廻った後の世界

(デビサバ・回帰ルート後憂ヤマ)

 

 

 気付くと、部屋の中に人影が増えていることが、度々ある。
 それはいつも、ジプスの執務室にて一人、雑務をこなしている時だ。
 目まぐるしい程忙しくも無いくらいの、ほんの僅かな時間を狙ったかのように現れる。いつ現れたのかも分からないほど静かに、いつの間にかそこに居る。
 今日も、ふとデスク上の書類から目を上げたら、そこに居た。
 執務室の中央、ローテーブルを挟む様に置かれたソファの片側に座っていた。
 音も無い。気配も無い。けれど確かにそこにいて、蛍光灯の光にその白い髪をほんのりと透けさせている。
 目を通していた書類の下部に判を押し、机の隅に除ける。書類の山の間に置いていたマグカップを手に取り、ほんの僅かに残っていたコーヒーを飲み干す。そしてまた、別の書類を手繰り寄せる。
「近頃は良く顔を見せるようになったな」
 書類の上の活字を目で追いながら、独り言の様に呟く。その独り言には返事があった。
「そうだろうか」と俄かに不思議そうな声が返ってくる。
 少しだけその声の方へと視線を移す。憂う者としか名乗らない、白いのだか赤いのだか黒いのだか分からない彼は、緩く首を傾けていた。私は「そうだ」と答える。
「聞くところによれば、まるで姿を見掛けない代もあったそうだが?」
 その代の当主により差はあるそうだが、十年に一度は見掛ける代もあれば、結局一度も姿を見たことのない代もあったと聞く。人間の一生など、彼から見れば瞬きの隙間にしか、ならないのかもしれない。
 彼は峰津院家に様々な物をもたらしたが、決して寄り添うような存在ではないのだ。姿を見ないことの方が、普通なのかもしれない。
 それなのに、だ。
 私自身が、彼を最後に見掛けたのは、つい半月ほど前だ。最後に見掛けた、などというのも憚られるほどに最近だ。
「確かに、以前見掛けた時より峰津院大和の姿に大きな変化は見られないのだから、良く、というのはそうかもしれないね。次に顔を見た時には孫に代わっていた事もあったから、それに比べれば頻繁かもしれない」
 憂う者は口元に手を当て、考え込む素振りを見せた。感覚がずれているな、と思う。何をどうしても、彼と私は別の存在だ。根本からして、異なる原理でできている。
 考えたところで、それは覆らない。視線を手元の資料へと戻す。不備を見付け、付箋を端に貼り、処理済みではない山に振り分ける。
「峰津院大和」とフルネームを呼ばれる。
 ローテーブルの上に広がったままだった資料を捲りながら、憂う者がこちらを見ている。あれは先程、迫に見せたものだ。
「これは、組織の刷新案だね。それも随分と大胆だ」
「ふふ、それを刷新と呼ぶか。分かっているな」
「随分と若手の起用も目立つが、峰津院大和らしい人事ではないかな」
 ぱら、と憂う者が捲る冊子には、ジプスの中枢に食い込む名前が幾つも載っている。主に並ぶのは、先代の時より重要なポストについているが、まるで役に立たないお飾りの名前だ。あれらにあるのは、家の名前だけだ。他には何もない。
「だが、これを一度に実行しようものなら、反発も大きいのではないかな」
「心配されなくとも上手くやる。腐った体制は、私の代で全て正すのだからな」
 当然の様に言うと、憂う者は手にしていた冊子を閉じ、テーブルに戻した。実のところ、細かい内容には興味がないのだろう。あれが気にしているのは、結局のところ、それの行き着く結果だ。
 ふと見れば、彼の顔が薄っすらと笑っていた。
 元々微笑しているかのような顔をしているが、今は明らかに、笑っていた。
「どうかしたか」と問い掛けると「いいや」と楽しげな声が返った。
 こう言う場合、それ以上追及したところで、ろくな返事が無い事は経験上分かっていた。深く気にしないことにし、書類の処理へと戻る。
 目を通し、サインをし、判を押す。時折却下し端へ除ける。部屋の中には、紙が擦れる音と、ペンが走る音だけが響く。
 昔から、二人で居たところで会話が弾んだためしがない。そもそも誰と居たところで、雑談で盛り上がる、などという経験もないが。会話が無ければ、どこまでも静かだ。憂う者は何をするにしても、あまり音が立たないので特にだ。現れようが消えようが、分からないほどだ。
 そういえば、今日は一体何をしに来たのだろうか。
 近頃は度々現れるが、その度に大したものではなくとも何かしら用があった。
「おい」と顔を上げ、彼の姿が消えていることに気が付く。
 つい先程まで居たと思ったソファの上には、誰かが居たという名残すら感じない。部屋は静まり返っていて、本当に居たのかどうかすら、怪しくなるほどだ。
