タイムカプセル

(12月の綾時)

 街灯の灯りに照らされた夜道を進む。
 握り締めた紙と景色を見比べながら、交差点を渡った。
 震える線が幾つも走る、細かい文字がひしめくメモ紙には、折目がくっきりと付いている。何度も読み返したらしい。端はよれて少し汚かった。
 人通りも少なくなった道を進み、一つの建物の前で足を止める。
 メモ紙を読み、建物の外観を眺める。大きな両開きの扉。四階まであるビル。周りとは少し違う印象を受ける茶色の建物。玄関扉前にある数段の低い階段。
 メモを折りたたみ、ポケットにしまう。代わりに別のメモを取り出し開く。先程の物よりも圧倒的に文字が多く、ところどころに躊躇ったように消したり塗り潰した跡がある。ノートを千切り取ったものにびっしりとかき込まれたメモは三枚分、全て両面とも埋め尽くされている。
 内容にさっと目を通し、最後の一枚に貼られていた写真を眺める。見慣れない背景はいったい何処のものだろうか。そこに僕と、誰かが写っている。その誰かに向けて、恐る恐る矢印が引いてあった。
 その誰かの顔を目に焼き付け、メモをしまった。
 そして一呼吸。
 僕は、巌戸台分寮、の扉を押して入った。
 扉の向こうは蛍光灯の光で眩しかった。目がくらむ。思わず瞑ったまぶたを開きながら、目元を緩め、口角を押し上げ唇を薄く伸ばすように、丁寧に微笑んだ。
「やあ、久しぶりだね」
 声を掛けると、ソファに腰掛けていた人たちの視線が一斉に集まった。少々驚きながらも、微笑みだけは崩さない。
 僕は全員の表情を撫でる様に伺い見て、するりと視線を一人の上で止めた。ぱちりと目が合ったところで逸らす。
 物を言うはっきりとした眼差しをする誰とも目を合わせず、僕は必要な言葉を読み上げてその場を後にした。
 皆の視線が僕の背中を追っていた。
 それを気にせず、赤いカーペットの続く先にある階段、を上がった。二階に辿りついたところで右を向く。その一番奥まで進み、右手にあるドアノブを捻る。鍵はかかっていなかった。
 物の少ない部屋だった。扉を閉め、部屋の中ほどまで進む。壁にポスターが貼ってある。ぐるりと内部を見渡す。
 どこで待とうかと考え、勉強机の椅子を勝手に触って引き出すことが躊躇われたので、ベッドに腰掛けさせてもらうことにした。
 体重で沈んだベッドに座って、天井を見上げる。ポケットに手を入れて、一番上に入っているメモをもう一度引き出す。中を覗く。写真を、見る。
 青い髪、灰色の瞳。やっぱり彼で間違いがない。
 一階で目の合った、彼が、この写真の矢印の引かれた彼だ。
 間違っていなかったことに安堵し、それから落胆した。
 やはりどうにも思い出せない。彼本人に会ったら、思い出せるかと思ったのに、全く駄目だ。僕の書いた震える文字が伝えてくるようなそれは、全く湧き上がらない。そしてそれを、悲しくも思えなかった。
 最後にもう一度、言葉を頭に叩き込むように目を通し、メモをしまう。
 暫くして静かな足音が近付いて来ると、ドアノブの回る音がした。
 青い髪の彼が、姿を見せた。静かな灰色の瞳に見詰められる。きゅっと唇を結んだ彼に微笑みかける。
「やあ」
 思い出せなくても彼が誰か分からなくても、僕は僕の願った通りに言葉を告げる。

