(雰囲気100%)
モノレールに、幽霊が出るんだって。
そんなバカげた話を聞いたのは、つい最近の事だ。
バッカじゃないの、と一蹴したが、噂好きな同僚は目を輝かせてにやにやとして、引き下がらなかった。
嘘じゃないよ。
だなんて、嘘吐きの常套句じゃないのか。私は肩を竦めて溜息を吐いた。貴重な休憩時間を法螺話で消費されたんじゃたまらない。そんな幽霊だなんて、非科学的で信憑性のない、馬鹿馬鹿しい話し。社会人はそんなに暇じゃないのだ。
何度目かの、馬鹿じゃないの、という言葉を吐出した後も、その彼女は全くひるまなかった。温くなり始めた缶コーヒーをひしと握り締め、ずいと身を乗り出した。
「怖いんでしょー」
そう言うもんだから、
「そんなわけないでしょ」
と言えば、なら良いでしょ、と彼女はにやりと笑った。
臨場感たっぷりに語られた噂の全貌は、こうらしい。
モノレール、あねはづるには幽霊が出る。
0時きっかりに乗ると、幽霊が出る。
幽霊は黒髪だったり青髪だったり、日本人だったり外国人だったりする。
怖くは無いらしい。幽霊独特のおどろおどろしさは無く、まるで生きた人間の様。
なのに、気が付くと姿が消えている。下りた訳じゃない。駅と駅の間、走行中に姿が消える。
幽霊は二人の時もあるらしい。並んで立っていたり、座っていたり。仲は良さそうに見えるらしい。学生が夜遊びしてるのかと思っていたら、やっぱりいつの間にか消えてしまうんだという。
一通りの説明を聞き、私は大きく、それはもう盛大に、溜息を吐いた。肺の中の空気が全部なくなるほど、深く。
嘘くさい。全くもって嘘くさい。
0時に乗ると、というところがもうアウトだ。元々あのあたりは、そういう怪談が多い。そういう土地柄なのだ。
0時という時刻は大抵、事件の事を指している。それがただ、面白おかしく恐ろしく、怪談調に仕立てられただけの事。
髪色や人種がまちまちなのもとても怪しい。どうせ光の加減だとかで見間違えただけだろう。夜はそういう事も多い。それに0時だ。どうせうたた寝して寝惚けていただとか、酔っぱらっていて見間違えただとか、その程度のオチだ。
幽霊なんて居るわけない。が持論なので、そういう根も葉もない噂を検証して、元になった事件を掘り当てて回った事があるので良く分かる。
大体が、尾ひれなのだ。
透ける尾ひれが棚引くその部分だけ切り取って見るから、幽霊になんて見えるんだ。現実はとっても現実で、そんな怪談なんて結局ありはしないのだ。
そうだ、幽霊なんていない。
死んだ人間は、死んだ人間だ。
幽霊なんて、そんなものは、無いのだ。
もう直に0時になろうかという時に、モノレールに乗ったものだから、そんな話を思い出してしまった。
こんな時間まで残業を長引かせた上司を恨む。絶対にあいつのせいだ。あの上司さえ居なければ、私はこんな時間に帰宅する羽目にならなかったのに。
一日で溜まりに溜まった鬱憤を脳内で巡らせては、更に怒りを増幅させる。
今日は帰って寝てしまえば、それで終わりだ。なんだか虚しい。でも圧倒的に平和だなあ、とふと思った。
上司に腹が立って、残業が長引いて、0時間際の人気の少ないモノレールに乗って、夕食は残業の合間にデスクで食べたからお腹は空いていなくて、それから結構眠くって、疲れていて、でも、とてもありきたりだ。
どこにでも転がっている、有り触れた話で、特筆すべき点も無い程日常で、退屈な程平凡で、とっても平和だ。
扉の直ぐ側の座席に腰掛けて、私は欠伸をこっそりと噛み殺した。同じ車両には、あと三人しか人が居ないので、堂々欠伸しても気付かれないかもしれないけれど、流石に憚られた。その三人もそれぞれ遠いところに座っていて、皆一人きりだ。
次の駅に停車して扉がが開くと、夜の冷たい風が足元から流れ込んできた。もう冬だな、と息を吐く。
その駅では少年が二人乗り込んできた。ポートアイランド駅か、何だか懐かしい。懐かしいというには頻繁に、この駅を利用するのだけれど。
