首の骨

(デビサバ・憂ヤマ)

 

 

 掌と指先から、皮膚越しの骨の感触が伝わる。
 皮があって薄い肉があって、首の骨の連なりを感じる。
 右手に重ねる様に左手を添え、骨の形すら分かるほどに力を込めているのに、一向に力が伝わっている気配を感じない。良くできたプラスチックの模型を掴んでいるようだった。
 骨が軋む嫌な感触を、素手の掌に感じる。手袋はどうしたんだったか。ああどうせ自室に居るんだからと外したんだったか。ならその辺のテーブルにでも置いてあるんだろう。と、この異常な状況に反して妙に冷静に考えた。
 これだけ首を絞めているというのに、目の前の首を絞められている男は全くもっていつも通りだった。
 握力が足らないわけでもない。きっと常人なら絞め殺せていると思う。
 真白い首は、両手ですっぽりと覆える程に細く、あっという間にぽっきりと折れてしまいそうなのに、全然絞まらない。
 細い首の持ち主は、全くいつも通りの顔をして、長く白い睫毛を揺らしながらのんびりと瞬きをするばかりだ。口元にはほんのりと笑みすら浮かんでいる。
 これが本当に首を絞められている人間の顔なのか。ああいや、人間じゃなかったか、この化け物は。
 何でこんなことをしているんだったかな、と次第に冷静になり、思考回路が冷え切っていく。
 どうして首を絞めているのかさっぱり思い出せない。ただ、とても苛ついていた事だけは覚えている。苛つかせる原因を作ったのは、のんきに首を絞められているこの男だ。
「峰津院大和」
 平時と何の変りも無い声で、男が名前を呼んだ。普通なら気管が絞まって言葉すら発せられない筈なのに。
 とても滑らかな、いつも通りの声だった。
 男は首同様に細い腕を持ち上げて、自らの首を絞めている腕にそっと触れた。
 ただ、首を絞めることを止めさせようだとか、そういう意思は感じられない。ただ、触れただけ。
 ただ、大和の腕に触れただけ。
「苦しくないよ」
 とんとんと、まるであやす様な調子で腕を叩かれる。男は目を細め、口元の笑みの色を深くした。
 力を込め続けていた腕が、指が疲れた。馬鹿馬鹿しい。首を絞めていた指を離す。
「おや、満足したのかい」
 言って男は解放されたばかりの首を撫ぜた。
 あれだけ力を込めたというのに、首は真白いままで何の跡も残っていない。痣どころか、赤く染まりすらしない。
 晒されていた首を元通り隠す様に、彼は襟を正した。すっぽりと服に包まれ首は見えなくなる。佇まいを正し、小首を傾げ立つ姿からは、先程まで何をされていたかなんて、さっぱり分からない程にいつも通りだった。
 大和の手にはまだありありと、あの皮膚と骨の感触が残っているにも関わらず、だ。
「峰津院大和が他の人間と比べようの無い程に優秀だからだろうか、たまに君は私の理解の及ばない行動をとる」
「皮肉を言っているのか」
「まさか。で、私の首を絞めて何か分かったかい」
「貴様が化け物だという事以上に何も分かりやしない」
 それは残念だ既出の情報だったね、と男は肩を竦めた。
 姿だけ見れば、年端も大和とそう変わらないように思えるのに、何故こうもこいつは化け物なのだろうか。真白い髪と、赤と黒で目立つ服装を覗けば、そのあたりに居そうな、人間の子供の様に見えるのに。
 だが残念ながら、こいつは音も無く無から姿を現し突然消え、少しばかり床から浮いていて、首を絞めても苦しまない、紛う方ない化け物だった。
 この男を最初に見掛けたのはいつだったか。
 十にもならない子供の頃だったと思う。その頃からこいつは、全く姿を変えない。老いもしない。気付けば大和は彼の背を追い越し、見下ろしていた。今こそは同じくらいの年頃に見えるが、直に見た目の歳の差は開いていくのだろう。ただ遠ざかっていくばかりだ。無性に腹が立った。
 男から視線を逸らし背を向け、どこかに置いてある手袋を探す。白い一双は、振り向いた先のテーブルに置いてあった。
 手に残る骨の感触を振り払う様に、手袋に指を差し入れる。
「さて、すっかり逸れてしまったけれど、峰津院大和は主張を変えてはくれないのかな」
「ああ」
「どうしてもかい」
 男が穏やかな声色で問いかけてくる。懇願の様に聞こえるそれも、見えない圧力を含んでおり強制の色を覗かせている。
 くどい、と言えば分かり易い溜息が聞こえた。
「実力主義、だったか」
