三度目の八月

 
 
 
 
 

     3
 
 
 

 五時に目を覚ますと、外はすっかり明るくなっていた。じわじわと夏の気配が強まってくる。
 身支度を手早く済ませカーテンを開けると、その先には朝がある。早朝の薄暗さは既になく、それでいて辺りはいまだ寝静まっている。わずかにひやりとした空気には、夜の匂いも残している。荷物を肩に掛け、コスチュームの入ったケースを掴んで部屋を出た。今日もインターンだ。
 一番乗りだと思った一階には電気が付いていて、人の気配がした。共有スペースのテレビから、ニュース番組が淡々と流れている。
 誰の姿も見当たらないが、轟の手にあるケースと同じものが、ソファの横に置かれていた。きっと同じようにインターンに行く誰かがここに居たのだろう。どこに行ったかは分からないが、消し忘れで放置されているわけではないようだ。
 抱えていた荷物を並べるように置き、そのまま食堂へと向かう。六時を過ぎると朝食の支度がされるが、申請をしておけばそれよりも前に軽食を用意してもらえる。全く有り難い話だ。
 食堂に入ったところで、振り向いた爆豪と目が合った。
「ア?」という声に「お」という声が重なる。
 遅れて「おはよう」と声を掛けるが「はよ」と短い返事と共に背を向けられてしまった。それからガリガリと何かを砕く音が聞こえてきて、ふわりと香ばしい良い匂いが漂ってくる。
「コーヒーか? 良いな、俺にも淹れてくれ」
「勝手に淹れろ」
 爆豪の手元を覗き込むと威嚇された。追い払うように振られた指先の向こうに、小さなコーヒーミルが見えた。朝から豆を挽いてコーヒーを淹れるとは優雅なものだ。ほのかに香るコーヒーの匂いをくんくんと嗅ぎながら、今日の朝食を取りに行く。いつものテーブルに、サンドイッチが一食だけ用意されていた。
「爆豪もインターンか?」
「てめぇもか」
「ああ。なあ、爆豪はもう朝飯食ったのか」
「……おー」
「じゃあテレビ点けたのも爆豪か」
「今朝は二食だけだった」
「そうか」
 サンドイッチに掛けられたラップを外し、ゴミ箱に投げ込む。
 食器棚からお椀と箸を取り、別の扉を開けてインスタントの味噌汁を引っ張り出す。ポットにお湯があったので、ありがたく頂戴して味噌汁を淹れた。
 それらを掴んで、共有スペースのソファ席へ向かう。点けっぱなしのテレビには、今日の天気が映し出されていた。じりじりと日々上がり続ける気温からも、夏の訪れを感じるようだ。
 四人掛けのソファに、端を一つ開けて座る。週間天気予報が言うに、この先一週間は晴れるそうだ。暑い方が好調な男はさぞや上がり調子なのだろうと、まだコーヒーを熱心に淹れていて戻ってこない爆豪のことを考えた。
 一人手を合わせ、味噌汁に口を付ける。クラスメイトなどは、味噌汁を飲む轟を見ると「やっぱり」という顔をする。日本家屋に住んでいて、部屋も和室にリフォームしていると知っているかららしい。やっぱりかは分からないが、インスタントの汁物を選ぶ時、ついつい味噌汁を手に取ってしまう。コンポタージュやコンソメスープを飲まないわけではないが。
 たまごがたっぷり挟まったサンドイッチにかじりつき、ソファに背を預ける。ニュースは近頃の事件の話に移り変わったが、そのほとんどが昨日のもので目新しい話題はない。ぺろりと平らげ、ハムとキュウリのサンドイッチに取り掛かる。辛子が利いていて美味いが、辛いものが好きな爆豪からしたら物足りなく感じたりするするのだろうか。
 ところでその爆豪が、全く戻ってこないのはなぜか。
 コーヒーを一杯淹れるだけに手間取り過ぎではないか。それとも食堂で一人で飲んでいるのだろうか。ずるいという思いがよぎりつつ、何故だという疑問も湧き出る。爆豪はニュースを見るためにテレビを点けたのではないのか。
 人類とそりが合わないなどと言われたこともある男だが、そのために自分のやりたいことを曲げるような奴ではない。むしろ邪魔者を追い払って押し通す側だ。それにあれから二年経って、協調性という言葉とも、それなりに適当に付き合っている印象がある。
 二切れ目のたまごサンドに取り掛かったころ、背後から足音が聞こえて来た。少し擦るような歩幅の大きな足音だ。遅かったな何していたんだと声を掛けたかったが、生憎サンドイッチを頬張っていて言葉にならなかった。
「ん」という短い言葉とも呼べない音を発した爆豪が、味噌汁のお椀の横にマグカップを置いた。カフェオレみたいな色をした飲み物だなと思いながら、口の中の物を飲み込む。爆豪はソファの端に座った。その手にもマグカップが握られている。
「サンドイッチに味噌汁かよ」
 轟の朝食に視線を向け、爆豪が鼻で笑った。
「朝は味噌汁じゃねえか?」
「サンドイッチには味噌汁じゃねえな」
「そういう爆豪は何飲んだんだ」
「コンポタ」
 ふうん、と味噌汁を飲む。冷めきってしまう前に飲み干し、マグカップに目を向ける。それからとなりの爆豪を見る。
「これ、貰っていいのか」
