(主綾)
眼球って普通触るものではないと思う。
触られたら反射的に目を閉じてしまうし、自ら触ろうと思う事もない。それから、他人の眼球を触ろう、と思う事もない。だからやはり、触るものではないのだ。綾時は今まさに眼球を舐められながらそう思っていた。
巌戸台分寮二階、一番奥の部屋。その部屋に備え付けられたベッドの上で寝転がり、部屋の主である深月に膝枕されているのが現状だ。胡坐をかいた彼の膝の上に頭を乗せられている。なかなかに甘ったるくて良いシチュエーションではないかと思う。これで、頭を優しく左手で固定され、瞼を右手で押さえられ、眼球に舌を這わされていなければ、だが。
温かい舌が目玉の上を撫でて行く感覚が、何とも言えなく気持ち悪い。そもそも触るような場所ではないのだ、泣きたくも無いのに勝手に涙だって出る。じわりと滲んだ涙ごと舐め取られる。ぎゅっと目を閉じようとするが瞼を押さえられていて叶わない。
「目閉じないで」
「反射だもの無理だよ。っていうかもうやめてよ」
「嫌?」
「うん、なんかヤダ」
そっか、と残念そうに深月は呟き、押さえていた指を離し、最後に瞼にキスを落とした。
やっと自由になった瞼をぱちぱちと閉じる。開放されたとはいえ、目の周りが唾液で濡れていて気持ち悪い。手の甲で雑に擦る。
「……顔洗いたい」ぼやくと、言いたい事の細部を察した深月が袖で目を拭ってくれる。根本的な解決にはなっていないのだが、マシになったので良しとしよう。
そのまま体を起こさず、寝転んだまま深月の顔を見上げる。正直なところ、ここの寝心地は悪くないので、出来るならこのまま寝ていたい。
「で、満足した?」
「……微妙に」
「人の眼球散々舐め回しておいてその言い草は無いと思うな」
暫く好きにさせてみた自分が言える様な台詞でもないけど。
「そもそもさ、何で目舐めようなんて思ったの?」
「なんか、美味しそうだったから」
「ふうん、何味だった?」
「ちょっと塩味」
「うんそうだね、涙はしょっぱいもんね」
「そんなに嫌だったのか」
「お返しにやってあげようか? あ、でも君の目って美味しそう、って色じゃないね」
灰色の食べ物、と言われても咄嗟に思いつかない。深月の目は綺麗だが、美味しそうという色では全くない。それから眼球を嘗め回すという趣味も今のところないので結局遠慮する。
ところで彼は一体何味だと思って舐めたのだろうか。青色、ソーダ味か何かだろうか。青色の食べ物を脳内で羅列していると、突然深月の膝から転げ落とされた。好き勝手眼球を舐め回された挙句のこの仕打ち。
「ねえ人の事を弄ぶのもいい加減にしてよ」
「変な言い方するな」
肘をついて上体を起こし、睨み付けるポーズを取る。が、少しばかりムッとした様子の深月に圧し掛かられて敢え無くベッドに逆戻りした。指を絡めて起き上がれない様押さえ付けられ、額にキスをされる。それから米神に、頬に、目頭に、瞼に。やっぱり深月は目が好きなのではないか、と綾時は思う。
ふと「深月はスキンシップが苦手」という何時だったかに聞いた順平情報を思い出して(これのどこが)と内心文句を付ける。全くの嘘じゃないか。今朝目が覚めてから、彼のスキンシップが止んでいた時間がどれだけだと思う。彼がこの部屋に居なかった間だけだ。
キスする事に満足したらしい深月は隣に寝転び、綾時の頭を抱き寄せた。抱え込まれ、深月の胸に額を押し当てる形になる。鼓動が緩やかな振動となって伝わってくる。ところで自分の心臓は今も鼓動を刻んでいるのだろうか、とふと思う。人ではないと気付いてしまってから、止まってしまっていやしないだろうか。心臓を動かす事に、自らの生命維持活動は何ら関係がない。それどころか、生きてすらいない。