 十二月三十一日 午後五時

 ぴかぴかという電子音に顔を上げた。
 音は部屋の隅、机の上から聞こえてくる。裸足の足で進み覗き込むと、携帯電話がアラームを鳴らしていた。充電器に繋がったまま、緑色のランプを光らせている。そこに付箋が一枚貼り付けてあって「充電器を外さないこと」とさらりと言い聞かせるように書かれていた。
 携帯電話を手に取り、適当にボタンを押してメロディのある電子音を止める。静かになると画面に予定が表示された。
『机の上にある十二月三十一日用と書かれたノートを読むこと』
 手書きのメモに比べると強制力を感じさせない電子メッセージだったが、書かれた通りにノートを探す。
 ノートは直ぐに見つかった。それを抱えて移動する。
 その途中、扉に大きく貼られた紙が目に付いた。この扉の向こうは玄関に続いている。紙には「部屋から出ないで」と書かれていた。必死なメッセージを聞き入れて、隣りの部屋にあるベッドに腰を下ろす。じわりと体が沈む。
 ノートを膝に乗せ、表紙を捲った。
 この部屋の中には沢山のメッセージが残されていた。命令の様な懇願の様な、ボールペンで書かれた筆圧の不安定な文字。そのどれもが何かを維持しようとするものだった。
 とはいえ、全てが僕自身のやったことなのだけれど。
 部屋から出て行かない様にと紙を貼り、何かを伝えるための下準備をしその時を待っているように仕向ける為に。
 僕がやった事だ、というのが状況から分かるけれど、どうしてやらなきゃいけなかったのかは覚えていない。
 なので僕はいつここから出て行っても良かった。だけれど出ては行かなかった。残されたメッセージの端々に浮かぶ僕から僕への懇願を受け取って、ひたすらにぼんやりと時間を消費した。
 眠ることも食べることも、何かやらなくてはいけないことも何も無かったのでとても暇だった。部屋から出られないままやれることと言えば、部屋の中にある物を漁るだけだ。
 教科書、小説、写真集。それから、アルバム。
 アルバムにはやたらといっぱい写真が挟まっていた。自分の写っていない物まで兎に角沢山。片っ端から挟んだのではないかというほどだ。よくそれを眺めては時間をつぶした。中には沢山のメモ書きがあって、それを読むだけでも時間がかかった。たまに字が滲んでいて読み辛くて更に時間がかかった。人の顔と景色と僕の字を見比べて過ごした。
 その、部屋から出てはいけない、というのもどうやら今日で終いのようだ。
 今夜の影時間にはニュクスの一部へと還る。それなのに未だ人の形を保って無為な時間を過ごしていたのも、ひとえに僕の頼みの為だ。
 一通りノートの内容に目を通すと、必要なページを破って畳んで、ポケットから「人の姿のままで居て」というメモを取り出し、代わりに押し込んだ。

