水葬

(綾主)

 恭しく取られた左手に青色をした指輪をそっと乗せられる。
 まめや傷で彩られた、とても綺麗とは言えない左手。それを傷一つない白い指が繊細な硝子細工を掴むかの様に柔らかに触れる。白い指先を桜色の爪が彩る彼の右手。その薬指には灰色の指輪が控えめに収まっている。左手の上に乗る、青色の指輪の色違いだ。
「大切な人には指輪を贈るものだって聞いたんだ」
 一体誰にそんな事吹き込まれたんだ。
 指輪を左手へと贈る事は、場合によっては大きく意味が異なってくる。
「それくらい知っているよ。だから僕は、君に生涯を誓うよ。僕のこの、命が終わるその時まで」
 そんな大切な物を簡単に受け取れるわけがない。
 けれど彼の目は宝石の様に輝いていて、その言葉に何の嘘偽りもないも無い事を伝えてくる。光が瞳の中で乱反射を繰り返していて、きっとこの世界のどの宝石にも勝る美しさだ、そう思った。
 美しい宝石を目の中に飼う、彼の言葉を否定しても意味が無い事は分かっていた。受け取りを拒否したところで、何の意味もない。これは契約ではなく、宣誓だ。誓いは言葉に乗せた時点で成立していて、たとえお前の生涯など欲しくもないと言ったところで、既に彼の命が終わるその時までは捧げられてしまった。
 手の中の青い指輪を転がす。
 指輪なんて、はめていられない。
「僕も、君は指輪なんてしないと思っているよ」
 じゃらりと銀色の鎖が掌の上に追加される。さらさらと砂の様に鎖が、白い指の間から手の中に落ちてくる。傷一つない指が、青色の指輪と銀色の鎖を再び摘まみ上げる。
 指輪は鎖に通され、鎖は首へと回される。白い指が首筋に触れ、宝石の瞳が伏せられ、長い睫毛が影を落とすのが間近に見える。金属のぶつかる高い音がして、首に指輪がぶら下がった。鎖の感触が、冷たい。
「これならどうかな。鎖は少し長めにしてあるから服を着てしまえば見えないし。ああ、そうじゃないよ。君に同じことを誓わせたい訳じゃないんだ。ただ僕の誓いを受け取ってくれたら嬉しいなって」
 首にぶら下がる指輪の青と、目の前の宝石の色を見比べる。ちかちかと目映い。目を閉じても、残像がちらつく様な気がした。
 貰うばかりでは不公平だ。
 瞬きを繰り返す。宝石のような彼の瞳に、自分の目はどう映っているのだろうか。その指に嵌る灰色と同じ色をしているのだろうか。
 ならばいつか終わる時まで。その時までを誓おう。

