(綾主 2/1~)
二月一日。
朝起きるとやたらと体が重かった。
それが疲労からなのか寝不足からなのか、原因は思い当たらないが、兎に角体が重い。起き上がりたくない。このまま眠っていたい、と考えて、もしかしたら眠たいだけなのかもしれないと思った。
学校を休むことも考えたが、眠いだけで休むのも、と渋々上体を起こす。
そういえば今年はまだ体調不良で休んだことが無かった。無欠席だ、と思ったが、そもそも四月初めに一週間程入院していたのだった。どうして一週間も入院していたんだったか。何故か思い出せない。
ベッドから足を下ろすと、じゃらりと言う金属音が聞こえた。
足元からだ。
床を見ると、鎖が這っていた。
全く身に覚えがない。鎖なんてこの部屋にあっただろうか。ウォレットチェーンと呼ぶには無理があるほど、存在感のある鎖だ。お洒落に用いるにはいささか大き過ぎる。財布や貴重品を繋ぐには似つかわしくない。
似合うとしたら、施錠や拘束だろう。
そんなものが何故。しかしそれよりも驚くことに、鎖は自分の足に繋がっていた。足首に枷の様な物が嵌っていて、そこから鎖が何処かへ伸びている。
枷の嵌る左足を軽く持ち上げる。想像より重くはないが、軽くもない。ジャラジャラ音を立てて鎖が擦れた。今日体が重いのは、これのせいだろうか、と漠然と思った。
はて、困ったものだ。
二月二日。
どうも足元の鎖に、実害はないようだ。
足枷なのだから、この部屋に拘束しておくための物だと考えていたのだが、あっさり部屋から出られた。どころか学校へも行けた。
どういう理屈なのか知らないが、長さに制限が無いらしい。とは言え、まだ学校周辺までしか試していないから、もしかしたらその近くに限界があるのかもしれない。まあ、生活には困らなかった。
それから、どうにも他人には知覚されないらしい。
足枷が重いのか、体がだるくて重いのか、眠くて重いのか、分からないが重たい体を引き摺って登校したのだが、誰からも何のリアクションも無かった。
「調子悪そうだな?」と順平に言われたくらいだ。
歩くたびに鎖が音を立てて、背後からついてくる。
なのに誰も追及してこない。
振り返れば自分の足から伸びる鎖が見えるのに、だ。引き摺る音も控え目とは言え、近くに居たら聞こえる事は間違いない。チャリチャリと付いてくる金属音に、言い得ぬ不思議な気持ちになった。
少しの恐怖と、懐かしさ。
それからそれから、鎖には実体がない、らしい。
断言してしまえないのは、自分だけは掴めるからだ。手を伸ばせば、足枷にも、鎖にも触れられる。ひやりとした金属の手触り、そして重さ。ただそれ以外の物は触れられない。
昨日の朝の事だが、学校へ行く為には着替えないといけなかった。
でも足枷が嵌ったまま、どう着替えたらいいのかは分からなかった。服を脱いでも、鎖から抜けないので、そのままぶら下げるという間抜け極まりない事になると危惧していた。のだが、予想を裏切り脱いだ服はすり抜けた。履く時も同じだ。鎖なんて無いかのようだった。
理屈は分からないが、有難かった。
そういう訳で、足枷の分体が重い以外にこれといった障害も無く、普通の生活を送れてしまった。
二月十四日。
とても今更だが、この鎖がどこから出ている物なのかが気になってきた。
既に足枷が現れてから十日以上経っている。我ながら鈍すぎる、と反省する。
「君って危機感が薄いところあるよね。もう少し気にした方がいいよ」なんて言われたこともあったっけ。誰にだっけ。間違いなく順平ではない事しか分からない。順平は「君」とかそんな言い方をしない。お前とかそんな、適当だ。
十日も放っていたのは、この鎖に対して危機感を抱いていなかったからだ。
あまりに当然の様に存在するので、気にする事の方がおかしい気がした。それから、体が重くてあまり何かをする気になれなかった、というのもある。
その点、今日は珍しく調子が良かった。
体が軽くて羽毛の様、とはいかないが、いつもより少し軽い。休日な事も手伝って、やる気が起きた。
足枷をなぞり、鎖を掴む。軽く引っ張るが手応えが無い。つっかえているのか、これ以上鎖が出て来ない。
本当につっかえてしまっていたら、この部屋から出られない。慌てて立ち上がり、一歩進むと、鎖はあっさり出て来た。
再び手で掴む、引っ張る、出て来ない。
手で引っ張り出そうとしても出て来ないが、移動に合わせては出てくるようだ。全く、良く分からない仕組みだ。
それは放っておき、出所を探る。この部屋に鎖の端が無い事は分かっていた。鎖はドアへと続いており、すり抜けて廊下へ続いている。
