことにするという気はない以上、ここらで腹をくくるしかない。そう考えながらひとまず机の中から報告書の冊子を取り出す。べりっと一枚をめくって、冊子は元に戻す。ペンケースからボールペンを取り出してノックする。任務地住所の資料などは部屋だから、後で取りに行くしかない。
「で、五条とセックスすんだって?」
手元が狂って派手な音を立て報告書が破れた。
もし飲み物を口に含んでいたなら間違いなく吹き出していたし、走っていたなら足がもつれて転んでいたに違いない。
バレない程度の小さな深呼吸を挟み「はて?」という顔を作って硝子を見る。ついでに破れた報告書を丸めて避けて、新しい一枚を取り出す。
「いや、とぼけてる時点で認めたも同然でしょ」
「……そもそも朝の教室でする話ではないし、そんな単語は堂々口に出さない方がいいというかね」
「じゃ肛門性交って言おうか?」
「……セックスでいいや」
諦めて額を押さえる。どうにかうやむやに出来ないかと思ったものだが、二回も不意打ちを食らった後では勝ちようがないというものだ。動揺したとバレてしまっているし。
黒いインクのシミが三つ付いた報告書を眺めて、ボールペンを置く。三日前に悟と二人、補助監督の送迎付きで任務に行った時の物だ。大した呪霊ではなかったが取り込んである。任務の内容を思い出すことは出来るが、それを言葉に直して整然と書き連ねていく集中力はしばらく戻ってこないだろう。
面白おかしくにまっと硝子が笑っている。
何故そうも楽しそうなのか。同級生同士のセックス事情など知りたくもないだろうに。そんな話聞かせんな、と冷たくあしらしいそうなものなのに。
硝子は察して「ああ」と言った。
「前に五条が聞きに来たんだよね。男同士の性交の仕方」
「え、うわ……なんか、ごめんね」
想像以上の直球勝負に、居たたまれなさや恥ずかしさよりも、申し訳なさが勝った。硝子にそんなことを聞いてごめん。聞きにいかせてごめん。私がもっとサックリと覚悟を決めていればそうはならなかった、かもしれない。
けれど硝子は表情を変えることなくストローを口に含んだ。ブリックパックがぺこっとへこむ。傑の認識と硝子の態度がどうにもかみ合わず、どうにも奇妙な感じだ。首をすくめて様子をうかがえば、硝子が瞬きを返す。ストローが口から離れると、空気を吸い込んだパックが音を立てて元に戻る。
「なんかさ、肩の外し方を聞くみたいに真面目に聞いてくるから、つい真面目に教えちゃったんだよね」
「むしろ肩の外し方っていつ聞くの?」
主題でないと分かっていても聞き返さずに居られなかった。前に聞かれたことがあるのだろうか。悟なら肩など外す小技を使わずともいいだろうに。はて、肩を外すのは小技なのか大技なのか。地味ではあるが、まずまず行動を制限できるだろう。呪術師ならば掌印も結べなくなる。しかし掌印の省略も出来ない相手ならばやはり悟が負ける要素はない。捕縛用か?