 綾時が生涯を終える、その時まで。

  ◇

 波音が続いている。
 眼下では波が防波堤を打っている。それをずっと見下ろしている。頬を撫でる二月の風は冷たく、潮風が一層体温を奪っていく。吐き出す息は何処までも白く煙り棚引き消えていく。
 欄干に乗せた、固く握っていた掌を開く。うっすらと付いた丸い跡と、その形にぴたりとはまる指輪が転がり出る。灰色の何の飾り気もない細い指輪。掌の上で幾度か転がし、再び握りしめた。冷やりとした金属が、また指に包まれる。
「お前」不意に不躾な声が横から飛んできた。視界の端に赤が映る。「お前、同じ寮の」
「……緒張です」
「そうだ、緒張だ」
「なんですか……真田、先輩」
 声を掛けてきた人物の名前を少し自信なく呼ぶが、特に否定も怪訝な顔もしなかったところを見ると、名前は真田で合っているようだ。赤いマフラーを潮風に棚引かせながら、真田は自然に隣に並んだ。
「緒張、お前こんなところで何してるんだ」
「……いえ、特には」
「寮から一時間近くも離れた場所に何の理由もなくいる訳がないだろ」
「はあ、まあ。そういう真田、先輩は」
「俺か、俺はボクシングの関係でな。直ぐそこのジムに用があっただけだ」
「そうですか」
 真田の無敗のチャンピョンという話は有名だった。知ろうと思わなくても知っているくらいだから、相当有名なのだろう。白いコートに白いパンツ、赤いマフラーに身を包んだこの姿からは、あまり想像が出来ないが。きっと、強いのだろう。
 眺めていた海は夕暮れに照らされて橙色に染まっていく。ちかちかと光を反射する水面が眩しい。この海沿いの歩道には、あまり人が居ない。きっと寒いからだろう。舗装は新しく、ベンチも綺麗で、欄干だって凭れ掛かれる程に綺麗だ。なのに人は居ない。だから目立ったのかもしれない。だから、話した事も無い真田に見付かり、声を掛けられたのかもしれない。
「真田先輩、は卒業後もボクシングに進むんですか」
「いや、ボクシングは体を鍛える為だけだからな。トレーニングに続けるが、大学の専攻は別だ」
「そうですか」
「訊いてきた割に興味なさそうだな」
「すみません」
「まあ今まで話した事も無かったしな。一年も同じ寮に住んでいた割に、顔を合わせることすら稀だったな……変な話だが」
「そんなもんじゃないですか、寮なんて」
 はあ、と吐いた息は相変わらず白かった。
 住んでいた巌戸台分寮は、昔ホテルだったところを改装したという変わり種で、内装は寮にしては豪華だった。ラウンジには広いテーブルと、大きなソファ。二階にも三階にも談話の出来るテーブルとソファが備えられていたし、個々の部屋も築年数の割に綺麗だった。年季の入ったそれは最早アンティークだ。そういえばあの寮は四階建てだったが、四階には何があったのだろうか。三階は女子部屋が並んでいて、二階の男子部屋の並びまでしか入ったことが無い。
「あの寮は春に取り壊しが決まってるだろ。どうするんだ」
「別の空いてる寮に移ります」
「そうか。……しかしあの寮は何で取り壊しになるんだ」
「知らないです」
「別に痛んでボロボロって訳でもなかっただろ……取り壊し理由の説明とか無かったのか」
「無いです。桐条、先輩なら知ってるんじゃないですか」
「ああ、桐条の令嬢も同じ寮だったな。俺は中学から同じなんだが……そういえば口をきいたことは無いな。いや、寮に住んでる誰とも口をきくことなんて無かったか……」
「……なら何で、俺に声を掛けたんですか」
 真田の顔を横目で見上げる。真田の瞳が歪んだ。ぱちぱちと瞬きを繰り返し眉を寄せ、首を傾げた。
「……そうだな、何でだろうな。分からん」
「真田先輩って結構変な人なんですね」
「緒張は見た目通りやる気無いな」
「どうも」
「褒めてないが大丈夫か……。それよりお前、何してたんだ」
「何でもないですよ。ちょっと、海に近いところに来たかっただけです」
「海好きなのか? 意外だな」
「別に、好きでも嫌いでもないです」
「ならどうして」
「すいそうです」
 握りしめていた左手を見る。真田が不思議そうな顔をしていた。「すいそうって」
 返事はせず、曖昧に笑ってまた海を見た。夕暮れの橙が過ぎ去り、夜の帳が降りてくる。ほんのりと青く薄暗く陰っていく。一番星が空の端で存在を主張していた。
「真田先輩、どこか行く途中じゃなかったんですか」
「いや、今日はもう帰るだけだ」
「そうですか」
「ああ」
「俺はもう少しここに居るので、気にしないで帰ってください」
「なんだ、邪魔か」
「はは」
 からからに乾いた笑いが唇から滑り落ちる。「緒張も風邪引く前に帰れよ」と真田は苦笑しながら遠ざかって行った。その後ろ姿をちらりと確認する。
 掌を解いて、握りしめていた指輪を取り出す。指輪を摘まみ上げ、薬指にそっと押し込んでみたが、関節で引っ掛かって嵌らなかった。きっと傷もまめもない綺麗な指に嵌る指輪だったのだろう。この傷だらけの手とは比べ物にならない、綺麗な手だったのだろう。一体それが、誰の手だったのかは分からないが。
(ぼくもしんだならうみにはいをまかれたいなそれってちょっとすてきじゃない)そう笑う誰かの声が手を引く。
 指輪を再びぎゅっと握り、三歩後退り欄干から離れる。指輪を握った手を、振りかぶる。
 出来るだけ遠くへと、放った灰色の指輪はチカリと光って綺麗な弧を描き飛んで行った。
 ぽちゃりという水音が遠くに聞こえ、海に飲み込まれる。
 さようなら、どうか安らかに。
 ほら、お望み通りの水葬だ。