 カフェオレだよなと、爆豪がテーブルに置いたマグカップを見る。そちらにはブラックコーヒーが入っていた。ニュースを眺めていた横顔がこちらを向き、片眉を吊り上げた。
「テメェが淹れろ、つったんだろうが」
「断られたから、淹れてくれてねえと思ってた」
「ほほう」
 なら返せ、と至極悪い笑顔で手が伸ばされたので、慌ててマグカップを遠ざける。
「ダメだ、俺が貰ったんだ」
 奪われない場所まで避難させると、空ぶった爆豪の指先に頬を掴まれた。掴まれたのか抓られたのか、あまり痛くはないが理不尽だ。「いてぇ」と振り払うと「ふん」と指先が離れて顔も逸らされた。
 改めてマグカップを掴み、ミルクで和らいだコーヒーの香りを嗅ぐ。もう一杯コーヒーを淹れていたから戻りが遅かったのか、と思うとくすぐったい。
「ありがとな」
 そう伝えて口を付ける。コーヒーの違いなど分からないが、美味しいと思った。その感動を伝えるべく「爆豪はコーヒー淹れるのも美味いな。喫茶店開けるんじゃねか」と言ったところ「ヒーローになんだよ!」と怒鳴られてしまった。
 それもそうだ。もう一口ゆっくりと飲み込む。
 こそりと横目に爆豪を見る。赤い瞳はテレビを睨んでいて、目が合うことはなかった。手の中にあるマグカップの水面は優しいカフェオレの色をしていて、自分の顔が映り込むことはない。残りのサンドイッチに手を伸ばし口へ運ぶ。
 爆豪が淹れてくれたカフェオレを飲みながら、爆豪と同じソファに座っている。二年前を思えば考えられないことだ。
 となりに座っても怒られないどころか、何気なくとなりに座られることも増えた。話しかけても怒られなくなった。今だからこそそう思うのであって、当時は別段気にしていなかった。爆豪とはそういうものだと思っていたからだ。
 二年前の自分たちは確かに親しくなかった。まだ補講にも行く前だ。
 目と鼻の先で怒る、一年生の爆豪のことを思い出すとあまりに懐かしい。ついつい小さく笑ってしまうと、目ざとく気付いた爆豪が「ア?」と唸った。
「いや、昔はよく爆豪に怒られてたなって」
 昔からなんだかんだ返事はしてくれていたが、会話というには少し遠回りだった。轟がいくら仲が良いと思っていても爆豪は頑なに否定するのが常だった。比べれば今は仲が良いと言ってもいいに違いない。
 なので「やっぱ俺たち仲良くなったよな」と口にした。カフェオレで潤した喉で言って爆豪を見れば、またあの顔をしていた。病院に見舞いに行った時に見た顔だ。
 今回も無言で、あの顔で轟をだた見ている。その居心地の悪さに首を竦める。
「……なんなんだよ、この前から」
「ちったぁ考えろや」
 けっ、と吐き捨てられ視線を逸らされる。「考えて分かることなのか」と問えば視線が戻って来たが、一瞬重なりまたすぐに外される。これ以上は答えない、とでも言いたげにマグカップに口を付けた。
 考えろ、とはなんなのか。
 話す義理はないと言われた方がまだ分かる。相手は爆豪なのだから。視線を落とした先、掴んだマグカップの中身がゆらゆらと揺れている。「なあ」と呼びかける。今度はもうこちらを向いてくれなかった。
「もう怪我いいのか」
「ウッセェ。いつの話してんだ。そもそも怪我してねえわ」
 検査結果はなんともなかった、と辛うじて教えてもらっていた。だがその表情はあの日のことを思い出させる。その理由はなにも分かっていない。「なあ爆豪」と訊ねる。
「お前のこと、誰なら心配しても良いんだ」
 ようやく赤い瞳がこちらを向いた。静かな視線の中に、ほんのわずかな苛立ちを含ませて。それでも何も言わず目を細めると、テレビを消して立ち上がった。
「おい」と背中に声を掛けると「遅れンぞ」と平坦な声が返ってきた。確かにそろそろ寮を出なければいけない。食器類を重ねて食堂へ運び、片付けたのち身支度を調える。片付ける物が少なかった爆豪の方が、ほんの僅かに先に出た。それを走って追い掛け、学校の敷地を出るところで追いついく。
「駅まで一緒に行かねえか」
 となりに並んでそう声を掛けると、面倒くさそうに「勝手にしろ」と承諾された。
 着いてくんなも、並ぶなも、前を歩くなも言われなくなって久しい。やはり仲良くなったに違いないと轟は思う。
 それを否定される方が、まだ分かりやすかった。なのに否定でも肯定でもないものを返されると、どう判断して良いのか分からない。
 並んで歩いた道は早朝にも関わらず、じわじわと暑くなっていた。あっという間に昇った太陽に炙られる。涼し気な朝の空気も、沸騰するように暑くなる。
 疎らに歩く人がいる歩道を進みながら、それでもぽつぽつと話した。ほとんどはインターン関連の話だった。
 いつの間にか蝉が鳴きだしていた。ふと見た爆豪の首筋には汗がにじんでいた。夏だ。夏が来る。
 心配したい。
 そう伝えたらまた無言を返されるのだろうか。
 見上げた空は濃い夏の色をしていて、真っ白で分厚い雲の塊が浮いていた。ちらちらと夏の記憶がよみがえる。土の匂い、焦げ臭い森の匂い、一人病院まで歩く途中に見上げた空の青、新幹線の窓から見た夜の色。指先が掻いた空気の感触。
 駅に着いたら、爆豪とは反対方向の電車に乗る。

