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「お」という声が漏れたのは、抱きしめられたと気付いた時だ。
夏休みも終わり、暦はゆっくりと秋へ向かっていた。新学期になると教室で顔を合わせることの方が多くなった。だが、夏休み前と比べて変わったことは少ない。
爆豪と恋人になった。と思う。
一番の変化は、お互いの部屋で一緒に課題を片付ける習慣ができたことだろうか。得意分野を教え合いながら、二人で静かに過ごしていると居心地よかった。
今日も爆豪の部屋を訪ねていつも通りに課題を片付け、そのあとはパソコンで過去の事件の動画を並んで眺めていた。間近に控える、ヒーロー免許取得試験の対策を兼ねてだ。
ベッドに背を預けて並んで座り、あれこれと意見を出し合う。ヒートアップして言い争いになることも少なくないが、今日は穏やかに終わった方だと思う。意見の方向性が一致したというべきだろうか。
そして唐突にこれだ。
パソコンをシャットダウンし、テーブルに置いていたお茶で喉を潤して、ベッドに背を預け直した。そろそろ部屋に戻るか、もう少しゆっくりしていくか。そんなことを考えていたと思う。
ベッドに置かれた時計を確認しようと首を捻ったところ、急に腕を引かれたので振り向いた。ズッとテーブルの脚がフローリングを擦る重たい音がして、爆豪がもたれかかって来た。そう思ったのだが、それが間違いだと気付いたのは、両腕が背中に回された時だ。
体が引っぱられ、爆豪の腕の中に収まってしまった、としか言いようがない。爆豪の額が肩に押し付けられ、金色の髪に頬をくすぐられる。
平常時から高い爆豪の体温が、うすっぺらな夏服越しに伝わってくる。露出した首筋に触れる手のひらなんて熱いほどだ。
唐突で不格好な抱擁の体勢は悪く、ぺたりとてのひらを床について体を支える。
それから戸惑った。単純に、予想していなかったからだ。どたばたとうるさく心臓が走り始める。クーラーの効いた部屋だというのに、暑いと思った。
「おい、爆豪。どうしたんだ」
なんとかそう尋ねると、背中に回された指先がぴくりと動いた。それからゆっくりと、肩に置かれていた爆豪の頭が持ち上がる。見えた赤い瞳は、それはもう怪訝そうにこちらを睨んでいた。轟の体を抱きしめていた腕がほどけ、爆豪が離れる。正面を向くように座り直したので、答えるように尻に敷いていたクッションごと向き直った。
抱擁の直後とは思えない顔に睨まれる。また何か爆豪の意図しないことでも口にしたかと思考を巡らせるが、全く思い当たらない。今発したのは「お」と「どうした」の二つだけだ。どうしたと問いかけただけで怒られる理由が分からず、じっと見つめ返す。
「てめえ、今更違ェとか言うんじゃねえだろうな」
「なんの話だ」
素直に返すと、爆豪が頬をひきつらせた。
「恋人になってくれっつったのはテメェの方だからな!」
「お?」
腕を組んで思考をやり直す。
「俺たち恋人じゃねえのか?」
「そうだわ!」
そうなのか、ならいいな。と頷くと「そうだがそうじゃねえ」と爆豪が唸った。
「だったら今のはなんだ」
「今の、って。どうしたって聞いたことか?」
「そうだ」
苛々とした様子で短く答えられた。しかし実のところ、心臓がうるさくて頭が回らない。代わりに目が回りそうだ。
そうだ、爆豪が急に抱きしめてくるから良く分からなくなったのだ。恋人になってからかれこれ二週間ほど経つが、その間なにもなかった。なので爆豪は、恋人になっても変わらないやつなのだろうな、と思っていたところだ。
もしやこれか、と思い当たって膝を打つ。
「違ぇ。なんつーか、爆豪がそういうことする、キャラ? だと思ってなかったから、驚いただけだ」
「しれっと失礼なこと言いやがるな」
舌打ちの音が響いて、まばたきを返す。
改めて考えてみるが、爆豪という男と、世間一般がいうところの恋人の像が結びつかない。愛を囁いたり、好意を態度で示したり、そういうものだ。
自分にも他人にも厳しい男だ。甘い空気を作り出す様子が思い浮かばない。そもそも轟自体、甘い空気など吸ったことがない。なのでより驚いただけだ。