   ◇

 高校三年生と言うのは瞬きの様に早く過ぎ去っていく。
 進級したと思えばもう季節は初夏へと移っていた。
 巌戸台分寮が四月に取り壊しを始め、あの寮に住んでいた同級生たちは散り散りに別の寮へ移った。その中で交友があったのは、二年の時同じクラスだった伊織と岳羽の二人だけだったが、そのどちらとも三年でもまた同じクラスになった。代わり映えしない。
「三年ってさ、なんつーの? こう、パッとしねえよな」
 放課後の教室で、机の上に大学のパンフレットを並べながら伊織が欠伸を噛み殺した。伊織も岳羽も大学進学だったため、資料集めに協力する事があった。今日もその一環で、各々取り寄せた学部も何もバラバラなパンフレットで机が埋まっている。
「なら聞くけど、二年の時はパッとしてたっていうの?」
「うおゆかりっちキビシー」
「ほら見なさいよ。順平がパッとしてた時なんて無いのよ」
「え、ちょっとゆかりっちそれは酷くね? でもさでもさ、二年の時はまだ修学旅行って一大イベントがあったっしょ」
「ふうん、その一大イベントでパッとしたことあったわけ?」
「……無かったな。全然普通の京都観光だったな」
「ほらね」
「修学旅行はあっただろ、伊織が、露天風呂ドッキリ」
「え、なにそれ」
 パンフレットの文字列から顔を上げると、岳羽が目を丸くしていた。彼女と目を見合わせ、伊織の顔を見る。
「俺っちそんな危ないイベント起こしてねえって! ゆかりっちもそんな怖い顔でこっち見んなよ濡れ衣だー!」岳羽に睨まれ伊織は首を手を全力で横に振る。「深月お前何俺にそんなデンジャラスな濡れ衣着せようとしてんの? 俺知らないうちに何かお前怒らせてたっけ?」
「……いや」
 じっと伊織に睨まれ、視線を再びパンフレットに落とす。岳羽も伊織も、とぼけている様子ではなかった。なら記憶違いだろうか。
「ごめん、気のせい」
「ホントお前、危うく今日が俺の命日になるところだったろ……」
「ごめん」
「ちょっと順平、それ暗に私に殺されるって言ってる?」
「言ってません! 言ってません!」
 学校紹介、学部紹介。文字が並んでいるがさっぱり頭に入って来なくなった。
 修学旅行の、確か、二日目の夜だったと思う。露天風呂の男女の交代時間ぎりぎりを狙って入りに連れて行かれて、見付かって処刑されて。あの時居たのは誰だったか。顔を思い出していくが、どう考えても交友があるメンバーではなかった。名前すら分からない人も居る。ならはやり記憶違いなのだろうか。夢か何かだったのだろうか。
「深月、なんかいい大学あった?」
「え、いや……全然」
「はーやっぱ全然ピンと来ねえんだよなあ」
「そんなこと言ってるとあっという間に受験シーズンになっちゃうよ」
「そういうゆかりっちは決まってんの?」
「まあ、何となく」
「え、どこどこ」
「教えない」
「ケチ!」
 全く頭に入らなくなったパンフレットを机の上に戻す。ずっと下を向いていた所為で凝った体を少しでも解そうと、手を組んで上へ伸ばすとみしみし音がする気がした。
「あのさ、去年の転校生で金髪の子居なかったっけ」
「あー居た居た」
「それってアイギスさんでしょ?」
「そうかな。その子ってどうしたっけ。全然見ないけど」
「知らないの? 四月からもう来てないけど。転校なのか退学なのかは知らないけどさ、もう居ないよ」
「……え?」
 居ない。
「めっちゃ美人だったよなー話した事ないけど」
「同じ寮だった筈だけど、私も話した事ないなー」
「うっそマジ? 同じ寮だったっけうお勿体ねー!」
 金色の髪をなびかせる転校生の、青色の目がパチリと瞬きをする様がふと思い出された。三月の、卒業式の時にそういえば、見なかったか。困ったように瞬きをするアイギスの姿が走り去っていく。
 話した事は、無い。なのに何故か、声が再生される。(深月さん)(深月さん)(わたし)(わたしあなたを)
「去年転校生多かったよなー。それも俺らのクラスにばっかり来るからおっかしかったなー」
「ね。転校生なんて滅多に出会わないのに一年の間に二人でしょ。多いよね」
「……え?」
「緒張君、どうかした?」
「二人、だったっけ」
「緒張君と、そのアイギスさんの二人。あ、自分数に入れ忘れてた?」
「違う……もう一人居なかったっけ」
 春に自分、夏にアイギス。
 秋に、秋に誰か。「居なかったよ」
 ぴしゃりと岳羽の声が遮った。ハッと顔を上げる。岳羽と伊織が首を傾げている。
「どしたん深月。パンフ見過ぎで疲れてんじゃねえの。つかそうじゃね? よし今日はもう切り上げて帰ろうぜ!」
「ちょっと順平、それあんたが帰りたいだけでしょ」
「うぉ何でバレた……ゆかりっちもしかしてエスパー?」
「あんたが分かり易すぎんのよ」
 はああと岳羽が嘆息する。それでもほんのりと夕焼けに染まりだした教室を見て、今日結局お開きになるようだ。机の上のパンフレットが束ねられる。ずっしりとした束を三人で分けてそれぞれ机の中に仕舞う。岳羽はその中から数冊選び出して鞄に仕舞っていた。伊織がそれを見て「それが候補か!」と必死に覗き込もうとして頭を叩かれている。
 頭の中でぐるぐる何かが回っている。何か、何か。
 はがくれにラーメンを食べに行こうという二人からの誘いを断って、その日は急いで寮へと戻った。