 
 
 

     ◇
 
 
 

「終わったあ」
 両腕を突き上げた緑谷が、気の抜けた声を出した。
 座学の続く夏季補習はどうしたって肩がこる。同じ様に体を伸ばして息を吐く。
 ヒーロー科の補習のため、教室内には見知った顔ばかりが並んでいる。それでも雑談に花を咲かせるより、帰り支度をする者が多い。轟も緑谷もその例に漏れず、鞄を手に取った。代わりに寮に戻るまでの道中で話をする。緑谷は友達なので。
 教室を抜け出ていく生徒たちの波に続き、二人も並んで廊下へ出る。途端にじわじわという蝉の鳴き声が耳についた。もう十七時を過ぎたというのに、空はまだ青い。窓の開いた廊下は、空調の効いていた教室と比べて随分と暑かった。見えない熱気の膜に包まれ、蒸し焼きにされてしまいそうだ。吹き込んでくる風も温風とあっては、窓を閉めている方がましに思われる。緑谷が暑さに顔を歪め「うわぁ」と残念そうな声を出した。気休めになればと右側から冷気を送ると、直ぐに気付かれた。
「有り難う轟くん。でもいいよ、君も疲れてるだろ」
「これくらいなんてことねぇ。あれだ、欠伸みたいなもんだ」
「そのたとえ本当に合ってる?」
 広くて天井の高い廊下を、他の生徒に紛れ流されるように進んでいく。階段を下り下駄箱で靴を履き替える。ローファーに踵を押し込み空の下に出れば、これまた暑い。
「緑谷はこれで補習終わりだったか」
「まだ終わってないよ、しばらくお休みなだけ。インターン行って、また戻ってきたら補習漬けだよ」
「今晩もう出るんだよな。忙しいな」
「まあね。ヒーロー免許もだけど、他にも取っておきたい資格が色々あるし。やることだらけだ」
「すごいな」
「他人事みたいな顔してるけど、轟くんもだよね?」
「そうだな」
 夏休みはとっくに始まっているが、休んだ気は全くしない。むしろ通常授業がないことで選択肢が増え、やれることを限界まで押し込んでいるといった様子だ。次の大型連休は冬休みだが、そこまで待っていては遅すぎるものが多い。
 そういえば上鳴や芦戸が「花火浴衣夏祭りスイカかき氷プール」と呪文を唱えていたなと思い出す。そういう二人もみんなも、今はインターンでほとんど寮には居ない。世間が夏休みということは、事件が増える季節ということで、ヒーローは忙しい。
「緑谷ともまたしばらく会えなくなるな」
「とりあえず十日かな。轟くんはまばらに入れてるんだっけ」
「ああ。補習の内容見ながら調整してる」
「かっちゃんもそうだよね」
「そうか? あいつ晩飯の時間に全く見ねえから、インターン行きっぱなしだと思ってた」
「いや補習にも来てるよ! それに晩ご飯は時間ずらしてるんじゃないかなあ。チェックは入ってるし」
 そう緑谷が眉を下げながら言う。
 このチェックとは、朝食と夕食を寮で食べるかどうかの連絡票のことだ。チェックを入れておけば朝晩の食事を届けてもらえる。ここ数日はずっと緑谷と一緒に補習に出た流れで、夕食まで共にしていたのでリストを見ていなかった。緑谷が二人分のチェックを入れてくれたていたからだ。
 知らなかったなと首を傾げながら空を見上げれば、端から夕暮れの色が薄っすらと滲みだしていた。そしてふと視線を感じて緑谷をみると、妙な表情をしてこちらを伺っていた。
「どうかしたか?」
「いや、ううん? うーん」
 何かを言いたそうにしながら、考えるように腕を組んでぶつぶつと何かを言い始めた。「暑いのか? 塩分取ったか?」とポケットから熱中症対策タブレットを取り出そうとすると「大丈夫さっき食べたから、っていうか暑さは関係なくって」と唸っている。さすがヒーローの卵だけあって体調管理には気を使っているようだ。自分が倒れていては世話ないからなと頷き、ポケットに押し込みなおす。
「ならなんだ?」
「あー、うーん」
「なんだよ、気になるだろ」
 歯切れの悪い言葉の先を急かす。これでなんでもないと言われてもすっきりしない。「緑谷」と尚も声を掛けると、顎に手を当てた。探偵ではないのに推理を披露しろと命じられた、探偵ドラマの登場人物のような顔でこちらを見る。丁度この前、そんなドラマを共有スペースで見た。確か葉隠が芦戸と一緒に見ていたドラマだ。
「君って、かっちゃんのこと気にしてるのか、気にしてないのか、どっち?」
「爆豪?」
 急にどうしたと尋ね返すと「やっぱりなんでもない!」と目の前に広がるモヤを振り払うように、両手を振り回した。
 意味が分からず問いかけを重ねようと思ったが、あっという間に寮へと帰り着いてしまった。緑谷はこれから身支度を調えて、新幹線に飛び乗ってインターン先へ向かい、夜のパトロールから参加するのだ。と昨日聞いた。それを邪魔してまで聞きたい内容とはいえなかった。
 渋々「気を付けてな」と寮の二階で別れた。
「ありがとう、轟くんもね」と駆けていく緑の後ろ姿を見送り、五階まで上がる。
 じわじわと夏の喧騒が世界を包んでいるようだが、それでも寮内は静かだった。今日はいっそう人が少ない。他に誰が居るのだろうか。下の階に意識を向けながら蒸し暑い部屋に入り、冷房を付ける。着替えて少しだけ畳の上で横になった。夕食が届くまで時間がある。両手両足を投げ出しい草の匂いを吸い込み、考え込むように寝返りを打つ。
 爆豪を気にしているのかいないのか。とはなにか。
