(順+綾主)
凄く大きな音がしたのを覚えている。
気が付くと知らない景色が見えていた。何があったんだか。良く思い出せない。見えるのは青空だ。雲一つない、濁り一つない、何か変な空。俺が知っている空ってこんな感じだったっけか。
欠伸を噛み殺しながら起き上って伸びをする。ぐぐっと腕を伸ばしながら、はたと違和感を感じる。やけに体が軽い。空気みたいだ。絶好調の時、よりも随分軽くて今なら空さえも飛べるのでは、と思うほどに。
きょろきょろとあたりを見回す。気色悪い程にきれいな青空と、穏やかな緑が見える。こんなに長閑な空気吸ったことあったっけ、ってくらい穏やかで心地よい風だ。
その穏やかな景色の向こうの方に家が一軒見えた。小さくってこの景色になじんでいる。瓦屋根で庭には花壇と畑が見える。その向こうには海だ。いや、湖か。どっちにしろ大きな水溜まり。
良く分からないけれど、こういう時はあの家に向かうのがベストだろうな、とゲーム好きな自分の脳みそは楽観的に判断した。やけに軽い体をふわふわと向かわせる。
変な気分だ。
改めて空を見上げる。本当に何もない不思議な青色だ。なんだっけこの青、前に見たことがある気がするんだ。そうだ、あいつの目に似てる。そうそう、あいつあいつ。綺麗な目をしてたな。あいつもその目が気に入りだった。アイギスとはまた少し違った青だったな。
家に近付くと人の気配が見えてきた。軒先に置かれたじょうろだとか、縁側に干されている洗濯物に座布団。和風な家なのかと思いきや、細々と置かれたアイテムはアンティーク調だ。和洋折衷ってやつだろうか。モダン? とでも呼ぶのか、この辺は疎いから良く分からない。
「すんませーん」
縁側の硝子戸から人影が動いているのが見える位近付いたところで声を掛けた。
返事はない。
聞こえなかったんだろうか。
こんな長閑な、田舎みたいなところに住んでるくらいだから老人なのかもしれない。もう一回呼ぼうか、もう少し近付こうか。しかし見たところ玄関、らしき場所に呼び鈴の類はなさそうだ。やっぱり呼ぶしかないのか。ううん、と首を捻る。
よし、ともう一度大きく息を吸い込む。あれ、何だか今変な感じがしたような気がする。何だっけ、これ。
「あれ、珍しいね。お客さんなんて」
すんません、の「す」まで口から出たところで後ろから声を掛けられた。若い声だった。てっきりしゃがれた声の老人かと思ったらとんだ優男の声だ。
「あすんません、ちょっと迷った? みたいで」
「え……?」
頭を掻きながら振り返ると、変な空と同じ色をした青色の、目が、見えた。そうだそうだ、こいつの目だ。さっき思ったあいつは、こいつだ。
声を掛けようと思って、何でか名前が出て来ないことに気付いた。さっきからあいつだのこいつだの、名前が出て来ない。なんでだっけ。俺が頭を捻っている向かいで、こいつは目を瞠っている。
後ろの方からガシャンと、大きな何かが割れる音がした。
振り返る。あのこじんまりとした家の縁側で、こいつと同じ様な表情をしたそいつが立っていて、足元には粉々になったマグカップが見えた。
「……順平」
「そうだ、綾時だ」
ポンと手を叩き、俺は正面に立つ空色の目をしたこいつを指差した。
「そんで深月だわ」
振り返ってマグカップを割ったそいつを指差した。
「なんで順平が居るの?」と綾時が言った声は割かし穏やかではあったが顔が盛大に慌てていた。
「わはは。知らね」俺はまさにおろおろとする綾時が面白かったので笑った。どことなく気分が良かったのだ。
久々に見た綾時は相変わらずの見た目だったが、何かが足らない。上から下までじっくりと眺めまわして首を傾げてううんと唸ってようやく「マフラーがない」と気付いた。
「綾時、トレードマークのマフラーどうしたよ」
「えっ、あっ? ああ、え、洗濯中なんだ」
動揺し過ぎだろ、と綾時の背中を叩くと、うええと変な声を出した。兎に角おかしかった。