 真夜中ベッドの中で一人寝返りを打つ。暗闇に目が慣れると部屋の中が見えてくる。巌戸台分寮より少し狭くなった部屋。相変わらず私物は少なかった為、狭いという事はないが何処となく落ち着かない。この部屋に移ってからもう三か月は経つというのに、今更何が落ち着かないのかが分からない。何が、おかしいのか分からない。ただ漠然と、何かおかしい気がする。
 暗闇に慣れた目で壁に掛けられた時計を見る。針は丁度天辺を指そうかというと頃、十一時、五十九分だ。秒針がカチカチと、真夜中で静かな部屋の中に響く。長針と短針が揃ってカチリと動き、日付が変わる。秒針は何事もない様にひたすら進んでいく。
 誰か、誰か居なかっただろうか。
 この暗闇に、誰か。
「あいぎす」
 話した事も無いはずの、金色の少女に一体どこで名前を呼ばれたのだったか。彼女は、何処へ行ったのだろう。転校、退学。それとも、何。
 ちかちかと瞼の裏で青色の瞳が光っている。青色、空色。誰、誰だ。
 ブランケットを頭の天辺まで被りなおす。再び真っ暗闇だ。伊織の言うとおり、疲れているのかもしれない。
 寝よう。
 寝てしまおう。
 けれど何故か、こうして目を閉じていると、誰かに名前を呼ばれる気がした。
 気がしただけだ。

   ◇

 何時の間にか夏休みも終わり、少しだけ秋の風が吹き始めた。あんなにも暑くて仕方なかったのに、時折寒さを感じる瞬間が混じってきた。
 それでも放課後の教室は暑かった。だから図書室に移動した。来週からもうテストだ。
「あー、お前進路決めた?」
「……流石に。っていうかまだ一問目だろ、もう少し頑張れよ」
「いや別に、分からないから話し逸らしてる訳じゃねえよ? だってもうそんな時期じゃんよ?」
「はいはい。問一出来たら聞いてやる」
「ひっでえの」
 図書室は同じようにテスト勉強に励む生徒でそこそこ埋まっていた。テーブルの隅で、眼鏡を掛けた長髪の少女が辞書片手に参考書相手に奮闘している。多分、下級生だ。見たことが無い、いや見たことくらいはあるかもしれない。
 その場所と反対の端を占領して伊織のテスト勉強に付き合っていた。自分自身もあまり勉強が得意という訳では無いが、下から数えた方が早すぎる伊織よりは得意だった。テストではいつも、中の中という何の面白味も無い位置だ。
 岳羽の方が勉強は得意だったが、彼女は上手く逃れて先に帰った。弓道部ももう引退だそうだ。
「よし出来た。ほれ」
「えーっと」伊織が差し出したノートを、参考書の答えのページと比較する。「あ、ここ違う」
「そんでさ、俺も進路決めたわけよ」
「いや、ここ間違ってるってば」
「いやいや、深月は問一が出来たら聞くって言ったからな。正解したら、とは言ってない」
 腕を組み踏ん反り返る伊織の姿に嘆息する。「で、進路が何だって」
「いや、決めた? ってだけだけどさ」
「それだけかよ」
「あ、どこ受けるか聞きたい? 気になる?」
「ならない」
「だろうな」
 伊織のノートを奪い問二の問題文を書き込み返却する。うげえ、と伊織が呻く。
「受けるところ決めたんだろ」と言えば仕方なしに問題に取り掛かった。教えるばかりでは自分のテスト勉強にならないので、参考書の別のページを開き苦手な問題に着手する。
「あーあ、今年の夏も何もなく終わっちまうなあ」
 カリカリとシャーペンの芯が削れていく音に混じって伊織が嘆いた。
 図書室の冷房と、テスト勉強、参考書の問題文。確かに夏の終わりには寂しいラインナップだった。
「っていっても、毎年そんなもんだけどよ。毎年特に何もねーの」
「去年はあっただろ」
「え、なんかあったか」
「屋久島行った」
「おっまえ、屋久島だと? ズリーの、そんなん聞いてねえよ」
「え」
 イコールを書き込んだばかりの、解き掛けの問題文から顔を上げる。伊織が向かいで憤怒の表情をわざとらしく作っている。
「クッソーおれっちは沖縄にすら行った事ないっつーのに、屋久島だと。エメラルドグリーンのビーチでナンパだと?」
「いや、」伊織も一緒じゃなかったか。と言おうとして変な違和感に気付く。
 凄く自然に、去年の夏は屋久島に行ったものだと思っていたが、本当に行っただろうか。そもそも何故屋久島に行った。どうして。誰と。伊織と?
 いや二人で旅行に行くほど親しくはない。こうして一緒にテスト勉強はするが、そんな二人で旅行に行くわけがない。そもそも二人だったか。もっと皆。みんなってだれだ。
「おい、深月」
 ハッと顔を上げる。伊織が怪訝そうな顔でペンを置いている。
「どした、二問目でそんな疲れたんか」
「え……っと」
「もうやめて今日は帰るか?」
「いや、それはダメだろ」
「やっぱり?」
 ほら、と問題文をペンの先で突く。数学なんてチクショウ、と呻きながら伊織が再びペンを掴む。自分も解き掛けの問題文に戻る。
 英数字がぐるぐると目の前で回っている。何か、何かおかしい。自分の記憶が、何が、誰が、どうして。何が、おかしい。
 その後一問も解けることなく、夕暮れまで伊織の勉強に付き合って帰った。
 帰り道ではがくれに寄り、隣りに伊織が座っている事がおかしい気がした。誰か足らないような気がした。それが誰の事なのか、岳羽の事なのか、思い出せることなかった。

