上戸

(綾主)

 夕方、珍しく部屋で勉強をしていた時のことだ。
突然ドアが開いたかと思うと、その向こうに綾時が立っていた。あれおかしいな鍵をかけ忘れたのか? なんで綾時がドアを開けているんだ。せめてノックくらいしろ。なんて考えている間に、綾時は足を前に出した。やたらめったら優雅な所作だった。靴の底が床を踏む音も軽く高らかに、指先は揃えて腕の振りはしなやかに、一瞬彼の背景にステージと照明が見えた気がする程華やかに進んでくる。
 いやいや何勝手に入ってきているんだ、せめて一声かけろよ。と思うのに、口から言葉が出て行かない。喋る、ということを忘れるくらいにはビックリ且つ優雅だった。
 綾時は目の前までやってくると足をそろえて立ち止まり、勢いもそのままに深月の手を取った。爪の先まで神経がピンと通っている掌に、指先を柔らかく握られる。
「おいで、僕の子猫ちゃん」
 微笑んだ綾時に対し、深月は正直に(こいつ何言っているんだ)と思った。
幾らなんでもそれは無いだろうとも思うが、綾時のキャラなら許されるのかもしれないとも思う。実際どこから出てくるんだか分からない様な、ふわふわした口説き文句を日常用語のように口にするやつだ。しかし子猫ちゃんは酷い。いくら綾時でも酷い。酷いったらない。
 よくよく見れば、綾時はやけに格好いい顔をしているものの、目が座っていた。
「綾時、お前」
「うわああああ、綾時お前何勝手に深月の部屋入ってってんだよ!」
 言葉を吐ききるその前に、騒々しい音をまき散らしながら順平が転がり込んできた。お前も何勝手に入ってきているんだ、とじろりと見詰めるが順平の目は綾時に向いていた。ということは、このよくわからないことになっている綾時は、順平が何かしたからか。
 勢いよく入ってきたかと思えば、手を握られているこの状況を見て膝から崩れ落ちた。遅かった、だの呻いている。よくわからないが失礼な。
「おい順平、綾時に何したんだ」
「いやー、ちょっとな。ちょーっと間違えて、酒を飲んだ」
「は。じゃあこれ、酔ってんの」
「違うよ、僕は酔ってなんていないよ。でも君があまりに綺麗だから、少しくらくらしているのかもね」
「泣き上戸とか笑い上戸とかは聞いたことがあるんだけど、セリフがクサくなる上戸もあるんだな」
「あぁ、オレッチもはじめてみた」
 未成年の飲酒ダメ絶対、と順平をなじると経緯を話してくれた。発端は順平が知り合いの先輩にあった事から始まるそうだ。なんの先輩かは知らないが、既に成人しているらしい。綾時と帰宅途中偶然出会って、立ち話して飲み物おごってもらって、間違えてジュースではなくその人の酒を渡されて、部屋に戻って気付かないまま飲んで、結果がこうだ。惨状の具合に反して随分平凡な理由だった。
 項垂れながらもこんこんと説明すると「そんじゃ、邪魔して悪かったな」と順平は部屋を出て行いった。ついでに開けっ放しになっていたドアを閉めてくれた。
 問題なのは綾時が部屋に残ったままだということだ。
 そして未だに手を握られている。もしかして、さり気無くこの酔っ払いを押し付けられたのか。きっとそうだ、順平もこいつを持て余していたに違いない。
初め綾時が部屋から脱走した時は、万が一女子のところに行って、事が美鶴にばれたりしては大変だと慌てて追い掛けたが、深月のところに居るならまあいっか、ということなのか。おのれ順平許すまじ。
「綾時、水持ってこようか」
「僕の為にそんな危ないことをしないで。君のか弱い腕に傷がついちゃうよ」
「お前本当に大丈夫か。俺だぞ、女子じゃないぞ」
「勿論わかっているよ深月くん、可愛い僕の子猫ちゃん」
