(綾主だけど綾時が女装/お題・雨・靴・寄り道)
午後五時十五分。
僕はトイレの鏡を熱心に覗き込んでいた。心許ない蛍光灯の灯りの中せっせと髪型を整える。ざっくりと手櫛でとかし、はねを直し、毛先を撫でる。ぱちりぱちりと瞬きをした後、唇のはしを指でつつく。
よしよしいい感じじゃないだろうか。自画自賛という名前の「大丈夫大丈夫おかしくないよ」という自己暗示をかける。最後にマフラーを巻き直し、出来上がりという気持ちで服の裾をはたいて完了だ。
廊下に誰も居ないことを確認し、トイレを外へ出た。トートバックを抱えて薄暗い廊下を走り、昇降口へ。運良く誰にも会わないですんだ。もう皆帰ったのだろうか。校内は随分と静かだった。その方が都合がよくて有難いけれど。
今朝履いてきた靴を下駄箱から取り出してビニールに入れる。それと入れ替える様にトートバックの中から靴を取り出す。ブラウンのブーツ、ヒールは5cm。床に置くとカツンと靴のかかとが音を立てた。
ここで気付くが、こんなにヒールのある靴を履くのはこれが初めてだ。大丈夫だろうか、転んだりしないだろうか。しかし今更気にかけても仕方がない。これを履くしかない、履くしかないのだ。そうでなければこの為だけに調達されたこの靴は存在意義が果たせない。それに時間もない。
足を押し込むとこれが中々にぴったりだった。程よく包み込まれる。両足をそろえて立ち、足踏みを幾度かするがふらつくことはない。でも体重の掛け方がいつもと違ってなんだか落ち着かない。今更落ち着かない要素がもう一つ増えたところで全く誤差範囲だけど。
「よし」と一人頷いて昇降口をくぐる。
なんと外は雨だった。
降るかもとは聞いていたが、まさか本当に降り出すなんて。お昼の時点ではいい天気だったのに。山の天気は変わり易いというがここは山ではない。「明日雨が降るかもしれないから傘持っといた方がいいと思う。晴れてても」というメールを昨日くれた深月に感謝しながら折り畳み傘を開いた。
踵を鳴らしながらトコトコと歩いていくと、街灯の下に人影があった。ぱっと周りに見える影はその一つだけ。雨だし暗いし、皆足早に帰ってしまったのかもしれない。
その人影が待ち合わせ相手だと直ぐに気が付いたので僕は走った。足元で水がはねる。音に気がついて、彼が傘の下から顔を覗かせた。
「お待たせ、早かったね」
「待たせると辛いだろうなって思って、早めに来てた」
「それは凄く有りがたい気遣いだよ」
どういたしまして、と深月はくすりと笑ってそれから僕の姿をしげしげと眺めてきた。そりゃそうだろうと思うが、やはり落ち着かない。マフラーを引き上げて口元を隠す。それだけでは全く隠れられていないのだが、いくらか気分がまぎれたような気がした。
「考えたな」
深月は一度深く頷いた。
「どうかな、変じゃないかな。バレたりしない?」
「全くバレないと思うけど」
「そうだといいなー。もうこれね、すごく頑張ったんだよ。女の子達に相談にも乗ってもらってさあ。マキシワンピで足のラインを隠しながらふわっと体型をカバーして、ブーツで足首とかのごつさもまるっと隠して。まあ足首とか足の甲とかじろじろ見られることもないと思うけれど、念の為ね。さらにさらにマフラーで首筋も隠して、これならいざという時顔を隠すのにも使えるし」
この格好を見繕ってくれた女の子たちの受け売りの説明をつらつらと述べながら折り畳み傘をしまう。同時に深月が大きな傘の下に入れてくれた。僕の方が背が高いし傘を持つ役目を変わった方がいいのだろうか。でも今日の僕のポジションはそこではないので、代わりに傘を持つ深月の腕に手を絡めた。
「それにしても今が寒い季節で助かったよ。このコート羽織っておくだけでもう大体隠れるというか、夏だったら無理だね。君に比べたら筋肉とかないからシルエットはごつくないけれど、それでも流石に無理なレベルだよ。相当ワンピースのシルエットにこだわるとかしないと誤魔化しきれないよ」
「やけにワンピースにこだわるな。女の子の服ってふわふわした体型の隠れるのが多い気がするからいけるんじゃない?」
「それでも限界が……あと僕一応背丈があるからね。それに女の子らしいっていったらワンピースじゃない? あとヒール! このブーツもヒールあるやつなんだよ。結構頑張ってるんだ」
歩きはじめていた深月の腕を引っ張り立ち止まらせ、踵を見せる。5cm。見ると深月はああ、と気まずいというかしょっぱいというか、なんとも言えない表情をした。
「いつもより背が高いと思ったらそれのせいか。元々俺よりでかいのになんで更にヒールなんて」
「ヒールがあった方が女の子らしさが出るんだってって。僕も確かにそう思うよ。足のラインとか綺麗になるよね」
「足のラインを隠してるのに綺麗も何もないだろ。背の低い彼氏なんて格好がつかないの気にしてるんだから」
「そうだった、今日は君が僕の彼氏さんなんだった」
くすくす笑うと呆れた溜息を返されたが、満更でもなさそうな顔をしていた。
「そうだぞ彼女さん」
「でも先週僕が負けなければ、彼女さんなのは君の方だったんだからね」
「これでも俺は鍛えてる方だから厳しかったと思うぞ。綾時がそっちの役当たってくれて良かった」