 やっぱり何かおかしい。
 それは秋が終わり、冬に差し掛かる頃に色濃くなった。
 言い得ぬ気持ちの悪い違和感がずっと足元を這っている。何かがない、誰かがいない。齟齬が生じる。
 そう思うのは大概、伊織や岳羽と話している時だ。あったと思う出来事が無い。誰か別の人と記憶違いしているのかとずっと思っていたが、やはりそうではないと思う。あれは、伊織と岳羽だ。屋久島にも、その二人は居たはずだ。
 けれどそもそも屋久島に本当に行ったのか、その記憶もおぼろげだ。京都の修学旅行の露天風呂にも、その二人は居たと思うのに、やはりそんな事は無かったようにも感じる。
 分からない。どうしてだか分からない。
 そもそも自分は何故巌戸台分寮に居たんだ。あの寮だけ、何かおかしかったように思う。男子寮でも女子寮でもない。小学生も一人居た。
 伊織も岳羽も同じ寮で、真田先輩、桐条先輩、それからアイギス。あと、そうだ山岸だ。山岸は二年も三年もクラスが違っている。話した事は、多分ある。寮が同じだったのだから、話した事くらいあるだろう。
 けれど、そうだ、二月の時真田と会った時、彼とは話したことが無いと思った。そんな訳がない、話した事は、あった。何故だ。どうして。
 ぐるぐるぐるぐる。
 十一月の夜は寒い。ベッドで毛布に包まりながら、誰も居ない暗闇を見詰める。兎に角何か、物足らないような気がしてならない。胸の中から迫り上げてくる気持ち悪さを飲み込んで目を閉じる。
 寝て起きたら、気分が良くなっていればいいのに。

 翌日どうしても気になって、放課後隣の教室を覗き込んだ。山岸の姿を探す。後ろの隅の席で荷物を片付けている山岸の姿を見つけ、教室に足を踏み入れる。
「山岸」
「あ、はい」
 少女がパッと顔を上げる。短い前髪の下で、丸い目が瞬いている。
「えっと、緒張君。どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことがあって……山岸も、巌戸台分寮だったよね」
「あ、うん、そうだよ」
「今は?」
「寮なくなっちゃったしね、実家に戻ってるよ」
「あれ、実家近いんだ」
「うん」
「なら何で、寮に入ってたの」
「うーん、何でだったかな……。家の事で悩んでたから、だったかなかな。丁度あの、理事長に声を掛けてもらって入ったんだけど」
「あ、ごめん。変な事聞いた」
「ううん全然。緒張君は別の寮に移ったの?」
「うん」
 そっか、と山岸が微笑む。そういえば理事長は、去年の今頃亡くなった筈だ。死因は、覚えていない。何故だっただろうか。何か、覚えている気がするのに、思い出せない。重い原因があった、のではなかっただろうか。理事長、もあの寮には良く顔を出していた様な気がする。何故だっただろうか。入ったことも無いはずの、巌戸台分寮の四階の景色が思い出された。作戦室?
「そういえば、森山だっけ。とは連絡取ってる?」
「えっ、森山さんって去年転校した森山さん?」
「そう」
「私あまり親しくなかったから……」
 苦笑した山岸の顔に、さっと自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
 一瞬で寒くなる。
 そんな、馬鹿な。
「あ、のさ。もう一個聞いてもいい?」
「なに?」
「去年の転校生、覚えてる?」
「うん、勿論。緒張君と、アイギスさんでしょ」
 ぱしりと口に手を当てる。そういえばアイギスさんってどうしたんだっけ、と山岸が首を傾げている。胃から気持ち悪さがせり上がってくる。
「ごめん」
 押さえた口元から必死にその一言を吐き出して、教室を走って出た。山岸が何か言っていたが、振り返る余裕は無かった。
 駆け込んだトイレで吐いた。

 胃の中身が何も無くなってしまうのではないかと思った。口を濯ぎトイレの鏡で見た顔は酷いものだった。目は虚ろであったし、薄っすら隈も見える気がした。あの時でもこんなに疲れた顔をしていなかったと思う。あの時って、いつの事だったか。
 口の中はい未だ酷い味がした。かと言って何かを口にしてこの味を濯ごうという気も微塵も起きない。兎に角帰らなくては、とトイレを後にする。
 廊下には何人もの生徒の姿が見えた。何故か誰も知らない人の様な気がした。
 教室に入ると伊織が居た。こちらの姿を見るとギョッとした。「お前どうした」と近寄ってきた伊織の手が肩に触れる。何でもないと首を振る。「何でもない顔じゃない」と近くにあった椅子を引き、半ば強引に座らされた。
「調子悪そうだけど、どうした風邪か?」
「別に」
「お前鏡で自分の顔見てみろよ。別にの顔じゃねえ」
 顔ならさっき見た。確かに酷い様相だった。
「なあ伊織」
「どした、寮まで送ってってやろうか?」
「何か、間違ってる気がしないか」
「何かって、何よ」
「……分からない」
 分からないんだ。ぱちりぱちりと瞬きをする。目が乾いていて瞼が痛んだ気がした。
「何か、誰か居ない気がするんだ」
「誰か思い出せねえ奴でもいんのか」
 頷く。そうだ、誰か居ない。でも誰だ。何処に。何処に居た。いつ。
「……思い出せないんだ。だけど、何かおかしいんだ。そんな気が、伊織はしないのか」
「あー」
 向かいに立っていた伊織は頭を掻き首を捻った。