「空いてるね、やっぱり夜だからかな」
少年の片方が弾んだ声で告げた。
「そりゃ」
ともう片方が素っ気なく答える。
二人の声は大きい訳では無かったが、人が少ないので良く通った。
少しうとうととしていた私は、傾けていた頭を起こした。丁度二人が私とは反対側の列の、一番遠いところに座るのが見えた。
高校生だろうか。私服だけれど随分若く見える、なんて思って私も歳を取ってしまったなあとちょっと悲しくなる。歳を取ること自体は悪くない。今年も何事も無く無事に生きて、平凡に歳を取れるというのは悪くない。ただどんどん遠ざかっていくのは、ちょっと淋しかった。
「ここから見る夜景って、僕好きだなあ」
「お前はやけにロマンチストだよな」
「ええー、だって久し振りだしさあ。この景色、懐かしいよねえ」
「そういう程、前じゃないと思うけど」
「でもあの頃ほど頻繁じゃないもの。やっぱり懐かしいよ」
こくりこくりと船を漕ぐ隙間に、仲睦まじい話し声が聞こえてくる。眠くて下がってくる目蓋を時々押し上げて、二人の姿を見る。
はしゃいでいる方の少年の顔が見える。そりゃもう嬉しそうに笑っている。硝子の窓の外を流れていく景色に声を弾ませて、目を輝かせてきょろきょろしている。
対してその向かいに座る少年は、随分落ち着いた声をしていた。興味が無さそうだとか、はしゃぐ相方に呆れるわけではない様だけど、冷静に対応している。でも、声は何となく浮かれている。
楽しそう。それに、仲睦まじそう。
仲がいいのはいいことだ。
「あ、見てみてムーンライトブリッジ。綺麗だねー」
「まあ、思い出深い場所だな」
「うわあ、そう言われるとムードも何もあったもんじゃないよ」
「そりゃあ俺にとってはムードのある場所じゃないし」
「でも綺麗じゃない?」
「綺麗か綺麗じゃないかって言われれば、綺麗だけど」
「……君にはムードを盛り上げる、っていう気持ちが足らないよ。せめて流されるくらいしてくれないと」
「俺はお前の手綱を握る係だから」
「ええー折角のデートなのに!」
少年の抗議の声が大きいか、次に聞こえたゴチンという鈍い音の方が大きかったかは、微妙なところだ。
あんまりに鈍くて大きな音だったものだから、思わず目を開けた。背筋を伸ばして周りを少しだけ、怪しくない程度に伺う。
はしゃいでいた方の少年が、両手で頭を抱えているのが見えた。
「ひ、ひどいや」
見事な涙声だった。成程、向かいの少年に殴られたのか。なんだ痴話喧嘩か、と再び目を閉じる。
やっぱり眠い。今日はもう、帰ったらシャワーを浴びてさっさと寝てしまうおう。目蓋を下ろしてうつらうつらとする。
少年たちの声が丸聞こえだが、煩い訳では決してなく、心地がいいくらいだ。仲の良い二人の他愛もない会話が、凄く平凡で凄く優しかった。
「僕、結局デートってしたことないよんだね」
「どの口が言うんだ、それ」
「えっ、だって君とデートした覚えが僕にはない」
「俺と無くても、全校女子に声掛けたんだろ。両手でも足りないくらいデートしたんじゃないのか」
「えー、ご飯を食べに行ったりとか、ケーキ食べに行ったりとかさ、お茶はしたけどデートじゃないもん」
「何とぼけたこと言ってるんだ、お前」
「ひ、ひどいよ……あっ! もしかしてやきもち?」
「いや、純然たる事実を述べただけ」
「事実じゃないよ、だってデートじゃないもん!」
「いやデートだろ」
「君は何、女の子と出掛けたらそれは全部デートだっていうの?」
「全部が全部とは言わないけど、お前のそれはデートだっただろ。むしろ違うとか……はあ、女の子可哀想」
「き、君は僕が女の子とデートしても! いいの!」
あれ、何だか痴情の縺れみたいな会話になってきた。でも声のトーンを聞く限りでは「修羅場ごっこ」といった風だ。