 考えている間に部屋の中が心地よい温度まで冷えてきて、瞼が下がって来た。一日中座って授業を受け続けるというのも疲れる。戦闘訓練の方が疲れると思っていたが、そうでもないのかもしれない。
 はっ、と気付くと部屋の中がオレンジ色になっていた。
 ごろりと転がって体を起こす。机の上に置いている時計を見ると十八時を回っていた。そろそろ夕食が届いている時間だ。のそりと部屋を出る。
 一階へと降り、真っ暗な食堂に電気を点けて入る。妙にがらんとした気配に「あっ」と口を開け、じわりと焦る。いつも夕食が用意されている場所に、なにもなかった。
 壁に掛けられた食事の要不要のリストを確認したところ、今日の夕飯の欄は当然チェックの一つも入っていなかった。寮で食事をとるものはいないようだ。そして轟も、その枠の中に入ってしまっていた。
「しまった」と小声で呟く。
 ここ数日、すっかり緑谷に甘えていたので、自らチェックを入れるという行為を失念していた。後悔は先に立たないものだ。仕方がないので適当に食つなぐことにしよう。蕎麦でも茹でるか。売店まで行って何か買うか。間を取って蕎麦を茹でて売店でも何か買うか。
 売店に行くなら財布を取りに行かなくてはならない。一旦部屋に戻るかと振り向いた先に、人影が立っていた。
「お」という轟の声に「ア?」という声が被る。
 デジャヴだ。急に爆豪と遭遇すると、毎回このやり取りになってしまう。代わり映えしないなと思うが、いつもの遣り取りと思うと悪い気はしない。ちょうど、この前の朝とは逆の立ち位置だ。
「おかえり爆豪」
「……ハ?」
「どうしたんだ?」
 爆豪は珍しく、露骨に困惑しているように見える。眉間に深くしわが刻まれた様子はいつも通りだが、怒気が控えめだ。両手に持ったビニール袋ががさりと音を立てる。スーパーの袋だろうか。食堂に持ってくるということは食材なのではないか、とわずかに期待する。
「爆豪、飯はもう食ったか?」
「……まだだわ」
「じゃあ一緒に食わねか?」
 そう誘うと、爆豪はぐわと牙を剥いた。
「俺は作らねェぞ!」
「……なんで俺の晩飯がないこと知ってんだ」
 爆豪が今日の夕食が必要にチェックを入れていたならば、チェックの入っていない轟にも気付いたかもしれない。だがそうではない。変な奴だなと視線を送ると、盛大に舌打ちされた。
「顔に出てんだよ」
「飯がねえってか?」
 それほど器用な表情筋を持っていただろうか。片手で頬を触ってみるが、当然なにも分かりはしなかった。多少のひもじさが出ていた可能性はある。だがそこから当ててみせたというならば、爆豪はとんでもなくすごい奴ではないだろうか。
 爆豪はもう一度舌打ちし、食堂の中に踏み込んできた。ビニール袋が、テーブルの上にどさりと下ろされる。近寄って覗き込むと、中身は野菜だった。
 瑞々しいトマトやキュウリ、ナス、ゴーヤーなどが入っている。「夏野菜だな」と見たままを口にすると「社長の奥さんの趣味が、家庭菜園なんだと」と教えてくれた。家庭菜園といったが、立派な畑で育てたかのような充実具合だ。二袋にぎっちりと詰められている。
「多いな」
「見てんじゃねェ」
「見るくらいいいだろ」
 眉をひそめる。今日の爆豪は少し変な気がする。
 なにが、とは言い難いが変だ。悪態にキレがない、気もする。爆豪は野菜を袋から取り出しながらなにかを確認し、順次冷蔵庫に投げ込んでいった。幾つかはテーブルの上に残したので、この後使うのかもしれない。
 なにを作るのだろうと好奇心が湧いてくるが、それは一旦心の内に秘める。「時間ずらしてるんじゃないかな」という緑谷の言葉が思い起こされたからだ。折角だから一緒に食べたい。これ以上辺に機嫌を損ね、逃げられては困る。
「別々に作るならそれでいいから、一緒に食おう」
「ンで渋々、別々に作ってやるってツラしてんだよ」
「俺は蕎麦を食う」
「聞けや」
 つかまた蕎麦かよ。という呆れた声を背中に浴びながら、戸棚から鍋を引っ張り出す。一人分を茹でるだけならそれほど大きくなくても良いだろう。鍋に多めの水を入れ、コンロにかける。そのとなりで爆豪が野菜を水洗いし、まな板と包丁を取り出した。どうやら一緒に食べてくれるらしい。ふと目が合うと鼻で笑われた。
「嬉しそうなツラしてんじゃねえ」
「そんな顔してるか?」
「一人飯がサミシイってたまでもねえだろうが」
「そうだが、爆豪と一緒に飯食いてえって思ったから、誘っただけだ」
「ハッ、オトモダチだからか」
 それはこの前、爆豪自身が否定しただろう。そう反論しようとしたが「蕎麦、二人前茹でろ」という言葉に遮られてしまった。ちょうど乾麺を袋から取り出すところだったので、不思議に思いながら二束取り出す。
「俺、そんなに腹減ってねえぞ」
「俺ンだわ!」
 食い意地張った答えするんじゃえね、と怒鳴られたが、つまりは同じメニューを食べてくれるらしい。借りを作りたがらない爆豪が、蕎麦だけ奪い取るとは思い難い。それにまな板の上の夏野菜は、一人分には多いように見える。何を作ってくれるのだろう。逸る気持ちを抑え、ふつふつと泡の沸き上がる鍋底を睨む。それでも隠し切れなかった期待が顔に出てしまっていたらしい。横から「顔」という小馬鹿にした笑い声が漏れ伝わって来た。ハッとして見た爆豪の横顔は、確かに笑っていた。
 嬉しいに混じって、恥ずかしい、という気持ちが湧いて出る。なんだこれと思考を巡らせるも、意識はざくざくと野菜を切り分ける包丁の音へと吸われていってしまった。

