青染めの夕焼け

(綾主)

 日曜日の昼下がり、賑わうシャガール内の一席に腰を落ち着けていた。いつものコーヒーを頼み、ヘッドフォンを耳にはめ、音楽に耳を傾ける。音楽越しにぎやかな喧騒が耳に届く。店内は友達同士のグループだったり恋人同士だったり、ノートを広げてペンを走らせていたりする、様々な人で埋め尽くされている。
 自分の席は二人掛けのテーブルで、向かいは空席だ。今日は一人なのだ。カップに口をつけ、コーヒーを流し込む。ほうと息をつき、ゆるやかに目を伏せる。
「相席してもいいですか?」
 視界の端に人影が映り、そう問いかけられた。顔をあげないまま「どうぞ」と答えると、人影はお礼を述べながら椅子を引いた。席に着くと近くにいた女性の店員を捕まえ、深月と同じコーヒーを頼んだ。
 それを気にせず、テーブルの端を眺めながら音楽に耳を傾ける。
「一人なの?」
 向かいに座った男が問い掛けてきた。テーブルの上で組まれてた指先が視界に映る。白い指だ。
「そうだけど」
「へぇ、君みたいなきれいな人が一人って勿体ないね」
「まあ、約束すっぽかされたせいで」
「それは酷い男だね」
 お待たせしました、と先ほどの女性店員が向かいの男の目の前にコーヒーカップを置いた。カチャンと陶器が小さな音が立てる。
「どうして約束してたのが男だって思ったんだ? すっぽかされたのはデートの約束だから相手は女の子だけど」
「えっ」
 明らかに男がうろたえたのが分かった。
 あまりにも分かり易いリアクションに思わず笑いが込み上げる。「冗談だよ」とくすくす笑いながら顔を上げると、目の前で青色の目をぱっちり見開いているそいつと目があった。
「待ってた、綾時」
「うん、ごめんね。お待たせ」
 笑い掛ければ、ほっとした綾時が顔をほころばせた。

 砂糖とミルクをたっぷり注いで、色の変わったコーヒーを綾時は口へ運んだ。すごく甘そうだ。前に一口貰ったことがあったが、やっぱり想像通り甘かった。
「来てもいいのか、悩んでいたんだ」カップを置いた綾時は苦笑した。「そうしたら君、いるんだもの」
「そりゃ居るだろ。約束してたんだから」
「ん……そうだよね」
 取り交わされていた約束は、何も知らなかった11月下旬のもの。次の日曜日に、デートしようね。っていう、それだけの約束。デートに誘うときはお茶でもどう? って日本では言うんだっけと綾時が言うから、じゃあシャガールで待ち合わせな。って決めただけ。時間も、詳しいことも、何も決める前だった。
 だから、ここへこうして来ては見たものの、会えるかどうかは分からなかった。それでも、来ないという選択肢は最初からなかったのだ。
 目の前で笑う綾時は、寮で別れた時と変わらない顔をしていて少しほっとした。けれど雰囲気はあの時とずいぶん違っている。上から下まで、じっと綾時を見つめる。
「いつもと違う格好だな」
 率直にそういうと、綾時は「ああ」と羽織っている濃紺のコートの襟を引っ張った。
「だってデートだしね」
「そういうもの?」
「それにあれだと目立つでしょ」
「……目立つって自覚はあったんだな」
「自覚した、ともいうね」
 これだとちょっと首が涼しくて落ち着かないけど、とマフラーの巻かれていない首を撫ぜた。綾時はどうにもあの黄色いのマフラーの印象が強い。あれがないだけで雰囲気はずいぶん違って見える。これなら一目で綾時だとわかってしまうことはないだろう。
「この後どこ行く」
「二人っきりでのんびりできるところがいいな」
「……まあ、だろうな」
「僕の今の性質上、極力人目につかない方がいいだろうから」
「そうするとかなり限られてくるな」
 いつもなら寮の自室へ向かうところだが、今はそうもいかない。きっとあそこは今一番行ってはいけないところだ。
「そういえば、綾時ってもう寮の部屋入れないのか?」
「僕の? そうだね、引きはらちゃったから」
「そっか」
 人目につかないところというと、この辺はとても限られてしまう。何せ今日は日曜だし、どこへ行っても人が多い。はて、と考えていると綾時があっと声を出した。
「部屋には入れないけど、屋上ならいけると思うよ」
「屋上か」
「深月、部屋には来たことあるけど屋上は出たことないでしょ」
「うん」
「学校の屋上には負けるけど、あそこもなかなか素敵だよ。良ければ案内させて」
「じゃあ、お願いする」
 こくりと頷くと「まかせて」と綾時はにこやかに笑った。
 席を立ち、シャガールを後にする。ポロニアンモール内も店内同様賑わっていて、人の流れに押される。離れまいと必死に隣に立つと、綾時がちらりと視線を寄越してまた前を向いた。
「どうかした」
「あっ、手をつなぎたいなって思ったけど……」こんなに人がいっぱいいるし駄目だよね。と苦笑した。
「いいよ」
 そう言って手を差し出すと、綾時は驚いて目をぱっちりと開いた。青色の目が零れて落ちてしまうんじゃないかってくらいだ。確かにいつも人目があるところは嫌だ、と断っていたけれどそこまで驚かなくてもいいのに。
「え、いいの? だっていつも」
「いいってば」
 二人の間に少しだけあった距離を詰めて、肩を寄せその隙間で指を絡めた。いきなりのことで綾時は驚いて肩を強張らせたが、直ぐに手を握り返してきた。これだけくっついてしまえば手をつないでるなんて見えないだろ。と深月が笑うと、そうだねと綾時も笑い返した。
 ぴたりと寄り添って雑踏の中を進んでいく。きっとこれが、最初で最後なんだろうから、手を繋いでデートなんてベタなことしてみたって良いんじゃないかって。
 思ったのだ。