絶賛マジ修羅場、は一度居酒屋で出くわした事があるけれど、あの時の人が死んでもおかしくないと思えた空気のそれとは随分違う。まだふわふわしていて甘い匂いがする。綿あめみたいだ。触ったらべちゃりと手にくっつきそう。甘い空気が。
あの間に今乱入したら、綿の様に細い、柔らかな甘ったるい砂糖に絡め取られて窒息して死ぬに違いない。誰か死ぬかも、って点では、あの修羅場と同じなんだろうか。
この修羅場ごっこに、少年はどう切り返すんだろうといけないとは思いつつ聞き耳を立ててしまう。立てなくても聞こえるけど。
「だって昔の話だし。再犯したら、処遇は考えるけど」
「あっほらやっぱり! やきもちでしょ!」
「そんなに焼いて欲しいなら、コンガリ丸焼きにしてやろうか」
「そんな物理的な香ばしさは求めていないよ! むしろ僕は香ばしいより甘い方がいいなー」
「チョコ買って帰るか」
「ならチョコケーキがいいな」
「流石にこの時間はケーキ屋開いてないだろ」
「コンビニコンビニ」
「えー」
「今のコンビニスイーツ結構おいしい、らしいよ」
「何、今の一瞬の間」
甘いの方向が思い切り急展開だ。
そんな美味しい話を今しないでほしい。ついうっかり、帰りにコンビニに寄ってしまいそうだ。
それにしても、この二人、本当に仲がいいみたいだ。良すぎるくらいだけど。
数駅を過ぎて、モノレールはムーンライトブリッジを通り海を跨いだ。
その間ずっと、少年たちの話し声は途切れず、私はそれをBGMにうとうとと浅い眠りを繰り返した。眠ってしまっても終点まで行くのだから大して問題は無いけれど。
「懐かしいなー。君よくさ、この時間にモノレール乗ってたよね」
「あー、確かにな」
「懐かしいね」
「うんまあ。同じ時間に乗ると、良く見掛ける人とか居たっけ。だいたい寝てたけど、たまに目を開けると不思議そうな顔してたな」
「そりゃ高校生が学生服姿で乗ってたら驚くよねー。0時だもん。普通なら補導されちゃうよ」
「実際何回かあったな。手違いで」
「手違いなんだ」
「って知ってるだろ」
「まあね」
くすくすと少年が笑う声がする。穏やかで澄んだ、綺麗な声をしている。
そういえば彼らは高校生くらいに見えるが、高校時代が懐かしいと言うなら、あれでそこそこ歳を取っているんだろうか。それとも一年前も、随分懐かしいような気持ちがするんだろうか。
私はもう一年前なんてそんなに懐かしくもなんともない、つい最近の事の様に思えるけれど、彼ら位の時は違ったかもしれない。たった一か月、数週間前の事すら懐かしくて、恋しくなったりしたこともあったっけ。
なんだか全てが懐かしい。
「もう直ぐ着くよ。あっという間だね」
「あんまり遠くてもな」
「そうだけど。何だか名残惜しいや」
「また来ればいいよ」
「でも、そう頻繁には来られないよ」
「時間はあるんだから、いつだっていい」
「そうだね。でもモノレールが無くなっちゃったりする前には、また来ようね」
「そう言う割に、結局直ぐ来ちゃうんだろうけど」
「あはは、そうかもしれないね」
次は巌戸台――とアナウンスが聞こえてくる。終点だ。降りなくてはと、体を起こし欠伸を小さく零す。足元に置いていた鞄を抱え上げる。
窓の外に駅のホームが見えてくると、一足先に少年たちが席を立った。二人が並ぶと身長差が結構あった。片方の子が背が高めなので、もう片方の子が小さく見えるのかもしれない。
モノレールが停車する。
「ねえ、チョコケーキ忘れてないよね」
「何でお前はそんなに甘いものが好きなんだ」
「そういう深月くんだって、好きでしょ」
はっと私は振り返る。
丁度扉が開いて、二人が降りていくところだった。慌てて立ち上がり、近くの扉からホームへ飛び出す。
暗い夜のホームには、同じように今降り立った人がまばらに歩いている。
なのに、あの二人の姿だけが、見当たらない。
どうして、今まで気が付かなかったんだろう。
――モノレールに、幽霊が出るんだって。
幽霊は私の良く知る、懐かしい顔をしていたのに。