何の話だったか。
「五条って、ああいうタイプだとは思わなかったよね。第一印象とかサイアクだったし」
「生意気だったよねえ」
「夏油は別の生意気さだったよ」
「えっ?」
こんなに優等生然としているのに、と不思議がれば鼻で笑われた。
「マジで真面目だったよ。反転術式の話聞きに来たときの方がよほど遊んでた」
「そんなに?」
「そんなに。ふざけてたり惚気てたら私だって適当にあしらったって。珍しいものみたね」
「そんなにかあ」
机の上に置かれたままのペンを指先で転がす。真面目な悟の顔って、意外と思い出せない。ふざけているときの方が圧倒的に多い。楽しそうな顔ばかり思い浮かぶ。セックスのポジション決めをしたときだって、抱く側の権利を得たことよりも、勝負に勝ったことに対して喜んでいた。サングラスの奥でにやーっと笑った顔を思い出すと、ちょっとムカつく。
それがどうなって、そうなったというのか。
硝子にこんな、わざわざ傑の背を押すような話を振ろうと思わせるほど、真面目な態度がどこから湧いて出たのか。
そんなものを、どこに、隠していたのか。
「さっさとやっちゃえば?」
極めて軽々しく硝子が言った。
背中を丸めて頬杖をついて、一つ息を吐き出す。
「私の居たたまれなさも分かってくれない?」
「半月たっぷり居たたまれなくなったんだろ。そろそろ開き直れば?」
「……え?」
「五条来たの、半月前だから」
うそぉ。と口をぽかっと開ける。
半月前、とっくに硝子に聞きに行っておいて、ずっと傑になんの催促もしなかった。その事実がにじり寄ってくる。準備万端に待ち構えていたくせに、傑ののらりくらりをあっさりと受け流していた。なんて。
どうにも頬が熱い。
「あのさ、硝子。私にも、その、教えてくれない?」
「却下。顔が惚気てる」
「酷くないか?」
呆れたような硝子の指先が、それ、と言うように耳の先を示した。ここで隠したら赤くなっていると認めるようで出来ず「真面目に聞いているよ、私だって」となけなしの抗議をぶつける。
実際真面目だった。覚悟の一歩目だった。いよいよ後には引けない。ここまできたらやるしかない。きちんと準備をしたらなんてことないのかもしれない。日和った全てが杞憂かもしれない。
だがあっさりと玉砕した。「惚気が勝ってる」と話題を区切るようにブリックパックを机に置いた。軽い音がした。
「五条に聞け」
それは全くもって正論で、これっぽっちも反論出来なかった。
○
その夜、傑は無意味に座禅を組んだのち、勢いを付けて立ち上がった。
最早考えるより体を動かした方が早い。手っ取り早い。これ以上悩んだって仕方がない。案ずるより産むが易し。
大股に部屋を横切り、ドアを勢いよく外に向けて押し開くと「ギャ!」と短い悲鳴が聞こえた。悟の声だった。
「え、うわ、ごめん」
「俺じゃなかったら死んでた」
「死にはしないだろ」
勢いよくドアがぶつかっただけで死ぬのは中々難しそうだ。この寮に出入りしている人間、呪術師なら尚更。ついでに、先ほどまで色々考えていたことが悟の額にぶつかって砕けて消えた。厳密にはぶつかっていないのだが。よくこの一瞬で無下限を展開できたものだ。
ドアをぶつけられて悲鳴を上げた直後とは思えない、堂々たる立ち姿だ。足が長いからか直立でも見栄えがする。
「傑、どっか行くとこだった?」
「いや、悟を探しにいくところだったから、もう用は済んだかな」
「んじゃ中入って良い?」
「どうぞ」
勢いよく飛び出していくはずだった部屋の中へ、反転して戻る。
「あとこれお土産」
「え? そんな遠出したの?」
「いんや、五条家に行ってただけ。これは貰ってきた」
缶ジュースでも投げて寄越すような気軽さで差し出された紙袋を受け取る。お礼を述べながら意外に重い袋の中をのぞくと、桐の箱が見えた。
「うわ!」