 晩飯の支度が終わった頃には、食卓の上には胸躍る光景が広がっていた。食堂にせいろがなく、蕎麦は白い皿の上に載せられているが、それも些細なことだ。
 蕎麦用のつけ汁に、油で炙られたナスが入っている。ごくりと喉が鳴る。ついでに腹も鳴る。心を捕らわれたように眺めていると、となりを通り過ぎた爆豪がまた笑った気配がした。バカにされたようにも感じたが、目で追った後ろ姿はどこか満足そうだった。
 爆豪の後ろ姿は、冷蔵庫から生姜チューブを取り出して戻って来た。「オコノミデ」と棒読みのセリフと共にテーブルに置かれる。そんなものどう考えたって美味しい。けれど最初から入れないということは、入れなくても美味しいということに違いない。半分ほど食べてから試そうと一人頷く。
 食堂のテーブルに向かい合って座る。手を合わせて箸を持つ。直ぐに蕎麦に手を伸ばしたい気持ちをいなしながら、トマトとキュウリのサラダを食べる。採れたてだからかやたらと美味しく感じた。単純に空腹だったこともある。
 サラダを半分ほど食べたところで、本題に移る。蕎麦をつまみ上げ、つゆにくぐらせる。ナスの揚げびたしがつ、やつやと光っている。その分油っぽさを予想したが、全くそのようなことはなかった。つゆ自体もいつもと違う味がする。轟が一生懸命蕎麦の踊る寸胴鍋とにらみ合っている間に、爆豪がひと手間加えたのだろう。
 ずるりと蕎麦を啜って飲み込み、ナスをかじる。これがまた美味い。じゅわりとナスのうま味が口に広がる。だが少し熱かった。はふはふと奮闘していると、向かいの爆豪がまた鼻で笑った。人のことを笑いすぎではないかと思うが、爆豪は笑っている方が珍しい。一年生のころと比べると見境なく怒鳴るようなこともなくなったが、かといって笑顔が売り出されたわけではない。まあ今のは笑顔ではないが。
 ごくりと飲み込んで、吐き出した息は少し熱い気がした。
「爆豪、うめぇ」
 ありったけの感動を声に乗せたつもりだったが、爆豪の反応は「そうかよ」の短い一言だけだった。伝わっていないのかと思い「すげぇうめぇ」と再度申告するも「さっさと食え」しか返って来なかった。
 それから淡々と、食事を進めた。
 爆豪から話しかけられることはなく、轟から話しかけることも、どこかためらわれた。そんな空気があった。
 話しかける隙のようなものが見付からない。目もわざと合わせないようにしているかのようだ。
 そういう空気を読まないのが轟だったが、今日ばかりは変に爆豪のことを眺めてしまって上手くいかない。きっと緑谷が妙なことを言ったからだ。
 気にしているのかしていないのか、だなんて。気にしているに決まっている。それがなんだというのか。なのに今、どうして言葉が喉よりもっと手前でつかえて、何一つ口から出てこないのか。
 それでも蕎麦は美味い。ナスも美味い。少し冷えたことで遠慮なく口に含める。ただ美味い。
爆豪が丁度良く帰ってきてくれてよかっただとか、夏野菜を持たせてくれた社長ありがとうだとか、作らねえぞなんて言いながら結局作ってくれたなだとか、蕎麦をすする合間に色々な考えが頭をよぎる。
 けれどもやはり、爆豪にかけるための言葉になって出ては来なかった。いつもどうやって声を掛けていたのかも思い出せない程だ。爆豪の赤い瞳は蕎麦に向けて伏せられていて、こちらを見やしない。俯いたことで金色の髪の合間からつむじが見えそうだ。
 言葉を探している間に、爆豪が食事を終えてしまった。
 行儀よく手を合わせて箸をおくと、皿をまとめて席を立とうとする。言葉を探して、慌てて喉から押し出す。
「片付け俺がやっとく。飯ほとんど作ってもらっちまったし」
 立ち上がった爆豪に、見下ろされる形で目が合った。どきりとする。また喉に言葉がつまる。
「わかった」
 そう言い残し爆豪が背を見せる。
「おう」
 頷いてそれを見送る。ポケットに手を押し込んだことで少し丸まった背中が、あっさりと遠ざかっていく。迷いなく離れていく。きっと部屋に戻るのだろう。
 それを、もったいない、と思った。それは気付いたら胸の内にあった感想で、どこからやってきたのものなのか分からない。ただぼんやりと巣くっている。
 呼び止めたい。
 そう思うも理由が思い付かない。ばくごう、と呼んだとして、その後にどういう言葉を繋げたらいいのだろうか。振り向いた爆豪は、なんと言えばこちらに戻ってくるのだろう。いつも背中ばかり見ている気がする。気付けば遠ざかっていく。
 考えてみたところで答えは分からないし、爆豪の姿はあっという間に見えなくなってしまった。明日もインターンなのだろうか。そうならば早く寝たいはずだ。呼び止める方が迷惑だったかもしれない。元々爆豪はクラス内でも一二を争うほど早く寝る。その分起きるのも早いのだが。
 残った蕎麦をすする。やはり美味い。
 咀嚼して、飲み込んで、ふと口を開く。
「呼び止めてぇ、ってなんだ」