「もうそのネタは良いから」
 掴まれた手を振りほどき、綾時の背中を押してベッドに座らせる。大人しく待ってろよ動くなよ、と念を押して部屋を出た。
 コップ一杯の水を持って戻った時には、綾時はベッドで横になっていた。きちんと靴をそろえて脱ぎ、丸くなって目を閉じている。全くなんて無防備なんだ。小さくなって眠っている姿は先程からのギャップが激しい。あれの後だと尚の事可愛く見える。そういえば勉強の途中だった。まあ今更やる気も起きる筈がない。机にコップを置いた後、道具を適当に片付けた。
 振り返って綾時の寝顔を眺める。造形美だなと感心しながら近寄って、ベッドの隅に腰を下ろした。見事な眠りっぷりを見ているとこっちまで眠くなってくる気がする。丸出しのおでこをつつき、ほっぺたをつつく。勿論ほっぺたの方がさわり心地が良かったので、ほっぺたを重点的につついた。流石に触り過ぎたのか、綾時の眉間にしわが寄った。ううんと身じろぐと目が開く。深月が頭上に座っていることを確認するとにこりと笑った。
「どうしたのベッドに座って」
「別に、眺めてただけ。酔いさめた?」
「元々酔ってないよ。それより眠ってる僕のベッドに潜り込むなんていけない子だね。食べちゃうぞ」
「うんうん酔ってるな」
 分かった分かった酔いがさめるまで寝ておけと、起き上がりかけていた綾時をベッドに押し戻す。この状態で動き回られては身が持たない、色々と、精神的に。
 しかしいくら酔うとセリフがクサくなる上戸だとしても、どれも綾時のどこかに蓄積されていた言葉なのかと思うと何とも言えない。帰国子女の癖にどこでそんな知識を点けて来たのか。
 はあ、と溜息を一つ零すと腕を引っ張られた。酔っ払いだと油断していたのもあるが、想像以上の強い力で引かれベッドに背中から倒れ込む。壁で頭を打たなくて良かったという気持ちと、何をするんだという気持ちが湧いてくる。引き倒した張本人は、深月に覆い被さる形で見下ろしていた。なんだろうと見上げると、急に襟を引っ張られて首筋をかじられた。
「食べちゃうぞー」
「いたい! ちょっと待って、ただ痛い」
 色気もくそもなく、ただただ痛い。軽くパニックになりつつ、ちょっとばかり思い切り拳を振り下ろしたらきれいに綾時の頭にヒットした。酷い音と引き換えにかじられていた首から痛みが消える。この隙にと覆い被さっていた体をどかして這い出た。
 解放されほっと一息ついた後、よく見れば綾時は動かなくなっていた。
 ほっぺたをつついても肩をゆすっても全く返事がない。口元に手を当てると息をしていた。生きてはいるようだ。だが、反応はない。寝落ちたのか殴ったせいかは分からなかったが結果オーライ、ということに勝手にした。
 これで起きた時に酔いが醒めていてくれれば良いのだ。それで解決だ。でも強く殴りすぎたかもしれないから、その時は謝ろう。そう思いながら机に戻り、現実逃避にさっきしまったばかりの勉強道具をもう一度広げた。

 暫くして目を覚ました綾時の酔いは醒めていた。ついでに酔っぱらっている最中の記憶が綺麗に飛んでいた。それが酔いなのか、殴ったせいなのか、これも分からなかった。
「なんで僕ここで寝てるの? ジュンペーと一緒だった気がするけど」
「酒飲んだらしいぞ。酔って乱入してきて、勝手にそこで寝始めたんだ」
 なので深月はにこやかに殴った事実を闇に葬った。

20141013配布ペーパーより
ひげ研のひしやさんとお題出し合って書いたペーパーでした。
私へのお題は「(僕・俺)の子猫ちゃん」「食べちゃうぞ」というセリフを入れるでした。
酒ネタに逃げた……っ!