「気のせいじゃね?」

 歯車が外れた音がした。いや、もう歯車は外れていた。何か見えない齟齬がずっとあった。だけれどそれがいつからなのかも分からない。
 けれど確かにそれはずっと其処に在って、日に日に溝を深めていく。自分だけがおかしいのか、自分以外の周り全てがおかしいのか。はたまた何もかも全てがおかしいのか。最早判別はつかなかった。
 だけれど確かに在ったはずのものが幾つも幾つも消えていて、確かに居た誰かの事を忘れていた。
 歯車が外れたのではなく、一つ抜き取られてしまったのかもしれない。
 そこに開いた穴の大きさに脅え、幾度か嘔吐した。幾日か学校を休んだ。心配した伊織と岳羽が見舞いに来た。けれど彼らはやはり消えたものへの違和感を一つも抱いておらず、居なくなった人の影を覚えてはいなかった。
 そもそも何故、二人の事を伊織と岳羽と呼んでいるのだろうか。かと言ってなんと呼んでいたのか。何故か、分からない。
 暫くして考えることを放棄した。
 大学受験を控えていた事もある。考えたところでそれが何かを見つけられる事も無い。見付けられたところで、他の誰かが思い出してくれるのかも分からない。
 自分は諦めた。全て、全て。
 そうして二月になった。

 二月に入り登校する回数はぐっと減った。もう残すところ数日のみだ。
 一人きりの部屋を見回す。物はあまりない。かと言ってこの寮も後一か月やそこらで出ていく。そろそろ荷造りを始めたい。要らないものは捨てて、本当に必要な一握りの物を選別しなくては。家具は作り付けの物が多かったから、私物だけとなると、きっと相当に少ない。
 一番物が詰まっているのは本棚だ。本の虫で少しずつ集めていた小説や写真集の中から、本当に気に入りの数冊だけを抜き出す。それ以外はまた売ってしまおう。
 手に取った一冊の写真集を開く。四季折々の花と景色で埋め尽くされている。桜のページを開いた時に、ふと何かが頭を掠めた。(さくらみたことないんだ)誰の声だ。
 写真集はダンボールに詰める。これは、持っていく。それから数冊の小説も詰める。
 机の引き出しを開ける。ここはあまり物が入っていない。学校のプリントや、文房具、月光館学園のパンフレットまで入っている。要らないプリントをまとめる。これは追々捨てる。文房具も使っている覚えがないものはゴミ箱に入れる。
 がさがさと漁っていると、机の奥から何か出てきた。細い銀色の鎖。ネックレスのチェーンみたいだ。奥に挟まっているそれを爪先で引っ掻いて引っ張り出す。鎖を摘まみ上げると、先に何かがくっついていた。
 青色の指輪だった。
 目の前が真白く光った。青色。空色。アイギスの目? 違うこれは、別の。
 そうだ、去年の二月。指輪を海に放った。海へ還れと。弔った。あれは、誰の指輪だ。誰の弔いだ。誰か、死んだのか。何故、弔ったはずの自分が、思い出せない。
 あの灰色の指輪はその誰かの物だった。
 ならこの青色の指輪は誰の物だ。
(……綾時が生涯を終える、その時まで)
 綾時。綾時。そうだこの指輪は自分の物だ。
 灰色の指輪は、綾時のものだ。
 ああ、ああそうだ。自分は綾時を。

