(ユニバース後綾主)
とある良く晴れた春の日に、あっさりと生涯を終えることになった。
桜の咲く、穏やかに暖かい昼間のことだった。
固い膝を枕にしながら目を閉じるだけのさっぱりとしたものだった。
死ぬこと自体は分かり切ったものだったので、今更感慨も何も無かった。それよりも数日前から酷く疲れていて、これでやっと眠れるという安息感がその瞬間は勝っていた。
何せもう、その前に幾度も死んだようなものだった。
その日まで生き延びていた事の方が奇跡みたいなものだった。
死ぬことに恐怖して受け入れての葛藤を繰り広げてから、一ヶ月も経っていた。今更だ。良く生きたと思う。
この割かし短な人生が幸福な物であったかと問われるといささか疑問だが、呪詛をまき散らしながら死ぬほど不幸でもなかったように思われる。楽しくない事もあれやこれやとあったが、楽しかった事もそれこれと思い出せる。
結論としては取り敢えず満足なそれだ。
それに死んだ後にちょっとやりたい事があった。
なんとも変な話だが、そのやりたい事というのを今まさにやっている最中だ。
生きた身体を置いて目を開けたこの場所が、あの世なのか夢なのか判然としないがそんなことはどうだって良かった。
さっくり死んだことに比べれたら細事みたいなものだ。
目の前を小川が流れている。
水はなんの濁りもなく透き通っていて、川底には玉砂利がころころとそよいでいる。川縁は短な草花が囲っている。ずうっと遠くから流れてきて、ずうっと遠くへ流れていく。足を浸せば膝までもない浅い川だが、水は冷たくて心地がいいのだろう。
三途の川という言葉が思い浮かぶが、それはこんなにちんけなものでは無い気がする。これでは流される事も出来ない。寝そべったところで溺れ死ねるかどうかも怪しいところだ。
そんな川を、縁側の縁に腰掛けながら眺めていた。
背中には古民家。
小さい頃に行った祖父母の家に似ていると思うが、祖父母の家に行ったことがあったかも実は覚えていない。両親が死んだ頃に祖父母はいなかった。祖父母の葬儀にでた記憶もない。なので居たのだったかどうかの記憶も実は曖昧だ。
ならこれは誰の家に似ているんだろうか。
焦げた茶色の床板の木目が穏やかで、擦り硝子の引き戸から差し込む日差しが優しい、い草の匂いの漂う平屋は誰の家だろう。
縁側から垂らした両の素足をふらふらと揺らし、片手はバランスを取る様に後ろに付いた。
縁側から小川へと降りていくための置石が左にある。そこには色違いの下駄が二足ぽつんと置いてある。たまにあれを履いて小川へ降りる。足を浸してみたり遊んでみたり、スイカを冷やした事もあった。
眼前の穏やかな景色は遠くまで続いていて、遥か彼方でぼやけて途切れている。
ここは夢か死後の世界か、はたまたどこか。
どこだって別に構わないのだけれど、と右手に掴んだものを撫でた。右手の下にある落ち着いた温かさのある手を撫でる。
指の隙間、指の節、骨の谷間。引っ掛かりの無いつるりとした柔らかい肌。
撫でられていた指先がひくりと動き、落ち着かなそうに強張った。
ふとこの掴んでいる手を温かいと感じられることが不思議に思えた。けれど小川の水は冷たいし、今更な疑問だった。
直ぐに忘れて、右横から注がれる視線に答える。
「ねえ」
控え目な声が掛けられる。
見ると、黒い髪を全て後ろに撫で付けた白い顔は顎を引いていて、肩は手同様強張っていて、顔に嵌った青い瞳は困惑に浸されていた。首元を温かそうな山吹色のマフラーが埋めていて、ボタンの多い白いシャツを黒いサスペンダーが押さえている。
生前ままの姿だなと、実はこれまでに何度も思ったことがあることを思った。人ではなかった彼を生きていたと言うならばだが。
「あのさ」
「この家って、誰の家に似てるか知ってるか」
綾時、と彼の名前をはっきりと言葉にすると、元々困らせていた顔を更に困らせて青い視線を外した。
この家が誰の家かなんて別にどうでもいいのだけれど、話しを遮りたかった。
何を言われるのかは見当が付いていた。どうせ「どうして手を握るんだ」とかそういうことだ。
どうしてかと問われれば理由はあるのだけれど、きっと答えると消えてしまう。
そしてきっと問われても消えてしまう。
たぶん言葉にしたら終わってしまう、そういうものなのだ。
「僕は知らないな。君が知っている人の家じゃないのかい」
「俺も知らない」
話しを逸らされたと分かっていて律儀に答える綾時が愛しくて、首を傾げて微笑んだ。綾時は目が合うと赤くなって顔を背けた。肌が白いから色の変化が顕著だった。
もぞもぞと顔を隠す様にマフラーに埋まる。それはちょっと便利そうだな、と思ったが自分の首回りを囲うのは音楽プレイヤーとヘッドホンの細いケーブルだけ。顔を隠せるものは何もない。ハイネックなら埋もれる事もできるかもしれないが、マフラーに比べれば不自然だ。
「綾時は古民家っていうより、高層マンションの最上階って感じがする」
「そんな印象なんだ」