 つい、舌打ちが零れた。
 無意識だった。だが確かに苛ついた。勝手に現れては、勝手に居なくなる。こちらの事情などお構いなしだ。思わず目の前にある書類を丸めてしまいたい衝動に駆られたが、そうもいかず、もう一つ舌打ちした。
「疲れているのなら休憩した方がいい」
 直ぐ目の前から、今し方私を苛つかせていた張本人の声が聞こえてきた。眉間にしわが寄ったまま、顔を上げる。
 きょとんとした顔を見せながら、憂う者が何故か私の愛用するマグカップを手に持っていた。
「……何をしている」
「ああ。空になっていたから、コーヒーを貰ってきたよ」
 コトンと音を立て、目の前にマグカップが置かれる。中はコーヒーと言った割にクリーム色をした液体で満たされている。というか、このカップはつい先程までそこ、机の隅に置かれていたはずだが。私が、ある、と思っていた場所は空になっている。確かに今置かれたマグカップは、そこにあった物と同じらしい。
 だが、いつの間に持ち去られたのかも分からない。憂う者を最初に視認した時には、まだそこにあったはずだが。
「いつ持って行った」
「つい先程だが。邪魔になるのは不本意だからね。こっそりと持っていかせてもらったよ」
 思わず溜息が出た。
 だが、こういう奴だ、こういう存在だ。気にしたら負けだ。
「で、これは何だ」とマグカップの中身を指す。私が最初に飲んでいたのは、ブラックのコーヒーだった筈だ。こんなクリーム色をした液体ではなかった。
「ブラックは胃に悪いそうだよ」
「そんな事は聞いていない……大体これをどこから持ってきた」
「ジプス内の給湯室からだが。丁度、迫真琴の姿が見えたので手伝って貰っているから、飲めない液体にはなっていないはずだ」
 給湯室でこれを淹れている憂う者の姿が、どうしても想像できない。頭を抱えたくなったが、どうにも期待の滲んだ視線がこっちをずっと見ている。仕方なくマグカップを手に取り、口を付ける。
 じわりと広がったのは、苦味よりも甘味だ。牛乳だけではなく、砂糖も加えたらしい。普段ブラックばかり飲んでいるせいか、異常に甘ったるく感じる。
 マグカップを置き、目の前の顔をちらりと見る。彼は言葉にこそしなかったが、視線が分かり易く「どうだろうか?」と問い掛けてくる。
「甘い」と言うと、不味いと言われなかったことに安堵したのか、憂う者が仄かに表情を緩めた。
「疲れには甘い方がいいと聞いたものだからね」
「迫か……」
「ブラックコーヒーばかりでは胃に悪いと気にしていたよ。せめてお茶請けに菓子でも食べてほしいとね。峰津院大和はまだ若いから良いだろうが、体には気を付けた方がいい」
「……化け物相手に、体の心配をされるとは思わなかった」
 溜息を吐くと、憂う者はおかしそうに笑った。何がおかしいのかは、さっぱり分からない。
 そこで、ふと思い出して椅子から腰を浮かせる。立ち上がると彼より目線が高くなる。机に片手を付き、身を乗り出し、憂う者へと手を伸ばす。
 頬に指が触れる。確かに触れた。人の様に温度は無いが、間違いなくそこに存在していると分かる。
「どうかしたかい」と憂う者が不思議そうに見上げてくる。
 触れていた手を離し、元の様に椅子へと戻る。
「何でもない」と返し、まだ中身がなみなみと残っているマグカップを手に取る。口にしたそれはやはり甘かった。温くなる前に飲み切ろうと、一気に煽る。
 音も無く消えて、音も無く現れるものだから、実体などない幽霊のような何かかと時折どうしても思う。触ってみれば確かにそこに存在するのだが、その事を直ぐに忘れてしまう程、彼の存在は希薄に見えた。髪の色、肌の色、透ける様な白がそれを増長させている。
「お前はいつも私が執務室で一人の時に現れるな」
 空にしたマグカップを隅に追いやりながら、俄かに気になっていた疑問を口にする。
 どの支局に居る時でもだが、顔を見せるのは執務室にこもっている時だけだ。一人でいる時を狙っているならば、自室に戻っている時でもよさそうだが。疑問の意味を察したのか、憂う者が苦笑した。
「流石にプライベートの時間は自重しているよ」
「お前にそういう気遣いが備わっていた事に驚きを隠せないな」
「心外だな。それに、いきなり人前に姿を現すと人は驚くだろう」
「ほお、私は驚かないと?」
「おや、未だに驚かせていたのかい。近頃は顔色一つ変えないものだから、慣れたのだと思っていたけれど」
「ああ、いい加減慣れた」
「それなら良かった。幼い頃の峰津院大和は、私が現れる度に動揺していものだから、やはりいきなり姿を現すのは良くないかと思ってね。控えているよ」