廊下から、階段をなぞって下へ。
辿って行くと、ラウンジの方へ逸れていた。
テーブルがある。しゃがみ込み、下を覗く。テーブル下の隅の辺りで、鎖は途切れていた。途切れる、というか床にめり込んでいるというか。もしかしたらこの床の下へ続いているのかもしれないが、流石にそれは確かめようがなかった。
この下に何があるのだろうか。
鎖の埋まる床を撫ぜる。砂埃が指先に付着した。
ただ何となく、もっと遠いどこかまで繋がっている、そんな気がした。
「ねえ」
と呼ばれた。振り返る。向こうのソファで順平がテレビを見ていた。
「呼んだ?」と声を掛ける。
順平がテレビから、こちらに顔を向けて傾けた。
「何してんの?」
二月二十八日。
二月も今日で終わりだ。二年生も残すところあと一か月だ。そしてそれよりも早く、三年生の卒業式がある。
ただ、体が凄く重い。
日に日に体力の上限値が減っていっているようだった。上限以上に回復しないのに、上限が減っていくものだから、どんどん疲れやすくなる。これでも体は鍛えていた方なのに。なんだか変だ。
「辛い?」
それから、鎖が話し掛けてくるようになった。
自分でも何を言っているんだか、と思う。まあ鎖が、というと正確には違うかもしれない。鎖の辺りから話し掛けられる。消防署の方から来ました、の様な詐欺の文句みたいだ。
声はたまに聞こえてくる。日に一、二度。
ねえ、という呼びかけから、大丈夫? という労りまで。
一言二言の短い言葉が鎖伝手に飛んでくる。返事をしても、返事をしなくても、鎖から聞こえる言葉の回数は変わらなかった。
もしかしたら向こうには聞こえないのかもしれない。会話が成立したことは無かった。
一人で部屋に居る時に聞こえたなら、気が向いたら返事をする。それ以外は無視している。返事をしても聞こえないなら、返事をする意味なんてないのだけれど。
でも聞こえる声がおずおずとしていて、押し殺していて、淋しそうで、それでいて時々妙に愛しげな色を見せるから、何故か放っておけないのだ。
「好きだよ」と聞こえた後すこし置いて「何でもない」と付け加えられた時は、どうしてか泣きたくなった。
それ以降はずっと、苦しくない? とか辛くない? とかいたわる言葉ばかりを伝えて来る。
そしてたまに「後悔していない?」と聞いてくる。
膝を抱えて頭を埋める。
指先を伸ばして、足枷に触れた。優しく。しっかりと。
「していない」
三月 日
起き上がると体は軽かった。
嘘みたいに、羽毛みたいに軽い体を起こす。
ベッドから降り、床に千切れて落ちていた鎖を拾い上げる。枷はまだ足に嵌ったままだったが、重みは無い。
鎖を辿って外へ出る。薄明りで静まり返った建物の中は、夜明け前の空気に似ていて、まるで夢のようだった。
以前鎖が途切れていた場所に、穴が開いていた。ぽかりと口が開いている。その端から階段が下に伸びている。鎖はその下へと続いていた。
裸足のまま、階段を下りる。裸足で踏む白い階段は現実ではないみたいだった。
ひたひたと、降りていく。寮のラウンジに出た。向こうにソファが見える。テーブルもある。見知ったランプ、テレビ。扉。
電気は付いていない。窓から差し込む僅かな光が輪郭を照らしている。息を止めて覗き込んだ水中のようだった。時が止まって、静かに記憶を形取っている。
階段を振り返る。
一度、足を止める。唇を薄く開け、静かに息を吸い込んだ。瞬きをして、息を吐く。細く、細く、ゆっくりと。
外へと続く扉の直ぐ側、カウンターに近寄る。台帳が開いて置いてある。回り込んで、カウンターの内側へ入る。
テーブルと椅子と、パソコンがある。
その奥、あまり開けたことのなかった扉を押した。
真っ暗闇の中で、星がちかちかと光っていた。
壁にべったりと黒いペンキを塗ったようにも、水槽に墨汁を注いだようにも見える。その中を、鎖を辿って進んでいく。
上の方に暫く進むと、重たい扉があった。鎖はその中へと消えている。
扉を開けようと、手を掛けるがすり抜けてしまった。重いだろうと思っていたので、勢い余ってつんのめる。体ごとつるりと扉をすり抜けて、内側へ入った。
ふらついた足元に視線を落とす。鎖が、まだ続いている。目で辿って行くと、ついに終わりが見えた。
青白い足首に、足枷。
顔を上げる。
青い瞳をした人が立っていて、こっちをじっと、見ていた。
「久し振り」
鎖から聞こえた声が、そう言った。
少しだけ笑ってから、答える。
「お待たせ」