冬の日

(デビサバ・憂ヤマ)

 

 

 冬の日の朝だった。
 目を覚ませば、空気は切る様に冷え込んでいた。暖房の類を一切付けていない部屋の中で、吐いた息は白く煙った。寝床から抜け出せば、あっという間の体の表面は冷え切り、素足の指先の爪の色が悪くなる。足袋を履き、羽織に袖を通す。暖房器具を点けるが、直ぐに部屋が暖まる訳では無い。首を竦めて息を吐き、袖に手を隠す。
 冷えた空気の中で、寝起きの微睡を早々と手放し、意識が鮮明になってくる。起き上がってしまってから気付いたが、今日は休日だ。と言っても、目立った予定が、今は、入っていないだけ。何かあれば直ぐに何処へでも赴かねばならない。休日など有って無いものか、とゆっくりと瞬きをする。
 窓へと近付き、深い青色をした遮光カーテンをめくる。ほんのりと暖まり始めた室内との温度差で、ガラスが結露し始めている。真っ白だ。ただ、白いのは結露のせいだけではなく、外の景色そのものが真っ白に塗り潰されていた。
 窓のカギを開け、少しだけ外を伺い見る。開けた隙間から冷気が流れ込み、寒さに肩を強張らせた。
 見える景色は一面の銀世界だ。厚く雪が降り積もり、全てを飲み込んでいる。
 たまに峰津院家の屋敷の一つを寝所代わりに使えばこれだ。これでは呼び出されても出ていくのに時間が掛かる。よほどの案件でなければ、出ていく気さえ起きない。これは本格的に休みになるかもしれない。
 窓を閉めようとして、眼下に見える中庭に、人影があることに気が付いた。
 今この屋敷に居るのは大和だけだ。誰も彼も、昨日この屋敷に着いた時に追い返している。時々やってくる、どうにも一人きりになりたい瞬間だった。何かあれば車を寄越させるつもりだったし、何も無ければ今日の夜更けにでもジプスへ戻る予定だった。
 誰も居ない筈の屋敷に、人が入り込んでいる事は異常だった。だがそれ以上に、中庭の真ん中にぽつんと佇む人影の周りに、一切の足跡が無い事が異常だった。
 それも、その人影の頭が白く、胴体が赤と黒の縞模様をしていれば、必然に変わるが。
 雪の真ん中で何をするでもなく、微動だにすらせず、ただ立っている。何をしているんだあの化け物は、と窓を開け放っている寒さを忘れ、思わず見入る。白い癖毛は雪の色と同化して酷く曖昧に見える。そうなるとあの赤と黒だけが浮いている様で、兎に角、歪だった。
 彼はいつ見ても同じ格好をしている。春でも夏でも秋でも、冬でも。長袖は夏には暑そうに見えるが、冬に、こんな寒い日の雪の真ん中に立ち尽くしていると恐ろしく寒そうに見える。見ているこっちが寒くなる、と考えて、窓を開け放っていた事に意識が戻る。ぴしゃりと閉め、元通り鍵をかける。
 当然ながら部屋の中は全く温まっていなかった。

