夏の日

 

(デビサバ/主ダイ)

 

 

 夏の影がアスファルトに焦げ付いている。
 自分の形をした影が、こんがりと黒い色をして地面に張り付いている。蝉の声が重なって重なってを繰り返していてうるさい。
 フードを被ったくらいでは、防ぎきれない日差しが頭上から照り付けている。じわじわと蒸発していっている気がした。このまま少しずつ蒸発して大気に溶けて、いつか消えてしまう。
 くっきりとした夏の影は、嫌いじゃなかった。足元で小さくなっている自分の影に目を落とす。太陽へと向けている背中を、汗が一筋伝って流れ落ちていった。
 ノートと参考書の詰まった鞄が重い。
 影が濃い。
 蝉がうるさい。

「いやーセツさんや、俺にはさっぱり分からんよー。って聞いてる?」
 肩を叩かれて顔を上げる。隣りで大地が目を丸くしながら眉を下げている。彼の腕に下敷きにされているノートは、真っ白だった。
「ダイチ何も進んでないけど」
 それ、と指をさす。大地は「そうですなぁ」とぼやいてノートに頬を押し付けた。
「てかさ、分からないからセツに訊いてるの。お分かり?」
「お分かる」
「そんじゃ教えて」
 ここと、ここと、それからここ、そんでもってこっちも、と大地が夏休みの宿題のページを次々捲っていく。先程まで開いていたはずのノートは華麗に端に寄せられていた。「とりあえずここからよろしくお願いします」と結局最初のページに戻り、一番上の問題を指さした。つまり一問目から投げた。
 仕方ないので問題文に目を通す。全く解いた覚えのない問題だったから、あまり大地の事は言えないかもしれない。自分も参考書を広げてはいるけれど、宿題はまだ全て終わっていなかった。
「えーっとこれは、大体X=5くらい」
「いや待ってセツさん。数学に、くらい、っておかしいよね?」
「じゃあ五でいいや」
「いやいやゆきちゃん、それ絶対適当に断言したっしょ」
「まあね」
 あっさりと認めると大地に肩をぐーで殴られた。痛い訳じゃないけれど、全く痛くないというほどでもない、分かり切った絶妙な力加減だった。
 仕方ないから、と大地から宿題の冊子を奪い取る。問題文をきちんと読み込み、手元のノートに計算式を書き込む。英数字の連なりを記入している途中で、良く分からなくなってきてペンを転がす。カラカラと音を立てて転がり、机から落ちる寸前のところで、大地の手がペンを止めた。
「おーい、だいじょぶ?」
「うーん」
 生返事をしながら背凭れにもたれ掛かって天井を仰ぐ。高い天井と、空調設備が見える。少し横を見れば、本棚で本を探す人影が幾つかあった。丁度見えないけれど、後ろの机では同じように勉強をしている人も居るのだろう。夏の図書館は天国だった。
「さっき外に突っ立ってたからとか? てか何で外で待ってるかなーセツは。出る時メールする、って言ったのに」
「ダイチに早く会いたくて」
「うんうん、大丈夫じゃないなぁ。あっ、もしかして熱中症?」
「ねっちゅーしよー」
「って言ってもさ、具体的にさ、熱中症ってどういう症状がでんの? 熱? 熱無い?」
「ねっ、ちゅう、しよう」
「もうそのネタいいから! セツさん、俺は心配してんの。ホントに大丈夫なの? 水飲む? ポカリとかの方が良いんだっけ」
 大地がこちらの顔を覗き込みながら手を伸ばしてくる。手は額に触れた。ひんやりとしていれば良かったのだけれど、大地の手は暖かかった。大地は自分の額にも触れてみて、温度を比べているようだった。交互に触り、うーんと唸った後「わかんにゃい」と諦めた。
 心配って、と思いながら転がっていたペンを拾い上げる。
「熱中症じゃないと思うから平気平気。外に立ってたのだって、ほんのちょっとの間だけだし。ダイチが決めた待ち合わせ時間から遅れた、たった三分くらい」
「うわーなんかそれ、いきなり俺が悪いみたいになってない?」
「あ、ダイチ大学決めた?」
「いきなり過ぎる!」
 大きな声を上げると、図書館の中が一瞬静かになった。疎らに居た人の視線が集まった事に気が付いた大地が、背中を丸めて小さくなる。視線がばらけると、先程までよりもずっと小さな声を出した。
「まだ決めてにゃいです……ほら、まず俺は俺の脳みそと相談だーから始めないといけないっしょ」
「ダイチは全力を出せばそこそこ出来る、って俺は踏んでるんだけどな」
「マジで? セツのお墨付きならちょっと気が楽になるわー」
「死に物狂いの全力を出せば、ね」
 げ、とあからさまに顔を歪めた大地が机に伏した。真っ白なノートに頬を擦りつける。
 涼しいところなら勉強が捗るかもしれないから図書館行こう、なんて言っていたけど間違いなく、もう帰りたい、と思っている。もう少し詳しく言うなら、もう帰ってアイス食べながらゲームしたい、だ。
「ダイチ早く大学決めてよ」
「うええ。なんでー、なんでセツまでそんなに俺を急かすんだよー」
「ダイチが決めてくれないと俺の進路も決まんない」
「ひどい! てかセツさんに行きたい大学とかやりたいこととかないの」
「ダイチと同じ大学に行って、適当に就職する」
「そんなこと自信満々に言われてもなあ」
 進路ねえ。と呟く大地の声を聞きながら、参考書に視線を戻す。英数字は相変わらずびっしりと並んでいる。
 解けども解けども次の問題が現れる。参考書も人生も一緒だな、なんて。考えたところで、自分の人生は大地を中心にぐるぐると回っているのだけれど。
 そんな世界の中心がむくりと起き上がった。
「ところでこの問題、結局答えなに?」
「ダイチ」