 綾時を殺してしまったのだ。

「失礼致します」
 パタンと音がした。重くて分厚い本が閉じられる音。
 顔を上げると広い部屋の中だった。いつの間にか椅子に座っている。見た事がある、座った事がある。ここは良く、訪れていた。壁も床も天井も、椅子さえも青い。
 この途方もなく青い部屋の中で、青い衣装に身を包んだ、金色の女性が本を抱え薄く笑っている。
「エリザベス」
「はい。緒張深月様」
 金色の目を怪しく細めエリザベスは俯いた。景色は止まっている。このエレベーターは、止まっている。音がしない、針は回っていない。止まっている。
「思い出されましたか?」
 頷く。
 ああそうだ。ずっと忘れていた。忘れてしまっていた。
 瞬きをすると涙でも零れるかと思ったが、目は相変わらず乾いていた。ちりちりと痛む。
 そういえば、この部屋の主の姿は見えない。ここにはエリザベスと、自分の二人だけだ。
「一年と少しばかり前、貴方は死を殺しました。死の願いを聞き入れ、彼を手に掛け、手に入れた平穏はいかがでしたか?」
「……最低だ」
「あらあら、それは。シャドウも、戦いも、眼前の死も、何も無い。ありきたりで平和な世界は最低でしたか」
 エリザベスの唇が弧を描く。
 もう一度頷く。「最低だ」
 針の進む音も、エレベーターが登る音も、何もしなくなったこの部屋はあまりに静かだった。あまりに青く、穏やかで、眩暈がする。
「悔やんでおいでですか」
 優しく問い掛ける声には答えない。ただ瞬きをした。悔やんだところでどうにもならない。懺悔したところで綾時を殺した事は変わらない。
 海を指差して「僕も死んだなら海に灰を撒かれたいな、それってちょっと素敵じゃない」と笑った綾時は本当に死んでしまって、彼の灰の代わりに彼の灰色の指輪を海に投げ込んだ事は変わらない。
「まだ、戻れますよ」
「……バカなこと言わないで」
「いいえ。貴方が望むのなら」
 いつの間にか目の前に立っていたエリザベスが笑う。握りしめていた左手を取られる。手の中に隠していた青色の指輪を摘まみ上げられる。鎖が音を立てて揺れる。
「時とは不変で不可逆のようでいて、不確定なものでございます」
「うそ」
「いいえ、嘘ではありません。貴方はご存知でしょう、一日は二十四時間と信じていた、けれどそうでは御座いませんでした」
「……影時間か」
「そうです。絶対など有り得ないのですよ」
 手袋をはめたエリザベスの指が、器用に指輪の通った鎖の金具を外す。鎖の両端を摘まんだ彼女の手が自分の首の後ろへと回される。パチンと音がして、首から指輪がぶら下がった。
「ここは貴方が死を殺した後の世界でございます。ですが、これがまさに長い長い夢、なのかもしれませんよ」
「都合が良すぎるよ」
「ふふ、有り得ないことではありません。あの引き金を引いてからずっと見ている、もしも、の夢。それとも、わたくしが貴方に見せている、もしも、の夢かもしれません。貴方に真の選択を願う為の」
 ご覧ください。とエリザベスが背後のエレベータの向こうに見える壁を指差す。
「こちら、貴方の旅路を見守るこのエレベーター。止まっております。さて、このエレベーターはいつから、止まっているので御座いましょうか」
 エリザベスの金色の瞳が怪しく光る。掌に重く冷たい感触を感じる。見れば一丁の銃が握られている。弾の入っていない、銀色の。召喚器。

「さあ、どうなさいますか?」

   ◇

 ほーっと吐いた息は白く煙ったりすることなく、こぽりと泡の様に丸くなって上へ上へと浮かんで行った。それをじっと見送り、見えなくなった辺りでまた息を吐いた。息は泡になって何処にあるのか分からない水面を目指して上っていく。
 ゆらゆらと緩い水中で僕は息をする。
 水は重くもなく、知っている水中とはまるで勝手が違った。息は出来るし、体は軽い。かといって浮かんで行ってしまう事はなく、足はきちんと地面についている。歩くことも簡単で、地上でのそれとまるで変わらない。
 先ほど吐き出した気泡も、出そうと思わなければ出ない。普通に会話をしている時はあんな風に気泡にはならない。もしもなったら、話しにくくて仕方がない。
 だから僕は、わざとほわりと息を吐き、気泡を作ってそれを見送った。
「それ面白いの」
「結構癖になるよ」
「ふうん」
 吐息の泡が遠くなり見えなくなったところで顔を下げ、何時の間にか隣に立っていた彼の顔を見る。灰色の瞳が不思議そうに遥か天上の水面を見上げていた。
「ここって水面はどこかにあるの?」
「あるよ」
「どれくらい上?」
「結構。飛んでも出れないくらい」
「僕そんなにジャンプ力無いけど」
「え、ニュクスパワー的な物を使えばひとっ飛びかもしれないから、今少し水面を上げようか悩んだのに?」
「何そのパワー」
「そのアルカナは示したって言いながら飛ぶんじゃないの」
「飛んでないよね?」
「まあ、飛んでは無いな。飛んで降りてきたけど」
「うんまあ。けどその君のいうところのニュクスパワーって言うのは、君が封じてるじゃないか」
「ああなるほど」
 手を打った彼の横顔を見て僕はため息を吐いた。何だかなあ。
 本当にこの人は、世界を救ってしまった実感だとか、ニュクスを封印している自覚だとか、さっぱり何も無いらしい。封印の扉の内側で、こうしてけろりと立っているけれど、彼はもう死んでいるのだ。その自覚も、きっと薄いに違いない。
「ああそうだ」
「深月くん? どうしたの」
「朝ごはん出来たよって」
「やったあ!」
 僕は嬉しさのあまりに彼の左手を掴んで走り出した。向こうの方に、僕と彼がこじんまりと暮らしている家がある。
 封印の内側は彼の支配下で、僕も彼の支配下で、彼は支配者で、この中は全て彼の思い通りだ。もしかしたら「ここ」と思っているけれど、ここは彼の記憶の中の世界なのかもしれない。夢かもしれない。別に僕は何だっていいのだけれど。
 だって僕の命が尽きるまでと誓った約束は、僕の命みたいなものと、彼の命そのものが終わってしまったその後も、ずっとこうして続いているのだから。
 掴んだ彼の指に嵌る、青色の指輪を見て僕は笑う。僕の指にも灰色の指輪が嵌っている。ままごとみたいな儀式と宣誓は、僕たちの死をもっても破棄にはならなかった。
 家に入るとご飯を食べる前に手を洗えと洗面所に押し込められる。水の中なのに手を洗うって変な事この上ない。じゃばじゃばと手を洗い、意気揚々と席に着く。
 目の前に並べられた、炊き立てのご飯とお味噌汁と漬物に、毎食の様に抱いている感動を胸に手を合わせる。誰かの手作り料理って、僕は死ぬまで食べたことが無いのだ。感動せざるを得ない。
 彼の、彼風にいうところのユニバースパワーを使えば家も水も海も食べ物も何もかも手品みたいに出せるのだけれど、彼は毎食きちんと材料から料理を作ってくれる。ぱっと出される手品のインスタントではなくて、素材を刻んで炒めて煮て盛り付けてくれる。それがたまらなく嬉しい。
「今日も美味しい」へらりと笑うと彼は「それは良かった」と頷いた。