 
 
 

     ◇
 
 
 

 いつもなにかは暗いところで起きる。
 目を覚ました時、じっとりとした倦怠感が全身を包んでいた。部屋の中は未だ暗く、朝が来た気配はない。寝返りを打つと、ひどく汗をかいていることに気付いた。だが部屋の中が暑いわけではない。いつも通りエアコンがついている。実際に今、暑いと感じない。
 なにか、夢を見ていたのだと思う。
 既に断片すらも覚えていないが、なにかを見ていたのだと分かる、どんよりと鬱めいたものが頭の中を埋めている。
 嫌な気分だ。そう思うが出所は分からない。寝る前にはこれといった嫌な気分もなかった。インターンも、迷子を見付けた程度のなにもない日だった。これほど気落ちする理由は見当たらない。気落ちしている錯覚を起こしているだけで、なにも起きてはいないに違いない。
 肺の中にたまった空気すら重たく感じ、押し出すように吐き出す。うつ伏せになり枕元に置いていたスマートフォンを手繰り寄せる。覗き込むと、まだ十一時だった。眠ってから一時間しか経っていない。
 このまま横になっていても、眠気が戻ってくるとは思えなかった。暗い部屋の中では、いわれのないどんよりとした空気に思考を持っていかれるだけだ。
 がばりと起き上がり、スマートフォンを掴んで部屋を出る。気分転換でもして、眠くなってきたらまた横になればいい。一階まで降りてなにか飲もう。そうすれば気分も晴れるはずだ。
 エレベーターに乗り込み、一階を示すボタンを押した。
 それでも脳みそは勝手に、この気分の悪さの出所を探ろうとする。暗い場所での出来事ばかりを選びあげるのだから、そういう夢を見ていたのだろうか。倒壊したビルでの救助作業のこと、地下施設での摘発事件、お化け屋敷、それから森の中。さらには、と記憶はどんどん過去へと向かって進んでいく。
 思考を振り払うように溜め息を吐いたところで、一階に到着した。暗いはずのエレベーターの扉の向こうは、予想に反して明るかった。煌々と灯りが付けられている。誰かいるのだろうか。今日も寮にいる人間は少ないはずだ。
 また爆豪だろうかと考えていれば「あれ、轟じゃん」という軽やかな声が掛けられた。
「上鳴」
 声の主はソファに腰かけていた。振り向いてこちらを見ると「おーっす」と手を振った。
「帰ってたのか」と聞いたのは、上鳴が今日インターンに行っていたと知っているからだ。
「そ、さっきな」
 にまりと笑う上鳴の顔に漠然と安堵した。やはり夢見が悪かったのだろう。他人と話したことで夢の気配が薄らいで、現実へと戻る心地がした。
「どした、轟」
 なんかあったのか。と目聡く異変に気付いた上鳴に真摯に見つめられ、苦笑する。三年になった上鳴は、実績に伴う自信がついて堂々としてきた半面、軽薄そうに見られることも増えた。けれど良く人のことを見ているいい奴だ。
「寝苦しくて起きちまった」
「あー。分かるぜ、今日暑いよなー。この時間だってのに、正門からここまでの間歩いただけで汗だくになったしな。つか相変わらず寝るの早ぇよな」
「そうか?」
 首を捻ると「だってまだ今日じゃん」と上鳴は言う。明日になってから寝ては遅くないだろうか。
 上鳴はふと考えるように俯いたのち、手招きをした。呼ばれるままにソファの背後に近付くと「まあまあ座れって」と座面を叩かれる。
回り込みそこに座ると、上鳴が手にアイスを持っていることに気付いた。長方形のモナカに、アイスとチョコレートの板が挟まれているやつだ。それを真ん中で半分に割ると、轟に向けて差し出した。
「いいのか」と尋ねると「眠れないんだろ。ちょっと話でもしようぜ」と押し付けるように渡された。いびつに割れたチョコレートとアイスの断面を眺める。
