真夜中の天井

(デビサバ・主ダイ、三日目夜)

 

「泊めてほしいんだけど」と親友が部屋にやって来たのが、つい先程の事。
 世界が崩れ始めてから、三日目の夜の事だった。

 その夜は眠れなかった。体はこれでもか、というくらい疲労しているのに、目は冴えていた。ベッドに潜り込んでもそれは変わらない。無理やり目を閉じても、全く眠気は襲ってこなかった。
 そんな時にドアをノックする音が聞こえた。
 暗くしていた部屋の中を手探りで移動し、目的のスイッチを見付ける。まだ暗闇で移動できるほど、この部屋に馴染んではいなかった。パチンと音がして部屋が明るくなる。ついでに枕元に置いていた携帯を確認する。ベッドに潜り込んでからは、一時間が経過していた。
 明るくなった部屋を移動し、ドアを開ける。廊下を煌々と照らす照明の光と一緒に、雪の顔が見えた。
 そして「泊めてほしいんだけど」と言われた。雪はフードを深く被っていた。フードの下から控え目に青い瞳が見上げてくる。
 そこで幾つかの問答を繰り返し、最終的に「いいけど」と答えた。どうした、だとかそういう質問をしたものの、最初から断るつもりなど無かったのは、とても単純に、心細かったから、に他ならない。
 何せ昼間に、誘拐されて簀巻きにされて転がされたばかりだったのだから。
 やっぱり誰かが一緒に居てくれたなら安心だし、更にそれが見知った顔で、雪ならば尚更だ。
 逆に、問答をしたのは、即答するのが恥ずかしかったから、と言った方がいいかもしれない。
 雪を部屋に招き入れた後、今度は誰がどこで寝るかで揉めた。
 床で良いよと言うから、お客さんを床に転がすわけにはいかないと反論する。すると泊めてっていってる方が部屋の主を転がす訳には、と言われ、更に、誘拐されて簀巻きにされて転がされて疲れてるでしょ、とも言われ、けれど雪は名古屋中をジュンゴ(と俺)を探して走り回ってで疲れてるっしょ、と何故かお互いベッドを押し付け合った結果、一緒に寝れば良いんじゃないの、という結論に至った。
 そして今だ。
 壁際に自分、その隣に雪。
 二人で寝るには若干窮屈なベッドに二人で真直ぐに並んでいる。
 電気を消してから時間が経ち、暗闇に目が慣れてきた。瞬きをする。天井の輪郭が見える。
 仰向けの状態から、顔を動かして横を向く。思いの外近い距離に雪の顔が見える。雪は上を向いていた。けれど眠っては居ないらしい。瞬きの隙間で揺れる睫毛の影が、うっすらと見えた。
「ゆきちゃん」
 静かに声を掛けると、雪の顔がこちらを向く。シーツと髪が擦れる、カサリという音が妙に大きく聞こえた。
「ゆきちゃん呼び禁止だってば」
 そう言った割に、雪の声は穏やかだった。
「今は誰も居ないんだから別にいーじゃん」
「もし部屋に盗聴器とかあったらどうするの。明日起きたら、大和がゆきちゃん呼びしてきたりしたら怒るから」
「そん時は盗聴器仕掛けてた大和怒ろうな」
「……無いとは言い切れないでしょ」
「……ここでそりゃ無いだろー、って言えない俺が居るのを否定できない」
 この非常時なので、情報収集や安全確保の為、と言われて盗聴器や監視カメラが何処かに仕込まれていたとしても「それもそうか」と思ってしまいそうで怖い。じわじわとこの異常事態に慣れ始めている自分も怖い。盗聴器他は新田など女の子も居ることを考慮して、仕掛けられていないことを願うばかりだ。
「で、ゆきちゃん」
「ダイチ、それワザとだよね」
「バレた?」
「ゆきちゃん呼びを許してるって知られたら、絶対誰か真似するからダメだから」
 喜んで(からかい半分に)真似しそうな顔が何個か思い浮かぶ。良く雪の名前を「ゆき」と字そのままに読む人が居るが、その都度雪は即座に否定していた。ゆきっていうと女の子っぽいから嫌なのだと。
「けど俺はいいんだよなー」
「むしろダイチ以外に、ゆきちゃん呼びされるのは甚だ不本意なのですが」
「あれっ、知ってたけど改めて言われるとなんか照れるんですけどー」
「ダイチは昔からゆきちゃん呼びだったから、違和感ないし」
 と言っても、大きくなってからは滅多にゆきちゃん呼びをしていないが。人前では普通にセツと呼ぶし、ゆきちゃんと声を掛けるのは二人っきりの時たまーにだ。さっきみたく。
「で、どうしたの。まさかゆきちゃん呼びしたかっただけ?」