 十二月十三日

 部屋に頑なに居座りながら、ふとどうして居座っているのか分からなくなった。
 この部屋は何だったか。ベッドから立ち上がり部屋を進む。玄関の扉に手を掛ける。
 そうだこの部屋は隠れ家にしようと決めた部屋だった。
 思い出し弾かれるようにドアノブから手を離した。この扉を開けて、一体何処へ行くつもりだったのだろうと考えて恐ろしくなる。
 僕は慌てて部屋の中に戻った。寝室のドアを背中に閉める。思考回路が煮え上がりそうな中、胸に手を当てれば何の鼓動もしなかった。
 ところがさっぱり悲しくなかった。どうも悲しいという気持ちを忘れた様だった。
 悲しいという気持ちが存在することを思い出しただけでも僥倖だったのかもしれない。悲しい気持ちが無くなってしまったことを恐ろしく思った。そして恐ろしい気持ちを覚えていた事に安堵した。
 じわりとどこからか涙が滲んできて目尻を濡らした。心臓が脈動の必要性を忘れてしまったのに、涙が出ることが不思議だった。でもきっと近日中に涙も出なくなるのだろう。
 悲しくなれない僕は、恐ろしく思うことしか出来なかった。
 記憶を取り戻して十日が経った。記憶が戻って本来の姿に近付いた僕は、どんどんと必要の無い物を失っていっているようだった。
 役目を終えた宣告者には必要のない物。時を待ち後は母なるものに戻るだけの存在に必要のない物。
 全身を恐怖が包み、僕は慌てて部屋の中を探し回った。部屋は閑散としていてあまり物がない。作り付けのベッドと机と椅子、それくらいしかない。奥にはバスルームとトイレもあるが必要がない。
 他に何があるか思い出せなくて、焦って部屋をひっくり返した。そしてやっとノートと筆箱を見付けた。
 まっさらなキャンパスノート。
 その一ページ目を破り大きく「部屋から出ないで」と書いた。それを玄関に続く扉に貼りつける。先程は思い出して戻ってこられたから良かった。でも次は忘れて出て行ってしまうかもしれない。それは困る。僕は「約束」の「大晦日」までここに居なくてはいけない。
 そして伝えなければいけない。
 ポケットに入れっぱなしだった携帯電話を、見付けだした充電器に繋いで机に置く。一つだけスケジュールとアラームをセットした。
 そのまま机に座る。
 きっとこのペースでいけば、大晦日の僕はもう何も覚えていないだろう。消える直前に感情も記憶も必要だとは思えない。そうやって全て失って久しい頃だろう。
 ノートを開いて、ペンと取った。
 記憶を辿ってカリカリと地図をかき込む。震えた線がひしめくある一か所に黒丸を書き、矢印で「巌戸台分寮」と文字を添えた。そしてもう一か所、今自分の居る場所にも丸を書き「現在地」と書いた。
 空いたスペースに思い出せる限りの寮の外観についてを書いていく。
 順平と一緒にあの扉をくぐったことが沢山あった。順平の笑った顔が脳裏をよぎり、ふと青色がかすめる。風に揺れた青色の髪、僕が後ろにいることを確かめるように振り返る彼の顔。灰色の瞳。
 ぽたぽたと目尻から水滴が垂れてノートに染みた。こんなにも、こんなにも好きなのに、どうして忘れて行ってしまうのだろう。
 結論は大晦日に聞かせて、なんて猶予を与えたふりをして、最後の最期に会いたかった僕の我が儘で決めた約束も忘れてしまいそうになる。大晦日までここで待っていようと決めたのに、簡単に忘れて部屋を出て行きそうになる。
 忘れたくない、忘れてしまいたくない。
 それなのに、好きだと繰り返し思う彼をどうして好きだったのかすら、もう分からない。ただただ恐ろしくて苦しかった。
 これもきっと近日中に忘れてしまう。好きだったことも、恐ろしかったことも、苦しく思ったことも、全部。
 僕は僕が人間でないことに何の疑問もなくなって、役目を終えた残りかすであることに戸惑いも覚えなくなる。
 でもそれが当然の姿であって、こんな風に人間みたいに感情を揺れ動かすことが異常で、奇跡だった。
 目元を乱暴に拭うと、ペンを握り直した。
 そしてページをめくる。
 白いノートの薄水色の罫線の隙間に、ペンを押し付ける。
「十二月三十一日の僕へのお願い」と見出しを書き、文字を続ける。
 まず何をしてほしいか、なにを伝えてほしいか。思いつく限り書き続ける。文字は途中でよれ、時には消して書き直した。
 巌戸台分寮に約束の時間に行って、ドアを開けて、中に入ってまずは挨拶をしてほしい。出来るだけ優しく、笑って、声をかけて欲しい。
 そうしたらこれは僕の我が儘だけれど、彼の部屋に最後に行きたい。二階へ上がって欲しい。二階の右手、一番奥の部屋。そこで彼が来るのを待ってほしい。きっとその部屋は懐かしい匂いがするのだ。記憶が無くなっていても、分かるに違いない。
 彼が部屋に入って来たら伝えてほしい言葉がある。沢山ある。彼と会うのは久しぶりだから再会を懐かしむ言葉も伝えてほしい。もう顔すら覚えていないかもしれないけど、見たら思い出せたりしないだろうか。沢山あった思い出や、好きだったという優しい感情を。
 それから、彼には苦しい決断を迫ることになるので、出来る限りずっと優しい音で言葉を伝えてほしい。微笑んでいてくれると尚嬉しい。彼は何も悪くないということを伝えてほしい。
 彼が承諾してくれたならこの言葉を、拒否を示したならこの言葉と行動を。それでもなお拒否されたなら仕方ないから苦笑して、この言葉を。
 そして絶対に、影時間になる前に皆の元を、去って欲しい。
 書きながらぐしゃぐしゃになったノートを閉じて、そっと息を吐いた。手の震えが止まらない。どうして止まらないのか、どうして手が震えるのか分からない。拳を握って目を閉じた。
 ゆっくりと息をつき、ノートの表紙にマジックで「十二月三十一日用」と書いてからもう一度中を開く。読み返すと言葉はひしめいていた。思わず苦笑する。必死な言葉が時折躊躇う様に泳いでいる。
 ほんの少し修正と追記を加え、ノートを机の真ん中に分かりやすく置いた。
 席を立つ前に、そう言えば顔も忘れているなら彼がどれか分からないかもしれないと焦った。
 彼を別人と間違えてしまったら、僕の記憶が失われたことが分かってしまうかもしれない。それは嫌だ。それは、知られたくない。
 ちらかした部屋の中、ノートを見付けた近くで薄いアルバムを見付けた。おまけで貰ったようなペラペラなアルバムだ。中には修学旅行の写真が詰まっていた。
 これは清水寺で撮った写真、これは旅館の部屋で撮った写真。この時はこんな事をしていて、この時は周りにあと誰が居て、どんな話をして。
 今はまだ思い出せるそれも、直ぐ忘れてしまう。
 怖くなって僕は机の上にマジックを取りに戻った。
 そして写真の入ったビニールの上から、思い出せる限りの事を書き込んでいく。この時何を食べた。順平がお守りを買うってはしゃいでいた。ゆかりが呆れていて、風花は苦笑していた。美鶴が元気を取り戻していたので改めて食事に誘ったらゆかりにとても、それこそ前よりももっと怒られたこと。
 彼が何を見て笑っていたか。この時彼がなんて言っていたか。彼が、彼が。
 彼が。
 何も忘れたくないのに、書いた片端から忘れていくような気がした。それでも書かなければ二度と思い出せなくなる。
 僕は苦しくて胸を掻き毟って、マジックのインクが無くなるまで必死にかき込んだ。
 最後に一枚、写真を選んで抜き取る。彼と僕の写った、京都の写真。
 そこに恐る恐る彼に向けた矢印をかき込んで、先程のノートの一番最後のページに貼りつけた。
 これで一通りの支度を済ませられたかと思うと、ふと胸の苦しさが引いた。
 すっきりと消えて、無くなった。
 どうも僕は苦しいという気持ちを忘れたらしかったが、それだけだった。