「ありがとな」
 お礼を言い一口かじると、となりから「くくく」という悪い笑いが聞こえて来た。
「これで共犯だ!」
「なんでだ」
「いやーさすがにアイスをこの時間に食うっていう罪悪感? みたいなものが、ちょーっとあったわけよ」
「悪い、ことなのか」
「ああ。悪い」
「マジか、犯罪の片棒を担いじまった」
 ヒーロー候補生なのに。というと上鳴がげらげらと笑った。「轟も冗談上手くなったよなー」
 そうアイスをかじりながらいう。
「いやーでも、仮免じゃないマジの免許取得も近くなってきただろ。体重増加とか気にしちゃわない?」
「おう。思ったより増えてかねえから最近気にしてる。爆豪に身長勝ってんのに、体重負けてんの悔しいんだよな」
「あー、そっちかー」
「クソ親父がアレだから、俺ももっと筋肉ついてもよくねえか」
「えー轟がアレになんの俺やだな。顔と合わなくない?」
「顔が関係あるのか?」
 筋肉が付きそうな顔があるのかと、知っている筋肉質な奴の顔を順に思い浮かべていく。しかし特に共通点は見当たらない。アイスをかじりながら眉間にしわを寄せていると、上鳴は背伸びするようにソファにもたれ掛かった。
「いやーしっかし、なんかこういう感じも久々だなー」
「こういうって」
「ほら、最近みんな忙しいだろ。ここに集まってだらだらする機会も減ったなーってさ。あっても全員集まれなかったり」
「確かにな。上鳴と話すのも久しぶりだ」
「なっ。一年の時から忙しいって思ってたけど、やっぱ三年になると違うよな」
 ちょっと寂しいよな。という言葉に頷いて答える。
 イベントごとが好きなクラスメイトが多いので、なにかと集まる機会はある。企画事がグループメッセージで飛んでくるが、今は半分も集まれたらいい方だ。
「でさ、轟の方は最近どーよ」
 にやついた上鳴に肘でつつかれる。最近か、と溶けかけたアイスを全て口に放り込み、咀嚼する間に考える。
「就職先のことはまだ少し悩んでるな」
「えっ、エンデヴァー事務所じゃねえの?」
「今のインターン先もありだって思う」
「今のって、救助活動がメインのとこだっけ」
「ああ。結構重宝してもらってるし、個性の活かし方の選択肢も広がったからな」
「俺だったら轟の個性、戦闘に生かさねえのもったいねえって思っちゃうけどなー」
「そういう上鳴はどうだ?」
「俺は順当に今のところにそのままー、だな。実質内定! みたいなもんだし」
「さすが上鳴だな」
「トドロキって、時々正面からの直球で来るからすげえよな」
 電気くん照れちゃうぜ。と上鳴が顔を覆った。意味が分からず首を捻る。
「俺とかはさー、褒められ慣れていないのよ。切島とかは直球で凄いって言ってくれるけど、たまに半笑いだしさあ。瀬呂はこどもあやすみたいに言うし、爆豪は爆豪だし」とうめく。
「褒めるのが上手いって言うと、緑谷とかうまいぞ。飯田もうめえ」
「緑谷のあれ褒めてるっていうか、分析されてね? つか轟のモノサシで言ったら全員褒めるのうまそう。爆豪以外」
「爆豪はな」
 四階で眠っているだろう男の姿を思い浮かべる。それからエレベーターを振り返る。当然そこには誰もいなかったのだが、上鳴も同じように振り返っていたので笑った。
「まあ、免許取れなきゃしょうがねえし、まずはそっちだな」
「な。あー考えると緊張してくる。どう考えても仮免よりむずいだろ」
「上鳴なら大丈夫じゃねえか?」
「褒め殺し!」
 上鳴だけではなく、クラスメイト皆の合格を信じて疑っていない。当然自分もと言い聞かせるが、一度仮免を落ちた身としてはひやりとするものがないとは言えない。