「いやいや、流石にそんな」
「じゃあなに」
 じっと見詰められて急かされる。改めてそう急かされるほど、大した内容ではなかったので少し居心地が悪くなる。視線を逸らし、顔の向きを戻し天井を見上げる。
 ダイチ、と雪の声が尚も急かす。
「えっとさ、なんかこういう風に並んで寝るの、すっごい久し振りだなーって思って」
 言ってから、何だか妙に恥ずかしくなった。何がそんなに恥ずかしいのか分からないが、どこか落ち着かない。そわそわとして、こっそりと伺い見る様に、視線だけを雪に送る。
 雪も同じように天井を見上げていた。「確かに」
「だろー? お互いの部屋行き来とかはしょっちゅうなのにな」
「徹夜で映画観たり、ゲームとかもするけど、大抵寝落ちして雑魚寝だもんな」
「そうそう。こんな風に並んで大人しく寝るとかさ、無いよな」
「うん。それこそ小学生振りとかじゃないの」
「うわーもうそんなになるかな」
 大きくなってからは無かったなーと思うと、妙に感慨深くなる。小学生以来、となると単純に六年振りだ。そんなにも、なるのか。
 ずーっと一番傍に居た訳だけれど、こうしてただ並んで寝るだけが、そんなにも久しぶりなのか。
 まあ確かに、家のベッドでは並んで寝るには狭くて、床で雑魚寝した方が幾分かマシなわけだが。かといってここのベッドなら余裕か、と言えば全くそうではないけれど。
 二人並んでもうぎゅうぎゅうで、肩はくっついている。もう少し頑張れば離れられるかもしれないが、そうすると自分は壁に張り付くことになるし、雪は落ちるギリギリの位置になる。
 そこまでして離れたい訳では無いし、むしろくっ付いているところが暖かくて心地良い。雪とくっついているのは全く、不愉快じゃない。
「ダイチ」と呼ばれる。
 顔を傾けて、雪の顔を見るが、雪は天井を見詰めたままだった。
「なに?」
「こんな事になってさ、凄く大変な目に遭ってるけど。でもダイチが一緒だっただけ不幸中の幸いだったと思うんだ」
 雪の声は、はっとする程に穏やかだった。視線の先で、雪の瞼がゆっくりと下がる。何故か何も答えられなくて、横顔をずっと眺めていた。
「ダイチが居てくれれば、頑張れるよ」
「……女の子はそんな事言われたら嬉しいんだろうなー」
「ふーんダイチ的には嬉しくないと」
「いや、それがびっくりしちゃうことにかなり嬉しいんだな、これが」
「それは良かった」
 雪の声が笑った。笑って、顔がこちらを向く。凄く間近に、目が合う。
 自分も、この状況で雪が一緒に居てくれたことを、幸運だと思う。見ていて一番安心する顔が、ずっと隣に居てくれることが、どれだけ心強いか。
 自分は、雪が居てくれれば頑張れる、って訳じゃないけれど、雪が居てくれればこの先どうなったって、何とか生きていけると思う。取り乱して暴れたり、恐怖で発狂したり、しないで済むと思う。
「だから、さ。すぐ安全が確認できない距離に居られると、やっぱり不安だなーって、思った訳なんだけど」
「セツ?」
「ダイチが居てくれたら頑張るから。もうどっか行かないで」
「……やっぱり、心配かけた?」
「ダイチは、俺が誘拐されて簀巻きにされて転がされてても心配しないとでも?」
「そりゃ、すんごい心配する」
「でしょ」
 その光景をちょっと想像しただけでも、肝が冷える。それを実際目の当たりにさせたんだな、と思うと今更ながら申し訳なさの実感が色濃くなる。尚且つ隣で人が殺される様の、死に顔動画を雪は見たのだ。
「でもさ、どこも行かないでーって、ちょっとあれっしょ。恥ずかしい」
「告白みたいで?」
「そうそうそんな感じ」
 はは、と笑うと、雪が体を起こした。掛けていた毛布が捲れ、真夜中のひんやりとした空気が流れ込む。「寒いんですけどー」と雪の姿を見上げる。
 暗闇に、雪のシルエットが見える。細部までは流石に見えないけれど、癖毛が跳ねているのは見える。ふと、あの髪にボタンが絡まって大変な目に遭ったことを思い出した。
 ぼんやりと過去の回想に耽っていると、突如雪が圧し掛かってきた。
 上半身が雪の下敷きになる。色気も何も無くて、純粋に「重いんですけど!」
 左腕は見事に押し潰され、右腕はどうしてか動かない。押さえられている様な気がする。なんとか無事な足をバタつかせたところで何の効果も無い。
