晴れ時々馬鹿

(主綾)

「君って意外と馬鹿だよね」
 そう言った綾時の目は、崩れた砂の城に埋まる自分の手を見ていた。少しだけひんやりとした土に、手はすっぽりと埋まっている。
 砂の城のトンネル開通は夢と消えた。ここまで作るのに費やした労力の結末は、綾時のこの、淡々とした言葉だった。
「崩したくらいで馬鹿は酷いんじゃないか」
「砂の城の話じゃないよ」
 埋もれていた右手を引き抜き、砂粒を払う。爪の間に入り込んだ砂が気持ち悪い。立ち上がって波打ち際へと向かう。裸足の爪先が海水に濡れた。
「君って、頭良さそうに見えるのにね」
 波で砂を洗い流し、手の水気を払いながら、綾時を振り返る。ついさっきまで膝を抱えていたのに、今は地面に腰を下ろし足を投げ出している。真白い彼の手が、砂の城の残骸を、ただの砂の塊に戻していく。
「砂の城の話じゃないなら、なんの話」
「死んじゃった君の話」
 ああ、と適当に返事をして、元居た場所へと戻る。
 砂の城だった頃の面影が、さっぱりなくなった砂の塊を挟んで、綾時の横へ座る。
「これでもテストの成績は良かったんだけど」
「テストの成績と、その人の頭の良さは関係ないんだよ」
 って順平が言ってた、と付け加えたものだから、一気に信憑性が失われた気がした。間違ってはいないと思うけれど、情報源が順平だというだけで、少し胡散臭くなるから不思議だった。
「なら俺の何が馬鹿なんだ」
「生きる方法はあったのに、さっさと死んでしまって、こんなところに永遠に居ることを選んだところ」
 なんて、唐突な事を言った綾時を見れば、目を伏せ、青い瞳に影を落としながら薄く笑っていた。笑っていた、というよりは馬鹿にしていた、と言う方が正しいかもしれない。さっきからずっと馬鹿バカ言われているのだから、間違ってはいないと思うけど。
 馬鹿だな、って馬鹿にして笑っているのだ。
 こんなところ、ねえ。
 と、辺りをぐるりと見回す。目の前は海だ。海岸線上には何も見えない。どこまでもひたすらに海。まあ、本当に海上には何も、なんにもないから見えるわけも無いのだけれど。そして広い砂浜。と一本だけある桟橋。あそこの縁に腰を下ろして、足をぶらつかせながら昼ご飯を食べたりすると、結構楽しい。あとは、後ろにある広い芝生と、ちょこんと建っている家。
 あるのはこれくらいだ。これが、こんなところ、だ。
 こんな、ニュクスの封印の内側だ。
「封印した本人が、封印の内側に居る、なんておかしな話でしょ」
「封印がそもそも命で出来てるんだから、そこに本人が引き寄せられてきても、あまりおかしいとは思わないけど」
「おかしいよ。大体全部、まるっとおかしいんだ」
 具体的には何が、と綾時を見る。
 綾時は丸い青い瞳でこちらを一瞥し、視線を逸らした。それから寝そべると、雲一つない青空を見上げた。
 すっかり作る気を無くしてしまったらしい砂の城、だったものに手を伸ばす。綾時が作ってみたい、って言ったのに。そうはいっても、自分も作ったのは凄く幼かった頃が最後。両親が生きていた頃、の事なのであまり記憶にはない。手本としては何の役にも立てなかった。こんなことなら、生きているうちにもう一度くらい作ってみるんだった。
 指先から掌まですべて使って、土の形を整えていく。綺麗に洗ったばかりの手は、また砂まみれになって、爪の間にも砂が詰まった。
「君は、ニュクスの封印の内側に居る、ってこと。ちゃんと分かってるの」
「分かってる、よ」
 たぶん。
 砂のじゃりじゃりとした感触を掌に感じながらも、今ここで見ている景色も何もかも全部が夢だということも、否定は出来ない。
 顔を上げてみれば、寝そべる綾時が見える。白い肌黒い髪青い瞳、黄色いマフラー。全部生きていたあの頃に見た彼と、何ら変わりない。それどころか、自分が今感じているこの感触も、匂いも、何もかも変わらないように思う。
 この封印の中は、全部自分が記憶の海から拾い上げて、繋ぎ合わせて作ったものばかりだ。海も、砂浜も、桟橋も、家も、全部。もしかしたら、綾時も。
 一度死んだくせに、生きている頃とあまりに変わらない。ちょっと景色がおかしくて、ここには二人しか人が居ないってこと以外、変わらない様に思う。
 もしかしてまだ生きていたりして、なんて馬鹿げた妄想をするくらいに、変わらない。
 だからこそ、夢なのかもしれない。ここはニュクスの封印の中だと思っているけれど、ただの夢なのかもしれない。目を覚ましたら寮の天井が見えるかもしれない。
 ああそれとも、ここが、死後の世界なのかもしれない。
「君は、死んじゃったんだよ」
 綾時が言った。そうだな、としか答えられないので、砂の城を高くすることに意識を集中させる。
「ただ死んだだけだったなら、まだマシだったかもしれない。そこで終わりだからね。それに転生も出来るかもしれない。死んだ君は輪廻の輪に還り、新しい来世を平凡に幸せに生きられたかもしれない。でも、ここは違う。ここはニュクスの封印の内側で、ニュクスにとって時間は永遠だ。ここでの時は、永遠に終わらない」