振り返って見ると、確かに一軒家の縁側に黄色のマフラーが棚引いていた。そしてその横で深月が先程と変わらず呆然と立っている。目が合ったので手を振ると、ハッとしたように縁側から飛び降りてこちらへ駆けてきた。凄い速さだ。そういえば陸上部だったっけ。
あっという間に目の前まで来た深月に腕、そう腕を掴まれた。そこで初めて自分が今どういう格好をしているか認識した。大した格好はしていなかった。ジーンズにTシャツというラフな格好だ。コンビニにでもちょっと行ってくるってラフさだ。
「順平お前、どうした」
「いやどうしたっつーか。や、お前こそ大丈夫かよ。今割れたコップの上通って来たろ。刺さってねえ?」
足元を見れば深月は裸足だったのだ。破片でも刺さっていたら一大事だ。綾時が慌てるかな、と思ったがそうでもなかった。変に心配性だったのは治ったんだろうか。というか良く見れば自分も裸足だった。
「ねえ深月くんどうしよう」
「どうするも何も」
「えっと、川? 川に流せばいいんだっけ?」
「いや川に流したら駄目だった気がする」
「えじゃあ川渡るの?」
「渡るのはもっと駄目だろっていうか川がそもそも無いから」
「え、あっちに小川があるよ」
「あの川は違うだろ。俺が作ったやつだし」
「えっ、えっじゃあどどどどどうしたら」
「落ち着け綾時、もう一回殴ればいいんじゃないか」
「殴るの?」
「お前らどっちも落ちつけよ!」
さっぱり意味の分からない会話についに居たたまれなくなり間に割って入った。
綾時も深月もおろおろとして目が泳いでいるし、そういえばこんな風に取り乱す二人は初めて見たかもしれない。
二人の間に差し入れた掌をたどり、二人の視線が自分に集まった。ぱっちりとした大きい瞳が二対こっちを瞬きを止めて見詰めてくる。
「わははは」
俺は取りあえず、おかしかったので指を指して笑った。
我に返った深月に足を蹴られた。おかしなことに死ぬほど痛かった。
何故かやけに蹴られた足が痛くて蹲って呻き声を上げていると「一旦家に行こっか」とこちらも我に返ったらしい綾時の声が頭上から降ってきた。「そうするか」と少しばかり呆れ気味な深月の声がして、俺の体は抱え上げられた。そりゃもうふわりと。君の体羽の様に軽いね、とかそんな感じにふわりと。抱え上げたのは綾時だった。
なんてたくましい腕! とかそういうこともなく、俺の知っているホッソイ腕で、女の子だったらきっと憧れのシチュエーション、お姫様だっこをしてくれた。俺は男だったので意識を混濁させて現実から逃避した。簡単に言うと白目をむいた。
その後ふわっとまるで羽毛布団の様に俺はあの一軒家の縁側に下ろされた。気付けば割れたマグカップの破片は綺麗になくなっていた。
体を起こし、縁側に腰掛ける。綾時が隣に座って、深月は反対隣りから見下ろしてきた。
「何か飲む……ってこういう時飲み食いさせちゃいけないんだっけ」
「あ、それって豚になるやつでしょ?」
「そうそれ。やめといたほうがいいのかな」
「あ、オレッチ喉乾いてないからお構いなく。どうもどうも」
喉が渇くどころかお腹も空いていない。そういえばお腹が空いていたような気がしていたけれど、今はそんな事全くない。
俺がぺこりとおどけながら頭を下げると「もしかしたら空腹とかないのかもね」と綾時がいった。まさにその通りである。「そういうもんか」と深月も納得したらしく、腰を下ろした。
俺は両隣の二人の顔をまじまじと見比べ、何だか不思議な気持ちになった。
「なんつーか、お前ら変わんねえなあ」
「そうかな? 順平は…………こんな感じだったね」
「おい綾時、なんだ今の間は」
「えっ? 変わったような気がしたけど、そうでもなかった、から?」
「お前」それ褒めてないな。
綾時のわき腹を軽く殴ると「痛いよー」と全く痛くなさそうな声で笑った。
「それより順平、最後に何してたか覚えてるか」