「ゆきちゃん重い!」
「うん」
「退いてください」
「お断り申し上げます」
「丁寧に言っても駄目だから! 俺死んじゃう、圧死しちゃう」
「……そこまで重くは無いと思うけど」
「確かに、そこまで重くは無いけど」
 けど軽くは無い。消して軽くは無い。同世代の男子の中では軽い方だろうけど、かといって乗せていても何とも感じない、という程軽くは無い。そしてその重さに余裕でそれに耐えきれる程、鍛え抜かれた肉体でもはない。
 それから、これでは寝られない。
 雪が何をしたいのかは皆目見当もつかないが、なんとか退いてもらおうと、潰された腕をもそもそと動かす。もう少しずらすことが出来れば、何とか解放されそうだ。
 ふと、首筋辺りにあった雪の顔が動いた。ふわりと癖毛が肌を撫でてくすぐったい。それから、細く長い溜息が、首筋に触れた。
 どうした、と声を掛けるよりも早く「ダイチが生きてて良かった」と心からの安堵を含んだ声が漏れ聞こえた。
 その言葉がじわりと染み込んで、誘拐されて、簀巻きにされて、転がされていたのは昼間の事だというのに、今更ながら泣きそうになった。
 いきててよかった。良かった。
「……ゆきちゃん」
「なに」
「……やっぱり重いです」
「……ダイチはそんなんだから彼女出来なかったんだと思う」
「うっさいバカ。俺に彼女出来たらセツほったらかしちゃうんだからなー。セツ一人ぼっちになるんだからなー」
「それはヤダ。ってかどっか行くなって言ったばっかじゃん」
「もーどっこも行かないから取り敢えず退いてって。重いの。俺朝にはぺちゃんこになっちゃう」
「……そんなに駄目? これならうっかり寝返り打って床に落ちる心配もないと思ったんだけど」
「朝までこれだったら俺ほんとに呼吸困難とかで死んじゃうと思うんだけど。なっ、ほら死んだら嫌でしょ?」
 だから退いて? と言うと今度は盛大な溜息が聞こえた。けれど退かない。
 もしかしたら、全力を出せば投げ飛ばせるかもしれない。けれどそうしてしまうには気が引けたし、雪の「生きてて良かった」という声が鼓膜に張り付いて消えない。
 こんな行動に出ているのも、心配や不安が、雪なりに溜まったが故だろう。日中は平常の様に立ち振る舞っていて、凄い奴みたいに見えても、やっぱり平気な訳ないんだ。
 必死に動かして、やっと自由になった左腕を雪の背中に回してぽんぽんと撫でる。
 この三日間で出会った誰も、雪のこういう顔は知らないんだろうな、と思うと何だかおかしかった。
「……仕方ないから手で妥協する」
「どんだけ心配性なのかね君は。朝起きたら消えてるとかないから、俺生きてるから」
「絶対だよ」
「むしろこの状況で死んでたら確実に犯人雪だから」
「そんなことになったら、ホラー映画みたいな状況だったのが、一瞬でサスペンス映画に早変わりだよ」
「いやいや、犯人丸分かりで何も面白くないってその映画」
「そうかもね」
 雪の笑い声と一緒に、体を覆っていた重みが離れる。さきほどまでと同じように、隣りに雪が寝転ぶ。
 やっと退いてくれたか、とほっと息を吐く。重みは退いたが、雪の視線がずっとこちらを見ている。穴が開くんじゃないか、というくらいだ。今度は自分がため息を吐いた。
「はいはい、ちゃんと手ー繋ぎますからー」
 いざ、となるとやけに恥ずかしくて、投遣りに言葉を吐きながら直ぐ近くにあった雪の手を掴む。触れた指先は冷たかった。
「さすがにさ、そろそろ寝ないと明日きついよな」
「そうだね。明日も何か出るかもしれないし」
「うわーできれば勘弁して欲しい」
「ね」
「じゃ、おやすみ」
 握り返された指先の感覚が、それはもう恥ずかしくて、早々に話を切り上げる。プツンと言葉を切って、目を閉じる。けれど雪からおやすみの言葉は返って来なかった。
 こういう挨拶を無視する様な奴ではないのに珍しいな、と思っていると、隣りでまた雪が起き上がる気配がした。
 今度はなんだ、と目を開けると、何でか直ぐそこに雪の顔がある。
 何でだ、と思うのが早いか、額に何か触れた。
「おやすみ」と雪の声が降る。
 それだけ言うと、雪は元の様に隣に寝そべった。
 頭を動かし、隣りにある雪の顔を見る。雪は目を閉じていた。
 繋いでいない方の手を動かし、自分の額に触れる。

「うわー何それ恥ずかしい」