(綾主)
春風が強く吹いていた。
「何だっけこういうの、春一番だっけ」
隣りからおかしそうな声が上がった。風に乱れる髪を片手で押さえつけながら、隣りを見上げる。折角綺麗に撫で付けた髪をぼさぼさにしながら、今にも風にさらわれそうな、首元のマフラーを必死で押さえる姿があった。
「それはもう終わった」
「あれ、そうだっけ」
「それより、マフラーはもう良いんじゃないの」
「えーこんなに寒いのに」
「風が吹いてる間だけだろ。風が吹いてなかったら結構暖かいけど」
「うーんでも今はやっぱり寒いからこれでいいよ」
彼は笑って青目を細めた。そうしてまた一際強く風が吹き、油断していたのか、二三歩よろめいて後ろに下がった。わあわあと慌てる声が上がる。苦笑しながら彼に向けて手を差し出す。彼は手を取りながら「どうも僕は歓迎されてないみたい」と口をとがらせた。「自然に嫌われるなんて相当だな」と笑う。
「そんなに悪い事した覚えはないけれどなあ」
「知らないうちに何かしたんじゃないのか」
「うーん、心当たりないよ……」
「じゃあ取り敢えず、女の子に片っ端から声掛けるのでもやめれば」
掴んだ手を引っ張りながら歩き出す。会話の間も風は止まず、相変わらず前髪が視界を遮って鬱陶しい。けれど、それ以上に隣の男は大変そうだった。飛ばない様にと掴んだはずのマフラーに、今度は視界を奪われている。
風に翻弄されるマフラーを何とか押さえつけた彼の、青目がこっちを見る。
「けど僕、浮気はしてないよ。誓える」
胸に手を当て、真剣な顔をし、そう宣誓した瞬間、狙ったかのように突風が吹いた。手を離していた所為でマフラーは風に見事にさらわれ、前方へひらりと飛んで行ってしまう。
叫び声を上げながら、掴んでいた手が離れ、彼はマフラーを追いかけながら走って行った。その後ろ姿を見送る。黄色が一色掛けただけで、彼はなんだか地味になった。
のんびりと歩いて近寄る。マフラーを拾いながら呻き声を上げる背中は丸まっている。大きな猫みたいにも見えた。
「……浮気したんじゃないの?」
笑ってしまいそうになるのを必死に堪えながら、そう声を掛ける。彼は慌てて、マフラーを首に巻き付けながら立ち上がり、これまた真剣な顔を作った。
「僕のこの永い時間の中で、一度たりとも浮気したことはないよ。誓うよ」
ここでまた突風が吹けば面白いのになあ、と思ったがそんな事はなかった。風は少しだけ収まって、春の暖かな日差しが柔らかに降り注ぐ。
「たったそれだけの人生の間で永いも何もなあ」
「永いよ。君が思ってるよりずっとずっとね。ずっと僕は君に一途だよ」
「ふーん?」
「……もー、そうやって僕をからかって遊ぶんだから」
肩を竦めながらわざとらしく淋しそうな顔を作るから「そうだよ。疑ってない」と笑って見せる。
先ほど離れた手を、今度は掴まれて再び進みだす。
少し進むと右手に公園が見えてくる。公園をぐるりと囲む様に、桜の木が植わっている。今がまさに満開だった。
「春だねえ」としみじみ呟く声に「そうだなあ」と同じくしみじみ頷く。
花弁が、風に吹かれる度に舞い落ちては積もっていく。薄桃色に染まるアスファルトの上を、申し訳ないなあと思いながら踏み進む。
「また春だねえ」
穏やかなその呟きを、掻き消すかのように風が強くなる。轟々と吹き荒れて、吹雪の様に花弁が飛ぶ。枝が揺れ、音を立てる。それが桜の花が散る音の様に聞こえた。
「今度はマフラー飛ばされないようにしろよ」
「そうだね! 気を付けなくっちゃ」
「もう結んでおいたらいいんじゃないか?」
「えっ、どこに」
「……どこにじゃなくて」
説明するのが面倒になって、手を振りほどき、後ろに回る。風にはためくマフラーの裾を掴み、首の後ろでぎゅっと結ぶ。「あっ、今僕殺されそうになってたりしないよね? 大丈夫だよね、日時間違ってるよ?」とバカな声が前から聞こえたので頭を殴る。すると「絞殺じゃなくて撲殺!」と手を叩くので、マフラーを器用に蝶々結びに直しておく。この春の陽気の中、首の後ろでマフラーを蝶々結びにしている男子高校生なんて、その発言と同じくらいの馬鹿さ加減で丁度いいんじゃなかろうか。
「なるほど、これならマフラー飛ばされちゃう心配しなくていいね」
「それにしてもさ、ほんと今日は風が強いな」
ビニール傘でも広げようものなら、一瞬で骨組みだけにされるだろう。今日が雨じゃないのが、救いなほどだ。まあ雨天だったなら、こうして外を歩いてなどいないのだけれど。
「こうも風が強いと、桜も一瞬で散ってしまいそうだね」
「なんか勿体無いな」
「そうかな」
話している間も、ずっと花弁が舞い散っている。あまりに一瞬の輝き過ぎる。もう少しくらい、時間を惜しんでもいいんじゃないか、ってくらいだ。
「僕はそれも儚くて、好きだけれどね」
「あ、そういえば散ってる桜の花びらを、地面に着く前につかめれば、好きな人と両想いになれるとか聞いたことあるな」
「……浮気してないよ?」
「その話いつまで引きずるんだよ」
はあ、と吐いた溜息さえも、風に一瞬でさらわれて掻き消えた。
一瞬溜息の合間に俯いた、その瞬間にぐいと手を引かれた。びっくりして足がもつれて彼の肩にぶつかる。何をするんだ、と顔を上げれば、白い腕が空に向けて伸ばされていた。空中で何かを掴む様に手を握りしめると、その白い手が眼前に差し出される。
「はい両想い」
白い指の間から、桜の花弁が一枚出てきた。これを掴むために引っ張られたのか、と思っていると、あっという間にその花弁が風にさらわれた。目で追うが、一瞬で他の花弁と混じってしまう。どれがそれだったかなんて、すぐ分からなくなる。
「わー僕の両想いがー!」
「これ以上何と両想いになるつもりだよ」
「わあ、それは熱烈な告白」
「別に熱烈じゃないだろ。それにしてもほんと、風止まないな」
「そうだね。春一番じゃないなら何だっけ、青嵐?」
「それはもう少し先じゃないか」
「えー。じゃあ春の嵐?」
「知らないけど。でも折角満開なのに、すぐ散ったら勿体無いよな」
「またすぐ咲くよ」
「すぐって、一年後だろ」
「そうそう、たった一年だよ」
たったねえ、と彼の顔を見る。春の日差しを取り込んで、きらきらと青目が光っていた。
「何がそんなに嬉しいんだ」と、何故か口から零れた。口にしてから、彼がやけに嬉しそうな顔をしていることに気が付く。
彼は答えなかった。
ただ笑って、綺麗な青目をゆっくりと細めるばかりだった。
セットしていたアラームの音に目を覚ます。
枕元に置いた携帯電話に手を伸ばし、手探りでアラームを止める。
そのままの姿勢で、暫くうとうとと瞬きを繰り返し、支度しなくては、と体を起こす。
携帯電話の画面を確認する。四月七日、七時五分。
まだ、時間は大丈夫。
(四月六日の夜の夢の話)