(メティスと深月)
わたしはそこで目を開けた。
瞼を持ち上げる重みを感じる。ぱさりと睫毛の揺れる風を感じる。ほうと口の中に流れ込む空気の温度を感じる。
開いた瞼の隙間から見える景色はまだ白く煙っていた。
誰かが泣いている声が聞こえた気がした。
何がが捨てられる音を聞いた気がした。
揺らめく景色を眼球を動かし眺める。
ここの景色はまだ何もない。わたしは下を見る。腕が指が足が見える。
わたしはもう一度目を閉じる。
もう少し、こうしていよう。
両の腕で足を掻き抱いたまま、もう少し目を閉じていよう。
「ねえ」
次に目を開いた時、声が聞こえた。声はとても近くから聞こえた。直ぐ近くの、少し上の方から。
わたしは返事をしなかった。代わりに二三度瞬きをする。そうして緩やかに目覚める。
「ねえ、聞こえる？」
もう一度声がした。
わたしは顔を上げる。カシャリと音がした。
顔を上げた世界は、前に目を開けた時とは随分と違う景色をしていた。煙るだけだったそれは、形を得て部屋を形成していた。白くて赤い部屋。重そうな柱に支えられた、天井の高い部屋。
そして目の前にひとが立っていた。何となく懐かしいような恋しいような、淋しいような気がした。わたしは彼を見上げる。
彼は膝を折るとわたしと目線を合わせた。
「話せる？」
問い掛けの意味をじっくりと考える。それからたっぷりと間を置いたのち「うん」と答えた。わたしは私の声をここで初めて聞いた。
少しだけ予想していたそれと、違う気がした。
「名前はある？」
「なまえ」
「そう、教えて」
「…………メティス」
メティス。と彼が私の名前を復唱する。「アイギスじゃないんだね」
「あいぎす」私は彼が発した名前を口から出してみる。あいぎす、アイギス。誰だろう。
「アイギスって、誰」
素直に問い掛けると、彼は少し困惑した。ううんと首を捻り、そういえばファルロスもファルロスって名前があったしもちづきりょうじって名前があったし同じものだからって同じ名前とは限らないのかもしれないなあ、ともごもごと呟いた。
私は何の事かさっぱり分からなかったので、ただぱちりぱちりと瞬きをした。
「うーんそうだな、君にとって大切な人だよ」
「たいせつ？」
「うん。凄く大切な人。アイギスがオリジナルとするなら……メティスにとってはお姉さんみたいなものになるのかな」
「姉さん」
「そう」
目の前の彼はにっこりと笑って頷いた。私は口の中で姉さんと何度か呟いてみる。姉さん、姉さん。アイギスは私の、姉さん。大切な人。
「でも確かにアイギスなんだけどアイギスそのものって訳でもなさそうだな……ねえメティス」
「なに」
「君はいつからここに居るの」
「知らない。ずっとここに居るから」
「じゃあさ、前に気付いた時はどんな姿だったか覚えてる？」
「腕があって手があって足があった」
「それって今と同じ？」
「分からない」
自分の掌を眺めてみる。白と黒の手だ。それから黒い脚。赤い羽根みたいなパーツ。
「じゃあ、どうしてここに居るかは覚えてる？」
「知らない」
「そっか」
彼は頷いて立ち上がった。それを視線で見送る。
私はどうしてここに居るのか。それは知らない。だって初めからここに居たのだから。だけれど、居るべきだから、居るのだと思う。私はここに居なくてはいけない。
何故かは分からない。けれど、ここに居なくては。
「ねえ、あの大きな扉の向こうは何があるの」
彼が首を捻り、視線で彼の背後、私の眼前にある扉を示した。重厚感のある大きな扉。私たちが今いるこの部屋も、あそこへと至る為の通り道だ。私は何故かそれを知っていた。だから答える。
「コロッセオ」
「コロッセオ？」
彼が聞き返す。私は頷く。
「コロッセオってことは闘技場……だよね」
それは知らないので私は黙る。彼は少しだけ目を伏せて寂しそうな顔をした。
「ねえ、中を見てもいい？」
「うん」
頷くと、彼はくるりと身を翻し扉へ向けて歩き出した。一歩一歩進む。足音が壁に当たり反響する。ふと足音が消える。いつの間にか真赤な絨毯が扉へ導くように敷かれていた。
扉の前へと至った彼は両手を付き、力を込める。重い扉が僅かに開く。隙間からコロッセオの中が、ここからでも見えた。広い広い空間だ。
その広い空間の真ん中に影があった。ぼんやりと形を定めず揺らめく影。何かの影じゃない。あれはただ、影、そのものだ。
ゆらゆらゆらゆら影が揺れ、ふと、黄色い光が二つ光った。
それは目だった。
彼が扉から手を離すと、重たい音を立てながら元の様に扉は閉まった。彼は反転し、閉まった扉に背を預けた。長くゆっくりと息が吐き出される音が聞こえた。
「やっぱりな」彼は寂しそうに呟いた。
私もそう思う。揺らめく影の形を思い出して僅かに寂しくなる。寂しそうな影だった。
あれは、彼だ。彼そのものではない。けれどあれは、彼だった。
「ねえ、メティス」
彼が名前を呼ぶ。「なに」と返事をする。
「この部屋も君も、使わなくて済むなら本当はその方がいいんだろうけど……ここにあるってことは、必要になるからあるんだと思う」
「……分からない」
「そっか、そうだね。じゃあ一つお願いをしてもいい」
「なに」
「アイギスをお願い」
アイギス、姉さん。お願い。
ふと思い立ち、私は立ち上がる。足を伸ばし、腰を浮かし、足の裏で地面に立つ。体がふわりと浮いた心地がした。