「酷いよー、本当に大変だったんだからね。女装しなきゃいけなくなったから手伝ってて女の子に頼んだら写真すっごい取られたし」
「撮られたのか」
「撮られたよ。でもウィッグは被る前だし服も着替える前までだから、もし彼女たちに見付かってもバレないと思うよ」
この完全体を見たのは君だけだよ、ということも伝えたつもりなのだがいまいちお気に召さなかったようだ。渋い顔をしている。
しかし交換条件としてはかなり好条件で飲んでもらったのだ、これでも。服を見繕ってもらって、一部貸してもらって、フルメイクを施してもらった代償が写真数枚だ。それも着替える前。
やっぱり完全体くらいは最初に見せてあげようと、彼女たちを暗くなるからと先に帰して、一人男子トイレで着替えて、ひと気のない瞬間を見計らってこっそりでて来たのだ。どれだけ僕がひやひやしたことか。
「ほらほら見て、睫毛とか凄いカールしてるでしょ。他にも色々塗られたり付けられたりして、でも目をつぶっている時間が長かったから何がどうなったかあんまり分からないんだよね」
「確かに、元々綾時って睫毛なっがいけど、更に長くなってるしなんかボリュームアップしてるしカールしてるな。すごいな。色々色ついてるし」
メイク中の目を閉じている間、もっと塗った方がいいだとか素材を生かそうだとか、ピンクだブルーだオレンジなんとか、物凄く言い争われていた。これはもしかして僕の為に争うのはやめてほしい、って言う時なんじゃないかと思ったほどだ。流石に空気を読んで言わなかったが。
結局何をどう塗られたは分からなかったが、鏡でみるとぱっちりくっきりしながらもピンクでふんわりと柔らかな空気に仕上げられていた。思わず誰だお前はと鏡に問い掛けたい程の出来だ。
でもそう思うことと、バレるのではという緊張が付きまとうのは別の話だ。
「あのさもう一回聞くけど、バレない?」
「全然。流石に背が高過ぎるんじゃ、って気はするけどモデルクラスならそれくらいいるだろうし。あとバレー選手とか? ロングのかつらもかぶってるから、綾時を知ってる奴でも、この距離で覗きこまないと分からないと思う」
「流石に深月くん以外がこの距離に来ることはないから、じゃあ大丈夫かな」
ほっとしながら、かつらじゃなくてウィッグだよと心の中で訂正した。細事である。
「でもカップル限定、とかそういうサービスってずるいよね。ペアならだれでも、とかにしておいてくれたらさあ、僕もこんな姿にならずにすんだのに」
「カップル限定だけどどうするって言って、嬉々としてじゃあ彼女役を勝負で決めようって言い出したのは綾時だけどな」
そうだけど。でも順平の部屋に居たからって、そこにあった格闘ゲームで決めるのは間違いだった。完璧に彼に有利な土俵だった。そこに気付かなかった時点で僕は負けていたのかもしれない。記憶をたどっていると、途中でしょっぱい顔をした順平の姿を思い出した。
「そう言えば、カップル限定っていうけど、男女のカップル限定とかじゃないんでしょ。恋人同士ですって言い張ったらいけたんじゃない」
「それで店側と戦って、店内だけじゃなくて学校でも噂になるのと、完璧に女装をして誰にもばれないのとを天秤にかけるとそうでもないと思うぞ」
「そう言われるとそうかもね……。君と恋人同士なのがばれるのはさておき、お店ともめてたとかクレーマーだとか言われるのは辛いね」
「そう、そうか?」
深月はなんでか首をひねった。
「まあ今日は雨だし、傘をさしてたらあまり顔なんて見えないでしょ。その点はちょっとラッキーだったな。折角の君との初めての寄り道デートが雨なのは残念だけど」
「ごめん」
「別に雨なのは君のせいじゃないよ、どうしたの」
もごもごと口ごもった末、深月がちらりと視線を寄越した。すまなそうに背中を丸めていつもよりちょっと低い位置から見上げられる。低く感じるのはヒールのせいもあるけど。
「雨男なんだ、実は」
「うそ、はじめて聞いたよ。君が雨男とか」
「もうずっと無かったんだ、だから言うことも無かったしそもそも降らなかったし。でも昔は凄く楽しみにしてることがあると絶対雨でさ。最近はないから、もしかして治ったんじゃ、って期待してたけど嫌な予感がして、傘持ってこいってメールしたんだけど。やっぱり降った」
昼までは晴れていたのに、と恨みがましく深月が唇を尖らせた。ああ、あのメールは天気予報ではなくて、経験則だったのか。
でも楽しみにしていると雨が降るなんて。そして最近は無くて、でも最近には修学旅行があって夏には屋久島旅行だってあったって聞くのに。
雨で暗くてもう直ぐ冬で、随分気温は低いはずなのに少し顔周りがあったかくなった気がする。
「雨が降るほど楽しみだったの」
「そりゃ、綾時と寄り道はよくするし出掛けもするけど。デートっていうか、こうやってその、恋人らしく外で振舞うことないだろ。今日は綾時が女装だし彼女さんだし、手を繋いでたりしても別に目立たないのかって思ったら」
誤魔化す様な早口な喋りを聞いて、僕はさらに顔が熱くなった。それをちょっとばかり吐息に乗せて気持ち逃がして、絡めていた腕を引っ張ってよりぴったりとくっつけて笑った。
「そうだねえ」
でも残念ながら僕の身長が高いので、目立たないのは無理だろうけれど。