(綾主)
夜の深い闇だけが僕の味方だ。
ゆるりと瞼を持ち上げる。馴染んだ空気の、どんよりとした影時間の闇に出た。瞬きを繰り返す瞼の隙間から自分の手を見る。ひらひらと掌を動かす。指が五本あって、肌が白い。この影の中で異質に光っている様にも見える。
何だか不思議だと思った。自分の思い通りに動く、人の体があることが。
「やあ」
振っていた手を上げて、目の前に居る彼にあいさつをする。
「こんばんは」
返事は帰って来なかった。
いつもなら気だるげに瞼を持ち上げ、首をゆっくりと捻り、灰色の瞳をこちらに向けてくれるのに。
ベッドに横たわる彼はピクリとも動かなかった。僕はゆっくりと近付く。その間も彼に動きは一切ない。とても静かだ。
ベッドの前まで来て、首を傾げて彼の顔を覗き込む。固く閉じられた瞼と唇。微動だにしない姿は、まるで死んでいるように見えた。
「生きてる?」
僕は思わずそう問いかけた。
でも寝入っているのなら返事はないかもしれない。そう思ったが、彼の唇がかすかに動いた。
「…………寝てる」
言葉の後に、やっとのことで目を開けた彼の灰色の瞳がこちらを向いた。目が合った。僕はにこりと笑う。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「ピクリとも動かないから死んでるのかと思ったよ」
「寝てたんだ」
「そうみたいだね。疲れてた? そうならお邪魔したら悪いね」
「……いいよ、平気」
彼はそう言いながら毛布を引っ張り上げ、顔の半分くらいまで埋まってしまった。
「何だか言葉と行動が相反しているような気がするんだけど、気のせいかな」
「寒いんだ、今日」
「そうなの?」
「寒くないの」
「……そうだね」少しだけ考えてにこりと笑う。
そんな僕を不思議に思ったのか、彼は寝返りを打ちこちらに体を向けた。正面から閑かな色をした瞳が見据えてくる。じっと見詰めてくる灰色は、力強さなどほど遠い様に見せながら、言い得ぬ圧力を持っていた。
「いいな」
「え、何がだい?」
「寒くないの」
彼はもぞもぞと体を丸め、毛布にぴったりとくるまった。こういうの確か、猫みたいだって言うんじゃなかっただろうか。
「この前会った時は、そんなに寒そうじゃなかったよね」
「今日は、例年より寒いとかなんとか……言ってた」
「そうなんだ」
「まだ冬支度してないのに」
「ふうんなんだっけこういうの……秋の夜長?」
「違うと思う」
「そっか残念」
「そもそも、影時間だと関係ないだろ」
「それもそうだね」
「……時期的には間違ってないけど」
「何が」
「秋の夜長」
「本当?」
「うん。ただ使い所が変」
「うーん難しいね」
僕は首を捻りながら、彼のベッドの端に腰を掛けた。ふわりとした感触。僕ごときの重さではあまり沈まないベッド。ためしに寝転んでみた。座ったまま横に倒れたら彼の顔が全く見えなくなった。仕方ないので足も上げてもぞりと転がり彼に向き直る。灰色の瞳がすぐ近くに見える。透明でいて底の見えない不思議な色だ。その中に走る黒い線はまるで流星群のよう、と思い、けれど流星群というのも知識でしかないので、この例えは適切かどうか分からない。
でも僕は感動した。彼の瞳の色がとても綺麗だったのだ。
「ねえ深月くん。寝るって楽しい?」
「……楽しいって言われると違う気がする」
「そう。じゃあ寝るってことと死ぬってこと違うと思う?」
「そりゃ、違うだろ。大違いだ」
「眠りは覚めるから?」
「そう」
「なら、寝ている間と、死んでいること、違うと思う?」
「違う、だろ」
「けれど目が覚めなければ、死んでいることと等しいのかもしれないよ」
「ファルロスが何を言いたいのか良く分からない」
彼は顔を顰めた。僕は笑う。
「君の寝顔が、死んでるみたいだったんだ」
そんなことを話したことがあったな、と唐突に思い出していた。