「蕎麦の乾麺だって。んでこっちはただのポテチ。適当にDVDも持ってきたから見ようぜー」
「本当にもらって良い物? これ?」
「賞味期限はまだあったから大丈夫だと思う」
「ううん」
そういう意味ではないのだが、まあいいか。悟にとってはそれほど大したものではないと判断して、ありがたく受け取っておく。そのうち一緒に食べたらいいし。しかしこんな明らかに高級そうな蕎麦を、寮の部屋の小さな鍋で茹でて良いものか。
悟はするりと部屋の中へ踏み入って、勝手知ったる顔でDVDプレイヤーの電源を入れた。しゃがんで丸めた背中が不思議と楽しそうに見える。
「なんか最近さあ、帰る度に家の棚にDVD増えてんだよね」
「ああ、前も家から持ってきてたよね」
「誰か映画にハマってんのかな。ま、好きなの持ってって良いっていうからありがたいけど」
「それは」
悟が嬉々として持っていくから、そのために誰かが増やしているのではないか。
そう思ったが、確証もないので傑の内に留める。悟は五条家という様々なしがらみを面倒くさがっている様子があるが、家の人というのか使用人というのか、その辺りの人達とはうまくやっている、というか可愛がられているようだった。
テレビ画面が仰々しく見慣れたロゴマークを映し出したので、急いでポテトチップスを開け、冷蔵庫の麦茶を取り出す。「コーラないの?」というので「プロテインならあるよ」と返すと「傑の甘くないからいい」と首を振られた。代わりにお得パックのチョコレートを適当につまみ出してテーブルに転がしておく。このチョコレートは傑の部屋の冷蔵庫に半ば常備されているが、いつも九割方悟が食べていた。
「甘い物も持って帰ってきたらよかったんじゃない?」
「あ」
忘れてた。と目を丸くした後、チョコレートの包みを一つ手に取った。五条家の方がよほど良い物があるだろうに、悟はいつもアルファベットの書かれた四角いチョコレートを楽しそうに口に運んでいる。それを横目にポテトチップスに手を伸ばす。
そして映画と言えば、実に贅沢な尺の使い方をしていた。
思わずパッケージに手を伸ばす。本編は三時間あった。既に一時間近く見ているというのに、まだ半分以下なのかとつい真顔になる。悟はテーブルに頬杖をついて「長かったらいっぱい見られてお得ってわけじゃねーんだな」とあくびをこぼしていた。
「チョコ一つちょうだい」
「いいよ、ってか傑のじゃん」
「まあね」
悟の腕のそばから一つチョコの包みをつまんで口に入れる。甘いばかりの塊を口の中で転がしながら、美しい風景と美しい音楽が贅沢に流れているだけの画面を見る。それから、悟に目を向ける。白い髪があくびに合わせてふわふわと揺れている。
「あのさ、悟」
「んー」
「セックスの準備、私もしておくことある?」
「ん?」と悟が首を動かして、傑を見た。
名前を呼ばれて耳を動かす猫みたいな仕草だった。ううん、と体を伸ばしながら背を起こす。あぐらをかき直して、じっと考え込んでいる。
真面目な顔をしていた。
硝子が言っていたのは、こういう表情だろうか。これならそうか、教えてしまうかもしれない。任務のための作戦を考えるときの方がずっと気の抜けた顔をしていた。
しばしの時間をおいて、悟が腕を組み顎をさすりながら、傑を見た。
「ケツの……、ケツ、を……洗う」
「洗う?」
ケツを洗う、そりゃ洗うだろう。なんなら体まるごと洗うに決まっていないかと首を傾げる。悟はもう一度考えるように天井を見上げた後、何故か頷いた。
「いや中ね。洗浄する」
「……はあ」
「いやマジよ」
「マジか」
本当にそんなことをするのか? という疑問という名の困惑が前に出てくる。冷静に考えればそうだろうなという納得も湧いてくるようだが、ケツの中を洗ってこい、という事実は一口に飲み込みづらい。
どうやって? ほんとうか? と日和りそうになる事実を無視する。ここで尻込みしては格好が悪すぎる。すーっと吐いた息を、すーっと吸い込む。