 朝食の片づけを終えると、何をするでもなくソファに二人でだらだらと寝そべった。つい二時間ばかり前に起きたところだというのに、もう欠伸がでた。欠伸はほわりと気泡になって天井に上りぶつかった。そこで溜まるのかと思いきや、天井を擦りぬけて消えてしまった。仕組みが分からない。
 僕のお腹の上に寝そべり写真集を捲る彼の手を掴む。「読んでる」と抗議の声がしたが気にしない。
 掴んだ左手の、薬指に嵌る指輪をくるくると回し、指から引き抜く。代わりに僕の指から抜いた灰色の指輪をそこに嵌めてみようとするが、関節で引っ掛かって止まってしまった。彼の青色の指輪は僕の指にはすかすかだった。
「手の大きさは同じくらいなのにね」
「鍛え方が違うんだよ」
「うーん、確かに君の手って傷だらけで格好いいよね」
「綾時の手は傷一つなくて綺麗だよ」
「あ、それ褒めてないよね?」
「褒めてる、凄い褒めてる」
「あやしいなあ」
 笑うとお腹の上の写真集が揺れて床に落ちた。構わず入れ替えた指輪をもとに戻す。すっぽりと納まり良く嵌る指輪に満足し、床の写真集を拾い上げた。
「でも君が指に嵌めてくれてるとは思わなかったな」
「俺も綾時が右手から左手に嵌めかえてるとは思わなかったな」
「あっ、だってねえ。あの後あっさり僕死んだ、えっと死んだっていうと本当は違うけど、取りあえず死んじゃったじゃない? でもその後も君が僕の事思っていてくれたのが嬉しくて。こうしてここまで追いかけてきてくれちゃったでしょ」
「綾時」
「はい」
「答えになってない」
 灰色の瞳がじっと睨むように見据えてくるから、思わず苦笑した。
「この先未来永劫一緒なら、結婚でいいかなーって」
「よし」
「で、君は何で?」
「隠す必要が無いから」
「……成程納得だけど、僕に求めた答えと重さ違いすぎない?」
「左に嵌めたんだからいいだろ」
「そうですねー」
 否定じゃないならいいか、と手に取った写真集を捲る。良く見たらこれは、彼が生前本の虫で購入したそれと同じものだ。買う現場に僕も居た。
「あ、この桜。見たいねって話したやつだね」
「そうだよ」
「いいなー桜。結局見れなかったもん」
「見たいなら出すけど」
「ぜひ!」
 がばりと体を起こすと彼がソファから転げ落ちた。睨まれて頭を叩かれた。それから手を取られる。
 僕は彼の指に嵌る青色の指輪を見る度、この先永劫くすぐったくなるに違いない。
 外に出るとそこは一面桜だった。家を取り囲むように桜で埋め尽くされていて、花弁が吹雪の様に舞い散っている。吹雪、見たことないけれど。
「凄い!」
 僕は彼の手を掴んだまま走って、桜の木の真下へ向かった。頭上を見れば視界一面桜色で、ただただ美しい。満開そのもの。水の中だけれど。
 空気の様に感じるけれど、やはりここは水の中だ。空はなくて、先程の青空を背景に桜が舞い散る写真の景色と違う。
「そういえばさ、何で水の中なの」とあまりに今更な質問を僕は投げかけた。
 彼は笑っていた。「ねえ」と急かす。
 はらはらと舞い散る花弁が彼と僕に積もっていく。
「ねえ深月」
「俺とお前と、それから、ある筈だったお前を殺した後の世界の為」
 深月の手が、ぎゅっと僕の手を握った。彼の顔はどこか懐かしそうで、ほんのりと寂しそうで、それからそれ以上に満ち足りていた。

「すいそうなんだ」

(13/3/5のサイト改修1周年記念サイト名ネタでした)