私が一歩を踏み出すと、カシャリと音がした。カシャンカシャン。音を鳴らしながら私は一歩一歩進み、彼の目の前に立つ。覗き込んだ彼の顔は、優しく光る灰色の宝石みたいな目が嵌っていて、なんだか綺麗だった。それからとても、淋しそうだった。
ああ、淋しそうってなんだろう。
「ねえ、姉さんをお願いって、どういうこと」
「……きっと、アイギスはこれからいろんなものを捨てようとすると思う。だから、それを無くさない様に持っていてあげて」
「色んな物？」
「アイギスにとって大切な物だよ」
「姉さんの大切な物？」
「そう。アイギスが人間である証みたいなものだよ」
「姉さんはそれを無くしちゃうの」
「そうなると思う」
「どうして」
「……上手く言えない。でも君がその姿をしているってことは、きっとそうなってしまうと思う」
そうやって少しだけ笑った彼の指が、私の目の前にある仮面の輪郭をなぞった。
私は私の姿を見る。白と黒の手、機械の関節。機械の関節を持った脚。機械の乙女。対シャドウ特別制圧兵装。カシャンと音がたつ。
「どうしてそんなことが分かるの」
「俺もそうだったからかな。俺が捨てたものは、全部綾時が持ってたから。アイギスが捨ててしまうものはきっと、良く似た君が持っていてあげられると思う」
良く、分からない。
私は掌を眺め、関節が曲がる様を観察する。私の姿。アイギスの、姿。姉さん。
「もし、姉さんが、それを無くすとどうなるの」
「……アイギスっていう人が死んでしまうことに近いかな」
「姉さん死んじゃうの」
「そうならない為に、守っていて」
「わかった」
私はしっかりと頷いた。姉さんを守る。それは私の使命の様に感じた。途端に、私が此処にあるのも、その為の様な気がしてくる。
顔を覆っていた仮面を上げる。少し鮮明になった世界に、彼の顔が映る。彼は少し驚いて私の顔を見た。じっと見詰める。ふっと彼が表情を緩めた。
「アイギスの青とは違うけど、綺麗な目の色だね」
「貴方は姉さんを知っているの」
「知ってるよ。良く知ってる」
「なら貴方は姉さんのところへ戻るの」
「戻らないよ」
「どうして。戻って貴方も姉さんを守ってあげたら、姉さんは死なないでしょう」
「ごめんね、無理なんだ」
彼は笑った。目を伏せて、穏やかに。
「死んじゃったからね」
「……貴方、死んじゃったの？」
「うん。死んじゃった」
「どうして」
私は瞬く。彼をじっと見詰める。
深い海の色をした髪が、片目を覆っている。見詰められる事を得意としていない様だった。灰色の宝石は伏せた瞼と睫毛が落とす影に隠されても、きらきらと綺麗だった。
それでもこの人は、死んじゃっているの。
「どうして」
私は回答を急かした。彼は私の目を見て、ぱちりと瞬きをし、また目を伏せた。
「理由は色々あるけど……会いたい人が居たからかなあ」
「なら今からその人に会いに行くの」
「そうだよ」
「そのために、死んじゃったの」
「うん」
「死んじゃうって、悲しい事じゃないの」
私は問い掛ける。彼は少し驚いて「もう悲しいって事が分かるんだね」と呟いた。
とても、淋しそうだった。
「そうだね……やっぱり、ちょっと悲しいかな」
「ならどうして」
「でも、後悔はしてないんだよ」
「……どうして」
「自分で決めたことだから」
そう言い切った彼の言葉には、何の淀みもなかった。私は妙に納得して「そっか」と頷いた。彼はそんな私を見て笑った。
彼の笑顔は穏やかで、私はどうしてかほっとした。
「貴方の旅は終わったんだね」
「うん」
「いい旅だった？」
「うん」
「そっか」
私はカシャンを仮面を閉じる。閉じた景色の中ぱちりと瞬きをする。「メティス」と声がする。彼が私の名前を呼んでいる。優しい声だ。
「メティス」
「なに」
「みんなを、アイギスをお願い。本当は自分で伝えるべきだったのかもしれないけれど、言わないっていうのも、自分で決めたことだから最後まで貫くよ」
「うん」
「それに、ここにもあんまり長く居られそうにないし。目的地じゃなかったここに引き寄せられたのも、偶然かもしれないけど、でもメティスに会えて、良かったよ」
「うん、私も。貴方に会えて良かった」
ありがとう、と彼の瞳が私を見る。
会えてよかった。不思議な事に、私は確かにそう思った。思った。確かに、思った。
「きっと、そう遠くないうちにみんな此処へ来ると思う。もうそういう要素が揃ってしまっているから……。だからその時は、助けてあげて」
「うん」
「きっと、大丈夫だと思うけど。みんなには、みんなが居るしね」
彼は伏せていた目を更に伏せ、ついには目を閉じた。ゆっくりと、ゆっくりと。
私はそんな彼の顔を、仮面を上げて再びじっと見詰める。緩やかに呼吸を繰り返す隙間、彼はりょうじにあいたいなあと呟いた。早く会えるといいねと私は心の中で呟く。それから、姉さんの事は任せてと。大丈夫だよと。
だから、安心して。いってらっしゃい。
「ねえ、訊いてもいい」
問い掛けると彼が目を開けた。優しい灰色の瞳が私を映す。
「貴方の名前はなんていうの」
私はじっと見詰める。彼の顔を、じっと。
彼はふわりと微笑んだ。優しい笑みで。
私は少し、淋しくなって懐かしくなった。
「内緒だよ」
三月六日というのは、私が目を覚まし、緒張深月が目を開けなかった日の事だった。