「何が気に入らない。実力がある者はが頂点に立ち、別の実力のある者を買い伸ばす。貴様の好きな人間の可能性とやらも、くだらない思想に踏みにじられることなく育つのではないか」
「そうではないんだ」
 振り返って見た男の顔からは、作って貼った様な笑みが消えており、代わりにあからさまな落胆が浮かんでいた。
「私が峰津院大和に情報を与えたのは、そんな事を願っての事だった訳ではないのだが」
「ならばどうする、私を殺すのか」
 気に入らないというなら排除すればいいだろう。それで排除されるならば、それもまた実力主義だ。さあ、と大和が笑う。男は苦笑した。
「それは人の可能性の一つを摘んでしまう事になる。私の役目から見れば出過ぎた行為だ」
「貴様は人の可能性可能性とうるさい。今この世界のいったいどこに、そんな可能性が残っているというのだ」
「……私はこれでも、峰津院大和にそれを期待していたのだけれど」
 ああそういえば、先ほどもこうした平行線な議論を交わしていたんだったか。その後どうして首を絞めるほどに至ったのかは、相変わらず良く覚えていないが。
 男の言う、人の可能性なんてもうどこにも残っていないと大和は思っていた。
 だから世界を変える。生まれ変わった世界を導く。こんな腐りきって吐き気のする世界の姿をそのままに、人の上に立ち導くなど夢物語だ。どうせ、その上から引き摺り下ろされ、下から支えさせられるのがオチだ。こんな世界、支えてやりたくなんてない。人柱として犠牲になど、されたくはない。
 そうではないんだが、と男は言うが何がそうではないのかなんて、さっぱり分からない。
 その上期待していた、だなんて都合のいい。過去形になっている時点で、どうせ見限ったくせに。
 腹立たしい。全てが腹立たしい。
 こんな世界も、人間じゃない化け物の男も。
「どうせ放っておけば、近いうちにこの世界は消されるんだろう。貴様がそう証言したではないか」
「ああ、そうだ」
「だったら誰かが導かねばなるまい」
「そうだ」
「私以外にそれが務まると思うか」
「思わないよ。だから私は峰津院大和にポラリスのことを話した。だが君はそれを秘匿した」
「公開したところで何が変わる。有象無象が勝手に自滅するのが早まるだけだ」
「だがそれでは」
 うるさい、と男の襟首を掴み引き寄せる。掴み上げたはずなのだが、全く重さを感じない。いちいち腹の立つことだ。
 だが流石に彼も驚いたらしく、言葉を途切れさせ、ただぱちりと瞬きをした。
 それは少し気分が良かった。
「話しは終わりだ。私の主張は変わらない。これ以上貴様の話しに付き合ってやれるほど、私は暇ではないのでな」
「……それは残念だ」
 男は笑って、ぱっと姿を消した。握り締めていた手の中の感触が消える。
 空になった手を払う。
 掴んでも首を絞めても何の変りも無く消え失せる男が、嫌いだった。
 舌打ちが漏れる。苛々する。腹立たしい。
「峰津院大和」
 声がして、消え失せたはずの男がまた姿を現した。声は大和の直ぐ後ろから聞こえた。
 振り返らないでいると、背後から白い手が伸びてきた。真白い指が大和の首にほんの僅かに触れる。先程大和が男にそうしたように、首を絞めるつもりだろうか。結局殺してしまう気にでもなったかと思ったが、指はそれ以上首に触れなかった。
「私は貴様と違って、首を絞めればあっという間に死ぬ人間だ。どうした、やらないのか」
「出過ぎたことだと話したばかりだろう。ただ、この先世界の滅びゆく状況によっては私は本当にこの手を絞めるかもしれない」
「脅しているのか?」
「まさか」
「ふん、良いだろう。貴様が本当に私の前に立ちはだかるというのなら、その時は貴様をこの手で必ず殺してやる」
「はは、それは楽しみだ」
 その時は本当に君の願いが叶う時だろうね、と声が笑い、首を覆っていた指の感触が消えた。
 振り返ればもう姿はどこにもない。
 今度こそ、何処かへ行ったらしい。
 現れるのも消えるのも、全てが男の自由だった。呼び立てる事も帰れという事も、大和には叶わない。命令したところで、乞うていることとなんら変わらない。
 どうしてこうも、違う。人間そっくりに見た目を似せたところで、何も人間と同じではない。大和とあの男は、どこまでも違う存在だった。

 思えば、あの化け物に首の骨があることがやけに不思議だった。