 くすりと笑う彼は、暗に特別扱いしていると言っている事に、自覚があるのか分からない。
 はあ、と息を吐出す。まだ口の中が甘い気がする。喉に残って張り付いている気さえする。
 今度は普通のコーヒーを淹れてこい、と言ったなら彼は取ってくるのだろうか。
「いつまで突っ立っているつもりだ。座ったらどうだ」
「ああ、ここに居ては気が散るだろうか」
「そうだ」
「執務の邪魔になるようなら帰るが」
「そこまでではない」
 指先で追い払うと、憂う者は首を傾げながらソファへと音も無く戻った。
 残りがほんの僅かになった書類をまとめて引き寄せ、さくさくと処理を進める。
 ああ、そういえばすっかり忘れていたが、あいつは何をしに来たのだ。
「おい」と呼ぶと、手持無沙汰そうにする憂う者がこちらを向いた。
「今日は何の用だ」
「用?」
「何かあったから来たのだろう」
「そうだな。今日はこれといって無いが」
「は」
 思わず書類に押した判が曲がった。
「ならば何をしに来た」
「いや、何をしに、と問われると答えるのは難しい」
「……本当に用はないのか」
 憂う者は一度ゆっくりと頷いた。何も無いのに、来たのか。こいつは。
 わざわざ姿を見せておいて、用は無く、ただ甘ったるいコーヒーを注いで、何の意味も無い雑談をしに来ただけなのか。
 全く馬鹿馬鹿しい、と思うが、用が無いのならば帰れ、という程邪魔にも思えていなかったので、何度目かの溜息を吐くに留める。
 判の曲がった書類を片付け、机の上を綺麗にする。雑務はこれで全てだ。今日はこの後一件の会議に出席して終わりだ。その会議までも、まだ少し時間がある。
 空のマグカップを手に取り、席から立つ。
「移動するのかい」と尋ねられたので、口の中が甘くて仕方がないからコーヒーを淹れに行くのだと答える。「ならば次からは茶菓子とブラックのコーヒーにしよう」と言われれば、そいつが一体何者だったのかを見失いそうになる。
「お前は何か飲まないのか」
「飲む必要がないから、飲めないんだ」
 目を細めながら憂う者が立ち上がり、こちらへ近付いてくる。目の前まで来たかと思うと、手に持っていたマグカップを取られる。
「雑務はもう終わりかい?」
「ああ」
「ならコーヒーは貰ってくるから、少し休憩しているといい」
「……お前は私のお茶汲み係にでもなるつもりか」
「実のところ、今までこういう事をしたことが無かったから。少し面白いんだ」
 口元が弧を描いたのが見えたと思えば、一瞬のうちに姿が消えた。目の前に居たはずの、彼の姿はもうどこにもない。マグカップもない。
 また零れそうになる溜息を、何とか飲み込みソファに腰掛ける。
 ローテーブルの上の資料をまとめ、脇に積む。この組織の刷新案は、まず手短なところで迫に説明した。今後はこれを幾度も説明しなくてはいけないのかと思うと少しばかり気が重くなる。面倒事は、出来るなら一度に片付けたかったが、そうはいかないだろう。
 ソファにもたれかかる様に上を仰ぎ見る。深く息を吐き、ゆっくりと目を閉じる。
 コトンと音がして、目を開け顔を正面へ向ける。あっという間にコーヒーを淹れた憂う者が戻ってきていた。
 本当に音がしない。今だって音がしたのは、マグカップがテーブルに置かれる音だけだった。
「お茶請けは残念ながら見つからなかったよ」
「そんなもの誰も期待していない」
 目の前に置かれたマグカップを手を伸ばす。今度は真っ黒な液体が注がれている。ふわりと湯気が立ち上る。口を付ければいつもの馴染んだ味が染みわたった。
 憂う者は向かいのソファに腰を下ろした。こうして向かい合って座っていると、奇妙な気がする。ありきたりな光景過ぎて、奇妙だ。
「おい」と呼んでから、そういえば「おい」とか「お前」とかしか呼ばないことを思い出す。憂う者、と彼は名乗るが、そう呼んだことは無い様に思えた。
「もしかして不味かったかな」
「そうではない。お前、名前は無いのか」
 口に出してから、この質問はどうにも今更過ぎる気がした。けれど知らないのだ、仕方がない。
「私は憂う者だが」
「それは呼び難い。そもそも名前ではないだろ」
「名前、が気になるのかい」
「ああ、なるな」
 と言えば、憂う者がおかしそうに目を細めた。「近頃、峰津院大和は少し変わった様に思える」
「そんな覚えはないな。いいからさっさと名乗れ」
 急かすと、彼は手で口元を覆った。少し、逡巡している様にも見えた。
 暫くして手を降ろすと、白く長い睫毛に縁取られた瞳が正面から私を見た。


「私の名前は――」