「爆豪でも、そういうことしてぇもんなんだな」
「してぇに決まってんだろ」
「決まってんのか」
それは悪いことをしたと謝罪すると、爆豪は背中を丸めて額を押さえてしまった。ということは最低でもこの二週間、爆豪はそれを隠していたということだ。轟がすっかり気付かず、無きものとして流してしまうほどに。感情をあらわにすることが上手いくせに、こういう時は隠すのが上手い奴だ。
「我慢させちまってたんだな、悪い。今からなんかするか?」
俯いたつむじに向かい声を掛けると、般若が顔を上げた。
「ヒーロー免許取れるまでシねェ」
「お前本当にストイックだな」
「ここで落ちたらシャレになんねえだろ」
「おお。ちゃんと二人とも合格しような」
「ったりめーだわ」
はあ、と爆豪が深々と息を吐いた。膝の上で頬杖を着くと、轟へゆっくりと視線を投げてくる。急に凪いだ穏やかな色を見せるので、どきりとしてしまう。
「いちおう、分かってんならいい」
「恋人だってことか?」
「おー」
どうやら察しの良い爆豪でも、轟が爆豪の恋人という地位にひそかに喜んでいたことには気付かなかったらしい。勝手に人の気持ちに気付いておきながら、これには気付かなかったのか。そう分かってしまうと、笑いが堪え切れず唇の端に現れてしまう。当然これには気付かれた。
「ンだよ」と顎で話を催促される。
「いや、爆豪は知らねえかもしれねえが、俺はけっこう喜んでるぞ。爆豪が恋人なこと」
「ほう」と何故かさらに先を求められた。これ以上なにをどう答えろと言うのか。考えていると、色々思い出されてくる。緑谷に言われた「心配したいの?」に対する答えも「気にしているの?」に対する答えもすんなり見付かった。ついでに上鳴の言った「彼女が欲しい」に対しても、なるほどと思うこともあった。そうだそれだ、と口を開く。
「俺と恋人だったら、爆豪に彼女出来ねえだろ」
「……ハ?」
「爆豪はそういうこときっちりするタイプだろ。よく考えたら、他のヤツに盗られたりする可能性もあったんだよな。危なかったな」
つまり轟としては、爆豪を心配する権利も、こうして部屋を訪ねてだらだらする権利も手に入れた上に、恋人という枠が一つしかない場所に納まったので、大変お得な気持ちだった。
ということを説明したところ、項垂れられてしまった。またつむじが見える。「まあいいわ」と投げやりな返事に少しばかり腹が立ったので、つむじを押してやったら指を掴まれ怒鳴られた。
「つか爆豪はどうなんだよ。俺にばっか言わせやがって」
「ハァ? てめぇ分かってんだろ。ンでわざわざ言わねえといけねェ」
「俺ばっか言ってるからだ。お前、しょうがねえなしか言ってねえぞ」
爆豪が「しょうがねえ」と言って折れている時点で、大変なことだと今では分かる。だがそれとこれとは話が別だ。
言え、と睨んでいると爆豪も負けじと睨み返してくる。どうして睨み合っているのだろうな、と我に返ったところで爆豪がため息を吐いた。
「さんざん特別扱いしたってのに気付かねえクソ舐めプが」
「そうなのか?」
「そうだわマジでふざけんなよ!」
挙げ句の果てにはオトモダチときやがって。と爆豪に顔面を掴まれた。指先が眉間にめり込みなかなか痛い。今爆破されたら重症になるなと頭の片隅で思いながら、それよりも特別扱いを受けていたという事実に浮き足立つ。
具体的にどれ、と言い難いことが勿体なかった。しょうがねな、と折れてくれる以外に何があっただろうか。緑谷に聞けばわかるだろうか。爆豪を見慣れているので、例外の行動が目についているのかもしれない。もしかして、だから妙に問い掛けて来たのだろうか。
考えていると、ぽいと投げ捨てるように手が離された。
「分かれや」
溜め息交じりに吐き捨てた爆豪の耳が少し赤かった。
それを眺める今の気持ちが、きっと好きだとか、そういう名前で呼ぶものなのだろう。そう思った。
「なあ爆豪、免許取れたら恋人っぽいことしような」
「……してえんか」
「おお。デートとかしてぇ。恋人の特権だろ」
恋人ならしても良い事を、とりあえず一通りしてみたい気がする。何せ恋人なのだから、その特権は全面的に使用していきたい。そして心配もしたい。