 膝の上で握った拳を眺める。その横で上鳴が羞恥に足をバタつかせた末、テーブルで脛を打って悶絶していた。
「じゃなくて!」
 突如上鳴が膝を叩いて叫んだ。急な大声に思わず肩が揺れる。
「こんなマジメな話じゃなくて、もっと浮ついたやつくれよ!」
「うわ、ついた奴」
「誰それみたいな顔しないで。違うんだって。俺はさあ、誰が好きだの告白しただのされただの、彼女が欲しい童貞捨てたいみたいな話を頭空っぽにしてしたいわけ」
「おお」
「あっ! でも彼女出来て童貞捨てた話は急にすんなよ。心の準備がいるからな」
 上鳴はわっと叫んだかと思えば、てのひらをこちらに向けて話を制してくる。その手の話にうまくのってやれるだろうかとじわりと焦るとなりで、上鳴は大きく両手を広げて深呼吸した。わざとらしく吸って吐いて「よし」と頷いた。
「で、轟はどうよ。浮いた話あるのか? さすがにあるだろ、告白されたとか」
「いや、ねえな。最近忙しいしな」
「轟でもねえのかよー! なら俺がなくても仕方ねえよな」
 誰ならあるんだよ。と上鳴が天を仰いだ。仰いで「ん?」と声を漏らしたかと思えば、がばりと体をこちらに向けた。
「最近じゃなかったら、あるのか」
「おお。たまに。最近は、夏休みだからあんま人に会わねえ」
「マジかよ、どんな子だ。かわいい子いたか、ちょっと付き合ってもいいかも、みたいな子いたか?」
「ねえな……、だいたい知らねえ人だし」
 それよりも、表情の消えた能面のような顔の上鳴が詰問してくることの方が怖い。思わず避けるように仰け反ると「うらめしい」と静かに言ったのち、また天井を仰ぎ見た。うらやましいではないのか。峰田に羨ましいと泣かれたことがあったが、知らない相手と付き合うなど考えられなかった。「あとから知っていけばいいだろ」と言われても、逆ではないのかと思うばかりだ。そういうのは、もっと。
 ふと爆豪のことを思い出したが、上鳴が大げさに背中を丸めて顔を覆ったので吹き飛んでしまった。
「轟にも彼女が出来ないんじゃ、誰に彼女が出来なくてもしかたないよなって思ったところで、俺に彼女がいないことに変わりねえんだ!」
「そうだな」
 丸まった背中をそっと撫でてみる。麗日がよく誰かにやっているのを見る、それの見様見真似だ。
「……轟が今俺を慰めてくれていることは分かるんだけど、そうだなは刺さった」
「なんか、わりぃ」
「いいんだ……轟に悪気がないことは分かってるから」
 上鳴が体を起こしたので、背中に置いていた手をそっと離す。俯く上鳴はこの世の絶望の淵を覗き込んだ顔をしていたが、それを振り払うようにソファにずるりともたれかかった。
「雄英生になったら、さぞやモテまくるだろうと思ってたんだけどさ。そんなことねえし、忙しいし、モテるどころか彼女の一人もできないまま、三年間が終わっちまいそうだな」
「まだ半年あるだろ、諦めるなよ」
 励ますと、上鳴は安らかな笑みを浮かべた。
 どういう意味の顔なのだとうかがっている間にも、ずるずるとソファからずり落ちていく。地面に落ちる寸前で飛び上がりソファの上に戻って来た。そして深く息を吐きだした後、話題をなかったことにするかのように「ところで」さと表情を切り替えた。
「なかなか揃わないつっても、寮でこうして気軽に誰かに会えるのもあと半年なんだよな」
「そうだな」
「あっという間に三年の夏だもんな。卒業もあっという間に来るんだろうな」
 さみしいな。と上鳴が笑う。かと思えばパンと手を叩いた。
「今のでいい話っぽくまとまっただろ? よっしゃそろそろ寝ようぜ!」
 ウインクをして立ち上がる姿に思わず笑い、その背中を追う。
 確かにそろそろ眠れそうだ。