深月がそう真剣な声で呼び掛けるから、記憶を絞り出した。どうもさっきからあまり思い出せないのだ。というか思い出そうとしないというか。
「最後って……あー、なんか腹減ってたよーな、気がするんだけどな」
「……あんまり役立たない情報だな」
「なんだとぉ」
明らかにがっかり顔をした深月に怒ってみせるが、実際自分でもこれは役立たないなと分かっていたので表面上にとどめた。
「ねえ、深月くん……大丈夫だよね」
「断言はできないけど……これまでの経験で行くとまだ戻せば大丈夫、だと思う」
「そう、だよね。うん」
「え、なになにお二人さん。オレッチにも解説プリーズ」
会話に割り込むと、二人は顔を見合わせて黙り込んでしまった。何か分からないが目で会話をしている気配を感じる。以心伝心してるっぽいな、というのは昔から感じていたがこれは。
視線で交わされている会話の内容が、どうにも少し深刻な様な気がして俺は二人の顔をおろおろと交互に見詰めた。
「な……何話してるのお二人さん」
「……えーっとね……」
「どうにかして帰れ順平」
「えっ、来たばっかじゃねえか! 何だよ俺はお邪魔虫ってか! 二人の愛の巣にはお邪魔虫ってか! ってあれ、お前らここに二人で住んでんの?」
ふと気が付いて家の中を振り返る。このモダンな一軒家は二人の家なのか。深月はここから出てきたし、綾時も自然な流れで戻ってきた。それにこの広さで深月一人だけっていう事はないだろう。
「それとも他に誰か居んの?」
「居ないよ。僕たち二人だけ」
答えた綾時は穏やかに笑っていた。こいつ、こういう笑い方もするんだな、とちょっぴり驚いた。
「……ってことはやっぱり愛の巣」
「正解!」
「正解、じゃないだろ」
「でも間違ってないから正解だよ」
「あーうん?」
びしりと綾時の白い指が俺の鼻先を指した。深月は呆れながら首を傾げている。
俺は笑った。
「仲良くやってんな」
「でも時々喧嘩するよ」
「え、マジで? 喧嘩する綾時とか想像つかねーわ」
「こいつ怒らせると面倒だぞ」
「おーそれちょっと見たいんだけど……お前ら喧嘩してみてくんねえ?」
「そんな無茶言わないでよー」
「なー綾時、お前何したら怒んの?」
「おい順平……」
「えーそうだな、深月君が順平にキスしたら怒るかも」
「スマン」
両手を合わせて頭を下げると綾時がけらけらと笑った。深月が呆れて少しだけ目が細くなっている。間違えて深月の方を若干怒らせたらしい。こいつが怒ると怖いのは知っている。タルタロス内でキレた深月を一度見たことがあるがあれは恐ろしかった。大型シャドウ云々の前に世界が滅ぶかと思った。今になって思えば、よくもまあそんなマジギレを見た後にも自分は喧嘩を売れていたものだ。若さとは恐ろしきかな。
「はーでもさ、何か良かったな」
「何が?」
「ん? お前ら一緒でさ。おれっち一安心ーって感じだわ」
「順平は?」
「ん?」
「順平はどうなの」
綾時の空と同じ目がじっと見つめてくる。あまりに真直ぐに綺麗なその色は、ずっと見ていると恥ずかしくなってくる。俺は視線を逸らして頬をかいた。
「平和だよ」
「そっか」
「そっ」
「じゃ、早く帰らないとね」
「そーだな」
にっと笑うと綾時に背中を叩かれた。その勢いのまま立ち上がり、よろけて三歩進み振り返る。同じ様に立ち上がっていた二人がこちらへ歩み寄ってくる。隣りに並んだ二人の肩に腕を回してがっしりと掴んだ。そういえば、こうして肩を組んだこと、前にもあったな。
「途中まで送るよ、順平」
「おー頼むわ」
にししと笑って掴んでいた肩を離した。そうだそうだ、前こうしたときは深月にすごく嫌そうな顔をされたっけ。こいつはスキンシップが苦手だからなあ。今は嫌がらなかったな、むしろ笑っていた。
俺たちは三人で並んで、変な色の空の下の長閑な景色を、モダンな愛の巣を背にゆっくり進む。
景色はいつの間にか夕焼けに変わってきていた。