 着物にジプスのブーツを履くのは如何なものか、とは思ったが下駄ではこの雪の中に踏み出せない。誰が見るわけでもないか、と真っ黒なブーツに足を押し込む。 新雪に一歩踏み出す。ぎゅと雪を踏み固める音を立てながら、ブーツがくるぶしまで埋もれた。その音に、足跡一つない雪の真ん中に立っていた少年が振り返った。
「起きたのか」
「ああ」
「今日は休みだろう。もっと遅くまで寝ていると思っていた」
「何故貴様が私の予定を知っている」
「たまたま聞こえたんだ」
「どうだか」
 雪を踏み固め足跡を残しながら、中庭を進む。少年の直ぐ側で立ち止まる。真っ白な髪と、白い肌に薄着の姿は、近くで見ればより一層寒々しかった。マフラーをぐるぐると巻き付けている大和とは対極だ。
「寒くないのか」と愚問を投げかける。
「そうだね」と初めから分かり切っていた答えが返ってくる。「そうか、雪がこれだけ積もっているのだから、寒いのか」と人間ではない少年はしみじみと呟いた。
 大和が吐き出す息は白いのに、言葉を発した少年の口元からは何も零れなかった。温度が無いのか。いや、息すらしていないのかもしれない。開いた唇の隙間からは、赤い舌と白い歯が覗いていた。瞬きを繰り返す白い睫毛の内に見える真っ青な瞳も、髪も肌も声も何もかもただの人間の様に見える。なのに少年は心臓を動かし血液を巡らせてはいないし、細胞分裂だって繰り返していないし、息すら、していないのかもしれない。
 人間に似せるのは、あくまで表面だけ。動いて喋って思考するマネキンだ。中身は空っぽで、何も無い。人間に見える、だけ。
 空っぽの中身は人知の及ばぬ何かで出来ていて、人間の目には見えない。何百年も前から峰津院家の歴史に姿を残す、この少年の姿の化け物の中身は一体何なのだろうか。本質は、何なのだろうか。俗にいう神に近い何かなのか。悪魔ではない、という事は知っている。人間よりも上位の存在である、という事も分かる。ただ、それが何なのかは、知らない。教えてもくれない。
 少年は峰津院家に知識をもたらしていたが、大和に何かを教えることはほとんど無かった。
「おい」と少年に声を掛け、腕に抱えていた物を投げ渡す。突然の事であったが、少年は器用にそれを受け止めた。手の中に納まったそれを広げ、まじまじと見詰めると、青い瞳が大和を見た。
「コートだね」
「そうだ」と答える。投げたのは、真白いダッフルコートだ。
「子供物のようだね。それも、数年前まで峰津院大和が着ていた物じゃないだろうか」
「良く覚えているな」
「ああそうだ、丁度今の私くらいの身長の頃の物じゃないか。あの頃は目線が同じだった」
 今の、というなら昔はもっと違う姿をしていたのだろうか。それにしても、本当に良く覚えているものだ。一時着ていただけのコートの事など。ああでも、記憶していたのではなく、記録していただけのことかもしれない。根本的に違う存在である少年の事を、人の定規で計ることが、そもそもの間違いなのだろう。
「これがどうかしたのかい」
「着ていろ」
 言えば、少年は「何故だ」という顔をしてみせた。どうせ寒くないだとか、必要ないだとか、そういう事を考えているのだ。
「見ているこちら寒い」と、少年が疑問を呈するより先に答える。
「峰津院大和は時折良く分からない事を言う」と文句を言って着ようとしないので、コートを奪い取り、無理やり肩に羽織らせると、渋々と言った様子で少年は袖を通した。それでも前を閉めようとはしなかったので、強引に止める。寒さに指先がかじかみ始めていて、少しばかり手間取った。
 きちんとコートを着させられると、少年は少しばかり不満気な表情を浮かべたが、それも一瞬で消えた。コートに包まれた腕を上げ、まじまじと眺めている。
 袖丈でも足りないのかと「どうかしたか」と問い掛けると「不思議なものだなと思ってね」と答えた。何が不思議なのかは言わなかった。
 真っ白なコートに身を包まれた少年は、寒そうには見えなくなった。だが髪も肌も服も白色になり、雪と同化して消えてしまいそうに見えた。放っておけば雪に解け、実体も消え、誰の目にも見えない存在になってしまいそうだった。
 首元から覗いている、元々着ていた赤と黒の服の色が、やけに現実味を帯びていた。
「で、貴様は雪の真ん中で一体何をしていた」
「何も、かな。峰津院大和は寝ているだろうと思っていたし、雪を見ていただけだ」
「見ていただけか」
「ああそれと、ここに来る途中で見た雪だるまの事を思い出していた」
「雪だるまか」
 雪玉が二つ重なった、あの姿を思い浮かべる。雪が降ると迫がこっそりと小さいものを作ったりしていた。
「作ったことは無いな」
「そんなことだろうと思っていた」
 少年は腰を折り、指先で雪をすくった。病的に白い指先が、白い雪に埋もれる。あまりに寒々しい光景だった。こんな事なら、手袋も持ってくるのだった。そういう大和も今は素手なのだが。まさか雪を触ろうとするなど、思いもよらなかった。
「雪だるまの作り方は知っているかい」
 問い掛けながら少年は両手で雪を包み込んだ。今掴んでいるそれが雪ではないかのような錯覚を起こすほど、滑らかな動作で冷たさを感じさせない。僅かに溶けた雪が指先を濡らしているだけで、冷たさに肌を赤く染める事も無い。爪が紫になることもない。どこまでもいつも通り、何の変化も無い。
「そうやって固めるんじゃないのか」
 羽織の袖から手を出すことが躊躇われたので、顎で少年の手をさす。少年はゆるりと笑った。