「いや、……分かった。もう少し詳しく聞いてもいいかな」
「いいけど、明日任務じゃん。別の日にした方がいいよ」
「どうして?」
ケツを洗うことは任務があると困るのものなのか。長期任務用の虫とかみ合いが悪いなどあるのかと予想を立てるが、明日は半日程度で片付く比較的軽い任務だ。場所も近い。悟も一緒なので間違いなく日帰りで済む。
「結構疲れるんだよ、あれ」
「そうなんだ」
疲れるから任務前はやめたほうがいい。理屈として通っているなと納得しかけて、妙だなと首を捻る。
「なんで」
知っているのか。いやに真面目な響きをした答えを口にしたのか。悟を見る。悟は未だ真面目な顔をしていた。
「試しにやってみたから」
思わず腕を組んだ。理解が追いつかなくてさっぱり言葉が出てこない。なぜ? という疑問が浮かぶばかりだ。
試した。自分で。ケツを。洗うのを。
どうして。
「いや、どうしてなんだ」
やはり分からないので正直に聞いたところ、眉をひそめられた。それほど変なことを聞いただろうか。ケツに入れる側のポジションになった悟がケツを洗う理由とは何か。さっぱり分からないという顔をしてみせれば、盛大な溜め息が返ってきた。いつもと立場が逆だ。
「いきなり傑で試すわけねーじゃん」
ぐ、と言葉に詰まる。
それは結構な、殺し文句なんじゃないか。
悟は押し黙った傑のことを、未だ納得がいっていないと認識したのか「俺だってケツの中がどうなってるかとか分かんないからな。呪力は別に内臓にそって流れてるわけじゃないし」とかなんとか、くどくどと述べている。勉強熱心とも完璧主義とも取れるが、どちらも少し正しくない。きっと雑に要約した答えは「余計な負担をかけたくない」で、もっといえば「怪我させたらヤダ」だった。
「私さ、悟のそういうところ結構好きだよ」
「え、なに?」
「変なところで真面目というか、意外と勉強するよね」
「……理解は必要でしょ」
「はは、そうなんだけどね」
自身の術式についてだって、現代の言葉と理屈で改めて紐解いていた。御三家相伝の術式についての情報はずっと蓄積されてきているのに。勉強、理解、解釈、どれもが呪術師として必要な要素だとして、それをセックスにまで応用する必要などなかったろうに。
なんだかやっぱり全部が杞憂だった。そんな気分になってきた。
「じゃあ、明日しようか」
「オッケー。ケツ洗って待ってろよ」
「首みたいな言い方するなよ。で、やり方くらいは今日聞いてもいいよね」
洗って待ってろなら、先に洗っておかなくてはならないし。話を促すように手のひらを向けると、悟は「ちょっと待ってて」と部屋を飛び出していった。
急に取り残され、思い出したようにテレビ画面に目を向けると、驚いたことに場面が変わっていなかった。
「ただいまー」と速攻戻ってきた悟が、元の位置に腰を下ろす。そしてテーブルの上のチョコを避けて、小さな箱を置いた。
「やり方は色々あるっぽいんだけど、最初はこれが楽かも」
思わず、額をかく。
開封済みの小さい、風邪薬みたいな箱に、はっきりとした文字で「浣腸」と書かれていた。何度見ても、目を細めても開いても、浣腸と書いてある。そりゃそうかと、どこか他人事のような自分が納得している。
片目を閉じる。考える。悟を見る。
「明日?」
「腹くくれ」
「そこはケツじゃないんだ」
まあ翌日、ちゃんとしたのだけれど。
●
五条は一通り聞き終わると、確認するように頷いて、それから空を見上げた。一文字もメモを取っていないが、こいつの頭ならきっと全部覚えていることだろう。記憶力はいい。頭もいい。質問に答えられないときは大概、聞いていないか興味がなかったときだ。とすると、一言一句しっかり聞いていた今、抜け落ちた内容など一片もないだろう。