「空の色、綾時の目と同じ色じゃなくなっちまったなー」
「え、僕の目?」
「おう。お前の目とそっっくりそのまんまの色だったな、この空」
「ホント?」
「本当本当。最初見た時から誰かの目の色だなーって思ってたんだわ。そいつが綾時だったんだよ」
「本当?」
綾時の二度目の「本当?」は深月に向けられていた。じっと俺を挟んで綾時に見詰められた深月はぱちりと瞬きをし、ふいと視線を逸らした。俺は笑った。
「深月、図星!」
「うるさい」
照れた深月から繰り出された二度目のローキックを俺は飛んで避けて、また笑った。
何だか遠くから呼ばれた気がして俺は走り出した。少し走って二人を振り返った。
順平って俺の名前を呼ぶ声がする。
深月でも綾時でもない声が、空から俺を呼んでいる。
きっと心配してる、早く帰らなくては。
「そんじゃあな」
二人に向けて大声で叫んで、最後に大きく手を振った。
目を開けると白い天井が見えた。それから薬品の臭いと、そこらじゅうが痛い体。
動かない体の代わりに目玉を動かしてあたりを見回す。覗き込んでくる青色が見えた。あの空とは違う、青色だ。
「順平さん」
アイギスの声が、名前を呼んだ。でもさっき俺を呼んでいた声じゃない。きょろきょろと見回すとアイギスが視線を動かした。その視線を辿ると、俺の腹のあたりで伏している人影が見えた。
「彼女は今眠っています。ずっと、起きていましたから」
「……アイちゃん」
「待ってください、今お医者さんを呼びますから」
透明な、アイギスのつるりとした青色がこちらを見た。
俺は天井を見た。白だ。
「アイちゃん俺」
ゆっくりと瞬きをすると、瞼の隙間から涙が流れ落ちていった。
「あいつらに会ったよ」
そこからは怒涛で、目が回るような展開で本当に目を回してあっという間に再び眠りに落ちた。その時は夢も何も見なくて、長い瞬きのようで、再び目を開けると、閉じる前と同じ白の天井とかち合った。
三日前の夜にちょっとコンビニに出掛けた俺は、自動車にはねられ意識不明のまま丸二日を過ごしたらしい。
色々な説明を受けた。俺を呼び戻した声の持ち主の彼女も一頻り怒って泣いてそれからほっとして笑って、今は一旦家に戻っている。
今この病室に居るのは自分とアイギスの二人だった。アイギスはあれからずっと残っていた。その理由は簡単だった。
「あーいうのさ、多分、臨死体験って言うんだろうな」
あそこで見た変な色の空のことを思い出しながらそう呟くのを、アイギスは静かに聞いていた。
「あいつら俺を見てびっくりしてよ、川に流すだのそれはダメだのすげー慌ててて可笑しかったな」
「……すべての命が至る場所、なんでしょうか」
「さあなー。でも俺みたいなやつはたまに来るっぽかったぜ。だからそうなのかもな。三途の川?」
「綾時さんは、死そのもの、でしたものね」
「そーだな。それならもしかしたらさ、死ぬ時にもっかい会えるかもしんねえな」
あの遠くに見えた海が、魂が還る場所というなら、きっとまた会えるんだろう。
「順平さん」
アイギスの青が窓の外を見ていた。外には普通の色の空が広がっていた。
「魂、というものがない私は……会える、でしょうか」
ぱちん。と瞬きしたアイギスの金色の睫毛の隙間から涙が零れ落ちた。綺麗な透明の色をしたそれは宝石の様にぽたりと落ちた。
俺はゆっくり目を閉じた。凄く、眠くなってきたのだ。鎮痛剤の副作用かもしれない。
「あいつらさ、元気だったよ」
「……そう、ですか」
「モダンな一軒家に住んでてさ、多分あれ、深月が作ってるんだろうな。つか、あそこにある海以外のも全部たぶん深月が作ってるんだろうぜ。空は綾時の目の色してた。恥ずかしいだろ」
「……順平さん」
「最後に絶対見に行って、からかってやれよ」
欠伸がでた。眠気が押し寄せる。
ふわりと遠くなる意識の中で「はい」と呟いたアイギスの、優しい声が聞こえた。