「そうだな」とまた言えば「事の重大さが分かってないでしょ」と少しだけ怒られた。そうは言われても、別に何も重大な事ではないのに。
 ただ、当たり前の事だ。
「君は永遠にここから出られないんだよ。ニュクスの封印が破られたら解放されるかもしれない、けどそれを望む訳でもないでしょ。それを望むくらいなら、初めからここに居なかっただろうし。それすら考えていなかったなら、想像を絶する馬鹿だ、としか、もう僕は言えないけれど」
「流石に、想像を絶する馬鹿ではない、けど」
「ねえならどうして、君はこんな馬鹿な事をしたの。こんな、何の救いも無い、終わりのない世界に、やって来たの」
 普通に死んだ方がまだ救いはあったでしょ、と綾時が言う。
「救いねえ」と目を伏せ、ゆっくりと瞬きをする。
 再び目を開けた先で、綾時の青い目がじっと、こちらを見ていた。少しだけ城っぽくなった砂の山から手を離す。砂の城の角が崩れて零れた。この調子じゃ、またトンネルを掘っても埋まるだけだろう。天辺に掌をついて、形を崩す。指先で砂を左右に散らせば、表面に指型の軌跡が残った。
「なら綾時は、もし俺が来なかったらどうしてた」
「どうって?」
「俺が居なかったら、綾時は一人だっただろ」
 そうしたら、どうしていただろうか。
 もしかしたら、自分が現れなければ、綾時の自我が再生することも無かったかもしれない。そうだったら、悪いことをした、かもしれない。
 でも、あの一月の終わりの日、確かに綾時の自我を見た。
「知らないよ」と、とても簡単な答えを綾時は寄越した。「だって君は来てしまったし」
「なら、想像でいいや」
「無理だよ。今更想像するなんてね。あの時だって、君はあっという間に来てしまったんだもの」
「でも俺が来るまで一か月くらあっただろ。その時の事とかでもいいや、俺が居なかったら、居ない間どうしてた」
「一か月なんてあっという間の事だよ。それに、僕は君がこちらに来てしまう事を知っていたから。君の事考えていたら、一か月なんて有って無いようなものだったよ。また、直ぐに会ってしまったもの」
「ずっと俺の事考えてたんだ」
 凄く情熱的な告白に聞こえなくもない。なんて、言ったら怒るんだろうか。また馬鹿、って言われるんだろうか。
「綾時は俺が来たのが、嬉しくないのか」
「どうだろう。君が居ないことが、想像できないから。分からないよ」
「俺が居るのが当たり前、ってこと?」
「変だね」
 少しだけ笑って、綾時は目を閉じた。
 砂の城跡地に掌をつき、身を乗り出す。真上から綾時の顔を見下ろすと、視界が陰ったのを感じたのか、目蓋が開いて青い瞳が覗いた。海にも空にも見える、綺麗な青色だった。
 視線が絡んだままで居ると、暫くして綾時が再び目を閉じたので、唇を重ねた。少ししょっぱい気がしたのは、潮風のせいだろうか。合わせた唇から、綾時が笑ったのが伝わる。彼の指が、自分の長い前髪をかきあげた。
 目を開けると、何も遮るもののない視界の中で、綾時が笑っていた。
「でもやっぱり、君は馬鹿だと思うよ」
「それまだ言うんだ……」
「だって命も死も終わりをもなげうった結果が、ぼくとキスできるくらいじゃ全然割に合わないでしょ」
「……出来ればもう少し触りたいけれど」
「ここじゃヤダよ」
「こちらこそ」
「そうじゃなくてさ、君は人らしい事、全て捨ててしまったんだよ。分かっているの」
 人らしい人生も、人らしい死も、全部だよ。と綾時が言う。
「それ全部を差し出したら、綾時とずっと居られるって言うんだから、結構安いと思うけどなあ」
「それを馬鹿だって言うんだけど」
「ならもう馬鹿でもいいや」
 だからそろそろ家に戻ろうか、と体を起こし、手を差し伸べる。
 綾時はその手を取った。
 砂粒でじゃりじゃりとした白い指を掴む。柔らかいけれどちょっと骨っぽくて、豆も何も無い綺麗な手。
「綾時は俺の事さっきから馬鹿バカ言うけど、ちゃんと選んでるから」
「知ってるよ。君は選んだことに責任を取るべき人だもの。でも、馬鹿なもの選んだなっていうのは変わらないよ」
「手厳しいなあ」
 立ち上がった綾時は体についた砂を払った。手の届かない背中の砂を払ってあげる。有難う、と言って綾時はマフラーを巻きなおした。黄色い布に、顔を半分ほど埋める。
「帰ろうか」
「そうだね」
「直ぐそこだけど」
「ふふ。そうだね」
 並んで僅かな道中をのんびりと歩く。ゆっくりと足を前に出して、一歩一歩進んでいくと、ふと生きていた頃の事を思い出した。あの時は、どこをこうして歩いていたんだったっけ。
 綾時の顔を、横目に覗き見る。ああそうだ、商店街だ。本の虫の入り口が、綾時の横顔の向こうに見えたのを、覚えている。
 視線に気が付いた青い瞳が、ちらりと動いた。視線が少しだけ交わってまた離れる。
 ただこれだけの事でも、馬鹿で良かったと思うから、相当だ。

 あのね、と綾時が小さな声でぽつりとつぶやいた。
「僕もきっと、馬鹿なんだ」