 キィと音を立てて屋上に続く扉が開いた。思い返せば何度か、というにはあまりに少ない回数しか来たことのない綾時が住んでいた寮の、屋上。綾時の部屋はたまに学校帰りに寄った。初めは物の少ない部屋だったが、少しずつ、いろんなものが増えていって、11月下旬にはそれなりににぎやかな部屋になっていた。写真立てやその中の写真、京都のお土産。いつか使うかな、と思った色違いの手袋。そのどれももうこの寮のどこにも残ってはいないのだと思うと少しばかり寂しかった。
 屋上は閑散としていて、当たり前のように誰もいない。ぽつんとベンチが一つ置かれている。「こっち」と手を引かれそのベンチに腰かけた。
 風が吹き抜けていく。寒さから逃れるように綾時に身を寄せる。は、と吐いた息は白く風にさらわれて消えた。
「ここね、夕焼けがとてもきれいに見えるんだ」
 綾時は白い指先を伸ばし、空の一角を指さした。あたりに立ち並ぶビルがそこだけぽっかりとなく、額縁のように空が切り取られている。
「でも、まだ夕焼けにはちょっと早いね」
「そうだな」
 ひゅっとビルを抜ける風が吹いて皮膚を撫でた。寒さに綾時が肩を竦める。吹きさらしで、風から身を守るものがここには何もない。
「……やっぱり寒いね。勝手にでも部屋に入ってればよかったかな。今からでも行こうか?」
「いや、いいよ。ここでいい」
 もうほとんどない距離をさらに詰め、ぴったりと身を寄せる。
 手はあれからずっと離していない。離せなかった。綾時の肩に頭を預けると、その頭に綾時の頭が乗せられた。触れ合っているところだけが暖かかった。
 ぴたりと隙間なくくっついたことで、呼吸をする僅かな動きさえも伝わってくる。ゆるやかに上下する肩や、時折ほうと吐かれる息の音。流石に心音は遠くて聞こえないけれど。
 どうして綾時はこんなにも人なのに、人間じゃないのだろう。
「りょうじ」
「なあにみつき」
 名前を呼ぶと、うれしそうな声が名前を呼び返してくる。ビルの間の切り取られた空を、薄い雲が流れていく。ひんやり冷えた空気を吸い込むと、肺がぴりぴり痛んだ気がした。
「キスしてもいいですか」
「あ、えっと……お構いなく」
「……断られた」
「え、違うよ! あれ、どうぞ、ってこう言うんじゃなかったっけ」
「それなら、かまいませんよ、とかじゃないかな」
「そっか、ふふ、難しいね」
 くすくすと笑う振動が、頭蓋骨を響いて伝わってくる。ぐるりと首を動かし上を見上げる。空の色が、綾時の目よりもずいぶん彩度を下げてきていた。
 触れた唇は、お互いひどく冷たかった。

 今日の夕暮れは、途方もなく赤かった。バケツに溶いた真赤な絵の具を空一面にぶちまけたような、深い赤色だった。
 こんなにも寒いのに、空は燃えるようで不思議と熱いような気がした。
 ビルの額縁に切り取られた夕焼けの赤を二人して呆然と見ていた。空は、あまりにも綺麗で。少しの間瞬きを忘れた。
「きれいだね」
 そう震える声で呟いた綾時を見上げる。綾時は泣いていた。
 瞬きをする度に涙の零れる青色の目が、夕日に燃やされて赤に染まっていた。

 それがとても、きれいだった。

(とどこさんへ!)