でも、抱き締められていると暖かい。
こんな風にぴったりと寄り添うようになってから二週間経った。
綾時が、自分が人間ではないと思い出してから二週間。
この部屋に閉じ込められてから、二週間。
◇
「お風呂入りたい」
「……いいけど、今から?」
「今じゃないと連れて行ってくれないでしょ?」
「まあ」
時計を指し示す。時刻は影時間を二時間ほど過ぎたところだ。この時間ならば皆寝静まっていて、誰にも気付かれる事なく風呂へ行ける。「お願い」とワザとらしく首を傾げると、渋々といった様子で深月に手を引かれる。
お風呂が唯一、綾時が堂々とこの部屋から出る方法だった。
記憶を取り戻した十二月の始め。皆に選択肢を提示し、寮から消えた筈だった綾時は、深月に腕を掴まれ引き止められた。それからずっと、深月の部屋に閉じ込められている。
とは言え、手も足もどこも拘束されていない。軟禁、と呼ぶにもお粗末な状態だ。ただ「どこにもいくな、ここにいろ」と言われ、どこにも行かないように見張られているだけなのだ。
その見張っている深月も、日中は学校に行ってしまい不在だ。その間は大人しくこの部屋でだらけている。たまに気分転換に部屋から出て、水を飲みに行ったりはするが。それでもまたきちんとこの部屋に戻って、学校から帰った彼に「ほら、今日も部屋から出てないよ」と笑うのだ。
始め深月は綾時を残し学校に行くのを渋っていた。ちゃんと居るから。どこも行かないから、と言ったって聴かなかった。最後には「行かないなら力ずくで逃げるから」と言って脅したようなものだ。彼を振り切って逃げるなんて、残念ながらもう容易いことなのだ。
閉じ込められているとは言え、もう食べなくても平気なご飯もきちんと持ってきてくれるし、お風呂に入りたいといえば、今みたいに連れて行ってくれる。勿論深月同伴だが。他にも必要な事も物も不足なく与えてくれる。部屋から出てはいけない、という事意外何の不便もない
それから綾時がここに居る、ということは寮の皆には内緒だ。風花あたりは何となく気付いているかもしれないが。極力、ばれない様にしている。閉じ込められている側の綾時が気をつける、というのも変な話だが。
だから、風呂に入るのも、こうして深夜だけ。
「共同のお風呂なんだから、もっと広ければいいのに」
「文句言うなよ……」
「だって二人で入るにはやっぱりちょっと狭いんじゃない」
お世辞にも広々、とは言えない浴槽に、深月とつま先をつき合わせて収まる。お風呂に浸かるのは好きだ。じんわりと染み込むような暖かさが心地よくて心が緩む。
「りょーじ」
こっち、と言って深月が手を伸ばしてくる。それに答えて手を伸ばす。本当はこっちに来い、って事なのだろうが、動くのが面倒だ。暖かなお湯に包まれて、まどろみが迫ってきている。手を取り指を絡め浴槽に沈める。絡めた指先を強く掴まれる。少しばかり痛い。
こうしてスキンシップ過剰に、必死に縋り付く彼がなんだか可哀想だと綾時は思っていた。あの日からまるで、世界にたった一人の肉親を見付けたかのように必死に離すまいとする彼が、可哀想で。だからこのひたすらに温いお湯の中の様な檻閉じ込めらたままでいる。
けれどせめて大晦日の前日には開放してはくれないだろうか。でないと深月の部屋から皆のところに姿を現すことになってしまう。それはとても、格好が付かない。
ぼんやりとたゆたう視界の中で、じっと見詰めて逸らされないグレーダイヤモンドの瞳が見える。ぱちりと、瞬きをする。どれだけ瞬きを繰り返しても、瞳の色は逸らされない。
綾時は少しだけ微笑んだ。
(どれだけ君が引き止めたって、どうせ大晦日の影時間が来たら消えちゃうのにね)
12/10/07発行ペーパーより