あの時の僕というのは、知識だけ偏っていて、現実の事象と結びついていないものがあまりに多くあった。「こういう時は」と口に出した言葉は大体彼に否定されて改定された。知らないものを知識だけで話すとは実に無謀だった、と今になって思う。
でもそういう会話をするのは楽しかった。僕の疑問に答えようと考えてくれる彼と、たまに思い出したように疑問を返してくる彼。どちらも楽しかった。あの時間はとても充実していた、そう思う。そうやって記憶を掘り起こして辿っていくと、思いの外充実していた時間というのは長くある。いやきっと、彼と居る時間というのがそれだけで充実していたのだ。
ゆっくりと目を開ける。開いた視界の先には彼の顔が見えた。真っ暗な部屋の中、ぼんやりと見える、瞼と唇を閉じた彼の顔。
僕は少しだけ唇を開いて、ひやりとした空気を吸い込み、あの時と同じ質問をした。
「生きてる?」
「…………死んでる」
「身も蓋もないなあ」
声を立てて笑うと、彼の閉じられていた目が薄っすらと開いた。グレーダイヤモンドの瞳が暗闇の中でわずかに光って見える。
「寝てる、って言ってほしかったのか」
「あの時は、そう答えたでしょ」
「寝てる、ってのはそもそも生きてる? って質問の答えになってないだろ」
「言ったのは君だよ」
「そうだけど」
彼は少しだけ居心地悪そうに毛布を引き上げ、あの時の様に顔を半分ほど埋めて丸くなった。僕も同じように毛布の中に引っ込んで、目だけ出して笑った。
真っ暗な部屋の中でお互い目だけ、きっと光っている。
「そういえば、君って明かり付けないで寝るよね」
「なんか、その方が良く寝れる気がして」
「君、生きてた頃から良く寝てたね」
「そういえば……、お前に寝てることと死んでることは同じじゃないのかとか言われたことあったな」
「言ったね。覚えてたの」
「突拍子もなかったから」
「うっ……なんかそう言われるとちょっと胸に突き刺さるものがあるね」
「でも、今はもう寝てるのも死んでるのも、同じようなものだな」
「淋しいこと言わないでよ」
「事実」
目を閉じながらそう言った彼の言葉は少し笑っていた。僕はそれに少し救われながら瞬きをした。
部屋の中は真っ暗で、目の前に、間近に居る彼の顔くらいしか見えない。ここは寝室で、ベッドの上。のはずだけれど、こうも見えないとここはまったく違うどこか別の場所なのかもしれないという錯覚を起こす。僕はほわりと息を吐いた。
「なんか、海の底みたいだね」
「何が?」
「ここ。真っ暗で、何も見えない」
閉じていた瞼を再び開けた彼と目が合う。綺麗な色だな、と思うのは今も変わらない。グレーダイヤモンドが瞬きに隠れ、次には天井の方を見ていた。
「部屋の影が見えるから……どっちかって言うと水槽だな」
「ロマンがないなあ」
「もっと部屋広くしたらそれっぽい気がするかも」
「それもやだよ。それにしても夜目が効くね」
「むしろ何で夜っぽい綾時が見えてないのか分かんない」
「僕って夜っぽいの?」
「朝っぽくはない」
「そうなの?」
「……夜に良く会う印象が強い、からかもしれないけど」
「僕、と会ってたのは昼間の学校じゃない?」
「どれもお前だよ」
その言葉を最後に、また瞼を閉じてしまった。
部屋はまた静かになって明かりも全くなくなった。ぱちりと瞬きをしても、あまり景色が変わらない。かろうじて彼の顔は見えているけれど、やはり目が閉じられているとぼんやりとしか分からない。彼の目の印象は、強い。僕にとって、とても。
目を凝らして、じっと寝顔を見詰める。その向こうにある、部屋の影、というのは僕には見えない。想像してみた四角い真っ暗な部屋は、確かに水槽みたいかもしれない。
その底で僕と彼の二人だけが寄り添って寝ている。寝ているのかもしれないし、死んでいるのかもしれない。僕が目を閉じて眠ってしまえば、もう違いは分からない。そんなことを思っても、きっとまた目が覚めて僕たちは起き上がるのだけれど。
閉じられた水槽の中で僕と彼の二人っきり。
それはなんだかいいかもしれない。
僕はゆっくり目を閉じた。