「小さいものならそれでも出来るだろうね。だが身の丈程ある物は見たことがあるだろうか。それを作るにはどうすると思う」
「同じだろ」
 答えれば少年は目を細めた。笑っているように見えるが、きっとこれは、馬鹿にしている。
「そんな事を知っていたところで何の役にも立たない」とつい口を滑らせる。少年にはきっとただの強がりの言い訳に聞こえた事だろう。しまったな、と思う。だがそれでも、そんな事を知っていても役立つことは無いし、実際に作ることだって無いのだ。ならば知らなくても、良いことだ。他に覚えなくてはいけないことが、あまりに沢山あったのだから。
「峰津院大和は峰津院家の嫡男としては優秀だが、子供としての知識は不足しているね」
「子供としての知識とはなんだ」
「それが雪だるまの作り方などだろう。当たり前の様に誰かに教わっている事だ。遊びの為の知識とも言うかもしれないね」
「子供が遊ぶための知識など必要ない」
「でも君は子供だ」
 少年が、大和を見上げ、薄く微笑みながら断言した。言わんとしている事は分かる。たった十数年しか生きていない、子供。だが言葉そのままに受け取ることは許せなかった。はあ、と溜息を吐けば白く空気が煙った。
「貴様から見れば人間など全て子供の様なものではないか」
「そうかもしれないな」と呟き少年は白く長い睫毛を伏せた。ゆっくりと一度瞬きをし、顔を上げ、再び大和を見た。「上手く話しを逸らそうとしたようだけれど、そうはいかないよ」
「……何の話だ」
「峰津院大和が子供なのに子供としての知識が足りないという話だ。知識だけではないな、体験も足らない」
「それがどうした」
「淋しいものだな、と思ってね」
 さみしい、と脳内で反芻して驚愕する。
「貴様にも淋しいなどと言う感情があったのか」
「ある」
 まさか、という顔をしていたのだろう。少年は大和の顔を見て笑った。
「たとえば、峰津院大和が後六十年余りで死んでしまうかと思うと淋しいね」
「どうだか」
 本当にそんな事を思っているのか怪しいものだ。人間同様の感情があるのかも、怪しいものだ。喜怒哀楽が、この化け物の内にあるのか。表面に浮かぶ感情の起伏がとても薄いのか、鈍いのか、本当は感情など無いのか、判別はつかなかった。
「話しを戻すが、峰津院大和はもう少し、有り触れた体験をした方が良いと、私は思うのだが」
「それが雪だるまを作ることだとでも」
 そうだね、と少年が笑う。雪だるまを作ったところで、何の役に立つというのだ。少年の言う、有り触れた体験、をすれば何か変わるのか。
「で、貴様が雪だるまの作り方を教えてくれるのか」
「私が教えてしまう事は簡単だが、それでは何の意味も無い」
「なら、どうしろというのだ」
「近くの少年の輪にでも混ざって来たらどうだろうか」
「十七にもなってか」
「十七にもなってしまったんだ、知らないままにね」
 結局意味が分からない。少年は雪だるまの作り方を知るべきだ、と言うが、何のために知るべきなのかを話さない。こうしていつも、大和に何かを教えることをしない。疑問を一つ置いていくことはあっても、回答を与えてはくれない。「何故答えを言わない」と言えば「答えを与えてしまっては可能性がなくなる」と言う。
「どちらにせよ雪だるまなど作らない。こんなに寒いのにそんな事していられるか」
 ブーツ越しでも、雪に埋もれている足の指の感覚はもう無いに等しいし、袖に隠している手の指も冷え切っている。マフラーに助けられているとはいえ、顔も冷たい。芯から冷え切ってしまっている。
「そうか、今日は寒かったね。良く見れば顔が真っ白になっている、早く室内に戻った方が良い」
「言われずとも、そうさせてもらう」
 少年が未だ掴んでいた雪の塊を手から零すと、そのまま手を伸ばし、大和の頬に触れた。ぴたりと指が押し当てられる。
「冷えてしまっている」
 そう言う彼の指は、予想に反して冷たくもなんともなかった。頬に触れる白い指を掴む。雪が溶けた水滴が冷たい以外に、温度は無い。冷たくも温かくも無い。それでも「手も冷え切っているね」と少年は目を細めた。温度が伝わっていることがやけに不思議だった。
「戻るぞ」
「ああ」
「貴様もだ。こんなところで足跡も無く突っ立って居られたら気味が悪い」
「はは、酷いな」
「それともここで一人雪だるまでも作って見せてくれると言うなら、勝手にしたらいい」
「それは遠慮しよう」
 掴んでいた少年の指を離し、手を再び袖の中にしまう。は、と白い息を吐き雪を踏み固めながら屋敷へと戻る。歩き難い。まだ凍っていないから滑って転ぶ可能性は低いが、埋もれる分歩き難い。
 そういえばまだ朝食も食べていなかった。何か温かい飲み物を淹れて、それから冷蔵庫でも漁ろう。昨日の帰り際、迫が何か押し込んでいたはずだ。少年は何か食べるだろうか。一人だけ何か食べている、というのはあまり快いものじゃない。だが何かを食べているところを、見たことが無い。食べたところで、それは一体どこへ消えるのだろうか。まさか消化されるわけではあるまい。
 ざくざくと雪を踏みしめる音が、自分の物しか聞こえないことに気付き、顔を上げる。もしかして帰ったか、まあいきなり消えることは良くあることだが、と振り返る。
 少年は器用に雪より十センチ上に浮いて、空中を歩いていた。
 思わず溜息が零れ出た。
「有り触れた体験をすべきなのは、貴様の方ではないのか」

 

130818配布ペーパーより再録