爆豪はこちらの様子を探るように視線を向けてくる。この夏良くみた視線だが、どうやらこれは真意を探っているもののようだ。本気で言っているのか確かめたいのだろう。本気だと視線に乗せて見つめ返すと、根負けしたように爆豪が後頭部を掻いた。「わかった」と答えた声はぶっきらぼうなようでいて、少し浮ついていた。
「あとな、爆豪が何考えてんのかももっと教えてくれ。好きなやつのことは知りてえ」
さらりと伝えると、爆豪が言葉を喉に詰まらせた。照れたのかと顔を覗き込もうとするとまた顔面を掴まれたが、先ほどよりてのひらが熱い気がした。押されて首が反る。ギブアップと腕を叩くと解放された。
取り繕うように爆豪が睨んでくるが、目元も赤くては見ているこちらの方が照れてしまう。こういう、心臓がうるさくて、ふわふわと覚束ない気持ちとの付き合い方が分からない。俯くと自分の手が見えた。膝の上にぎこちなく置かれた指先だ。
「それに、これからのこととかも、話さねえとだろ」
沈黙に耐えかね、轟から口を開く。
これから。高校を卒業して、ここを出て行ったあとの話。
「あと半年しかねえし。プロになる準備も色々あんのに、忙しいな」
「んで、デートもすんだろ」
「する。あと部屋も探さねえとな」
「てめえ一人暮らしすんのか」
「おお。爆豪もそうじゃねえのか? 一緒に住むだろ」
「……あ?」
「住まねえのか?」
だって恋人だろう。というとまた睨まれた。かと思えば気が抜けたように笑うので、全く心臓に悪い。
「互いの就職先と、条件次第」
「お、う」
「まあ、全部免許取れてからだな」
「うん」
首を縦に振りつつ俯くと、にやりとした顔が覗き込むように視界に映り込んできた。「どうした」と分かり切った顔で聞いてくるので腹が立つ。
「急に爆豪が笑うから悪ィ」
「そいつは悪かったな」
悪いと思っていない顔。とはこの顔のことを言うのだろう。
じわじわと登ってきている熱を逃がすように息を吐く。そうすると不思議と笑えて来た。つい先ほどまで、恋人になったからといってそれっぽいことは何もないな、などと思っていたというのにあっという間にこれだ。ただのクラスメイトではなく、友達としても認められなかったが、ここの椅子は特別だ。
免許が取れたら何から始めよう。
したことのないことばかりだ。
それまでにもう少し、恋人らしい、に対する心構えをしておかなければならない。抱きしめられてあたふたしていては到底身が持たない。そう考えた直後、目の前の爆豪が両手を広げた。てのひらがこちらに向けられている。呼んでいるようにも見え、首を捻る。
「なんだ」と恐る恐る尋ねる。
案の定「こっち来い」と言われてしまった。
早くしろ、と急かされる。
「免許取れてからじゃねえのか」
「こんくらい恋人っぽいに入んねえわ」
「う」っと、爆豪の口から出た恋人という単語に声が詰まる。
向かい合ったまま、睨み合う。体の動かし方を忘れてしまったかのようだ。腕も膝も、指の一本も言葉の発し方もあやふやな中、瞬きだけ出来ていた。
「そっちから来てくれ」
「テメェが来い」
これ以上譲歩する気も動く気もないと言いたげに鼻で笑われる。頑固なやつだなと、どうにかこうにか脚を動かして膝を立てる。のそのそと移動する、そのたった二歩の距離があまりに遠く感じた。
「自分から行くのすげえ恥じぃ」
恨めしく睨むと爆豪が喉を鳴らす様が見えた。そのまま広げられた腕に捕まえられて抱きしめられる。先ほどと違って今度は正面からだ。
この感情に、よく気付かないでいられたものだと思う。爆豪はもうずっと前から気付いていたのだろうか。気付いていたから拗ねていたのだろうか。だとしたらかわいいやつだと思う。
だが今はそれよりも、触れる体温の高さに目が回りそうだった。背中に回されたてのひらの形が、はっきりとわかる。おそるおそる爆豪の背中に手を回すと、自分の手の熱さに驚いた。妙に恥ずかしくなって、隠れるように爆豪の肩に額を押しつけた時、さきほどの爆豪もこういう気持ちだったのだろうと気付いた。
どくどくと脈打つ心臓の音が響いている。心臓が走れば走るほど、熱が上がる。
「爆豪、あちぃ」
もう夏も終わるというのに。