短くなったタバコを携帯灰皿に押し込む。最後の紫煙をふーっと長く吐き出せば、証拠隠滅するように風が吹き抜けていった。
「今更だけど、なんでそんな事になったわけ」
聞くと、ワンテンポ遅れて空中から意識を呼び戻した五条が、こちらを見た。
アンタ達。五条と夏油。
気づけばいやに仲良くなっていた。喧嘩もしているが、それでもまた直ぐにくっついて遊んでいる。噛み合うことのない性質に見えたのに、こうも仲良くなるものか。例えどれほど仲良くなったとして、セックスまで行き着くには別の段階が必要だろうに。
五条は少しだけ考えてから答えた。
「傑と出来そうなこと、全部してみたくって?」
「そんな理由でセックスするか?」
「出来るって知ったらやってみたくない?」
「それでなんで、今まで童貞なんだ」
男同士のセックスの方法についての話をする流れで、その事実を確認していた。聞き出したわけではなく、そもそも本人に隠すつもりは毛頭無いようだった。「セックス自体はじめてだから」と平然と口にしていた。
五条はげんなりと口の端を下げて、見えない煙を振り払うように手を振った。
「しらねー奴の前で急所晒すとか全裸になるとかない」
「健全な男子高校生らしからぬ発言だな」
「そうなの?」
「てか全裸にならなくてもやれるだろ」
「どうしたって急所は出すでしょ」
そりゃそうかと、先ほど貰った缶コーヒーに手を伸ばす。相談料にしては随分と安いが、五条の真剣さが珍しくてつい話を聞いてしまったし答えてしまった。実際ここまで、色っぽい話も惚気きった話も、空気も、なにもなかった。触診の方法を教えたに近い。
「でも傑になら急所見てせも触らせてもいいし。んで、傑もそうだったら嬉しいかもー、ってね」
「はは、惚気じゃん」
「こんなんで?」
「あっちはそんなことまで考えてないと思うけど」
そもそもセックスをする理由が、相手に選ぶ理由が「急所を触らせてもいいから」になる奴は珍しい。セックスのために身を滅ぼすやつなんて掃いて捨てるほど見つかるというのに。その意味でも急所かもしれないか。
「それでも全然いいけどね」
五条はからっと笑った。
指を組んで体をぐっと伸ばすように腕を上げる。そして脱力して目の前にあった欄干にもたれかかり、ずいぶんと崩れた笑みを浮かべた。惚気でも言い出しそうな顔だ。ちょっとした好奇心になど身をませず、話を切り上げてしまえば良かった。
夏油は今、寝ているらしい。昨日の任務の終わりが遅かったから。五条は睡眠時間が短いので、こうして先に起きて動き回っている。
「てかさ、セックスって子ども作るもんじゃん」
「うわ、御三家の闇が垣間見える発言だな」
「えっ? いや大事なのそこじゃなくって……、俺と傑じゃ出来ないじゃん? じゃあ何のためにすんのってなったら、愛かもねって話」
「惚気スリーアウト退場」
「まだツーアウトだろ!」
審判! と喚いて五条が被ってもいない帽子を床に叩き付ける仕草をした。いやヘルメットか。「審判への口答えはレッドカードな」と適当に言えば「ルールもジャンルもめちゃくちゃすぎる」と呆れたように盛大に首を振った。
「まあ、急所差し出してもいいってのは愛かもね」
なんて投げやりに同意してみれば、五条はまたへらっと表情を崩した。
「でしょ。これが愛かもってねって思ったら結構楽しみ。だからちゃんとしようと思ってさ」
「まだ分かってない段階なんだ」
「たぶんおよそおおむねくらい」
「全然分かってないな」
呆れて肩をすくめて、コーヒーを飲む。
私もなんだかんだこいつらと仲良くなってしまったものだ。こんな話を聞いてやって、愛だの恋だのから縁遠そうに空中を漂っているみたいな五条がね、と感慨深い気持ちになる。いや、なりかけて、結局溜め息を吐いた。五条がぼんやり眺めている、寮のある方向を一緒に見る。
結局、急所がちんこのことだから間抜けな話なんだけど。