「少なくとも引き戸とか木目とかいう雰囲気じゃないな。ガラス張りとか大理石とか」
「そういう君も古民家っぽくはないよ」
「そうかな」
「敷布団とか似合わなそう」
「綾時もね」
掴んでいた手がくるりと動く。右手を握られる前に手を離した。空振りした綾時の左手がそわりと空気を撫ぜた。
上向いた悲しげな掌が諦めたように反転して甲を見せる。その左手の小指を掴むと軽く振り払われたが、それだけだ。本当に振り払われることはなく、ちょっと不満そうに大人しく掴まれたままになる。
背中にある引き戸の内側のその部屋の、左手にあるふすまを開くとその奥が寝室だ。似合わないと言われた敷布団が二組並んでいる。雰囲気としては寝室と言うよりは寝床。
どういうサイクルかは分からないが、日が落ちて暗くなるとそこに並んでそわそわと眠る。
目を閉じているとたまに綾時の視線が撫でてくる。何か言いたそうに空気を揺らして、何も言わずに朝になる。
朝になれば起きてきて、日がな一日ゆるりと過ごしてまた眠る。
綾時と並んで立つと頭半個分ほど背丈が違った。
頭半個分の段差を作りながら並び、必要なのか分からない呼吸を繰り返しながら特に離れることもなく、ただただ静かにのんびりと過ごして日々を送る。
生きていた頃にはどうにも叶わないので、死んだ後にでもやりたかったことがやれている。
そういう有り触れた事がしてみたかったのはお互い様だった。
何にも縛られず迫られず脅えず、ただ過ごす。ただ近くにいて顔を見て時々話をしながら離れない。
掴んでいた手を離すと綾時の眼差しが泳いだ。こっちを一瞬向いた後、川の流れに乗って下流へ逸れていく。視線が逸れたのを見計らって、綾時の肩へ頭を寄せた。マフラーが邪魔だったので、手で少し追いやってから頭を乗せ直す。
綾時は少し息を詰めて、暫くしてゆっくりと吐き出した。
生きていたあの頃から、綾時がじっとこっちを見ている事があるのを知っていた。
思い出したようにふと視線が留まって、少し下がって逸らされる。
それを知っていて気付かない振りをしていることを、きっと綾時も知っている。
知らない振りをしていても、きっといつかどうにかなるんだろうと、ただ漠然と思っていた。けれどどうにかなることなく、ぱたりと終わりはやってきた。
最後の大晦日に見た綾時は穏やかに微笑んで、綺麗な言葉で諭して告げて、何も言わずに去って行った。
綾時の言おうとしていた何かを聞いてみれば良かったと思い当たったのは、自分が死ぬとなったあの夜だ。
聞いてみれば何か、なにかが変わったのだろうか。そう思う。
それと同時に聞いてしまえばきっと苦しかっただけだろうとも。そして綾時もそれを分かっていた。
だから言わなかったのか、それでも言えなかったのかは知らないけれど、ほろりと崩れて言葉にされないまま消えた。
瞬きをして目を閉じても、再び開けば穏やかな景色が変わらない。
寄せた身体から滲むように伝わる体温もそのまま。時折何か言おうと息を詰まらせる綾時の呼吸もそのまま。吸い込んだ息はそのまま、言葉にならず二酸化炭素とその他もろもろと共に吐き出される。
「きみは」
意を決したように零された言葉はそれ以上続かず、穏やかな風にそよいでいった。
「ぼくは」
言葉を変えて続けようとしたそれも、二言目が出て来ずに止まった。
見上げた綾時は眉を寄せて目を閉じていた。長い睫毛が影を作りながら持ち上がり、青い瞳が覗く。影から逃れ日の光を浴びてちかちかと輝く空の色が動いて、目が合う。
綾時が大きく息を吸って肩が上がる。乗せていた自分の頭も揺れて、前髪が一房はらりと垂れた。
綾時がその言葉の先に続けるものを、聞いてみたかった。何と言うかを知っていたけれど、どういう音をして、どういう眼差しをして、どういう動きをする口元から零れ出るのか知りたかった。
知ろうと思ってこの穏やかな景色の、死後の世界なんだか自分の夢なんだか分からないここまで死んで来た。
綾時が言葉を吐き出すその瞬間をただ待っていれば良かった。眼差しを返しながら静かに呼吸を繰り返して、隙間に瞬きをすれば良かった。
「のどかだな」
なのに自分の口はそう呟いて、まぶたを閉じた。
薄いまぶたを透かして光がほんのりと届く。閉じた世界で綾時の肩から力が抜けていくのが分かった。吸い込んだ大きな息は意味もなく吐き出された。
そしてまた、ただただ過ぎていくだけの時間が訪れる。
開けたまぶたの向こうで、まだ変わらず景色があることにほっと息をついて体を起こした。縁側に足の裏をつけて立ち上がると、置石の上にある下駄を履く。かこんという音を立てながら石を降り、草を踏み小川へ寄る。
呼び声が聞こえた気がして、振り返る。
綾時がじいっとこっちを見ていた。口元は少しだけ開いている。やっぱり今呼ばれたのかもしれない。
手招きをすると、素直に綾時が起ち上がった。もう一足の下駄を履いて降りてくる。
綾時が先程口にした言葉を聞き返そうとして、やめた。
きっとそれを聞いたら夢から醒めてしまう。