 勉強は捗らなくっても、十分に涼しさを提供してくれた図書館を後にする。
「涼しいのは良いんだけど、帰る頃には結局汗だくなんだよなあ」と大地がぼやいていたが、汗だくになることはなく、びしょ濡れになっていた。
 天気予報は見ておくべきだった、とバス停で雨宿りをしながらしみじみと思った。時刻表を見ればバスは通り過ぎてしまったところだ。乗れたとしても、家の方へは向かわないけれど。
 雨が止むのを待つか、更にびしょ濡れになることを覚悟で突っ走るか。夕方の通り雨だとは思う。地面を強かに打つ雨粒は大きく、絶え間なく降り注いでいる。
 雨が降り始めてから、このバス停に滑り込むまでの時間はほんの僅かだった。それでもずぶ濡れだ。鞄の中身も濡れてしまっているかもしれない。参考書は買い直せるけれど、大地の宿題は大丈夫なのだろうか。
「ちめたい」
 口先を尖らせながら、大地が首にかけていたタオルで頭を拭いた。明るい黄色のタオル。冬になると好んでつけているマフラーと同じ色だ。
「折角セットした髪の毛台無しだね」
「いやもーそんな事言ってられないっしょ。それにもう帰るだけだしなー見られるって言ったらセツくらいだわ」
 同級生とすれ違う可能性は、と思ったがこの雨ではそれも無いだろう。人通りはほとんどない。皆この雨に早々と屋内に逃げ込んだみたいだ。たまに通り過ぎる人影も、深く傘をさしていて顔は見えない。
「セツは髪いじらなくても見事なテンパだからなー。羨ましいかって言われるとそうでもないけど」
「でも今は髪濡れてるからちょっと直毛っぽくなってない?」
「いや全然」
 そんなはずない、と髪に手を伸ばす。掌に跳ねる毛先が触れた。頭から水を被る勢いでないと癖毛が勝ってしまうらしい。
「てかさ、セツ何でフード被ってないの? 頭びしょびしょじゃん。お宅フード好きでいっつもフード付きの服着てるのに、こういう時に活用しないのどうかと思うわ」
「可愛いフードにそんな無体を強いれない」
 適当な返事を口から零し、毛先についた水滴を払う。大地みたいにタオルでも持っていれば良かった。けど、雨が降ると知っていたなら、傘を持ってきたからタオルが必要になったりしなかった。そもそも図書館に行こう、なんて話にはならなかったかもしれない。
 雨はあまり得意じゃないな、なんて考えてていると、頭に何か乗った。隣りから飛んできた何かが、頭にぶつけられた。というか黄色いタオルだった。
「セツやっぱり今日ちょっと変じゃね? 熱ある?」
「ねえ、キス、しよっか?」
「それもう熱中症の原型留めてないんですけど」
 こんな馬鹿な返しにも気が付いてくれるのがどうにも嬉しい。嬉しいからついつい馬鹿を言ってしまう。
 頭に乗せられたタオルをダイチの手が掴む。容赦なくガシガシと髪を拭かれて変な声が出た。
「今セツに風邪ひかれると困るんだよー。誰が俺の宿題を見てくれるんだもー」
「俺、ダイチの宿題に負けた」
「宿題が片付けばセツが再び上位に返り咲くぞー」
「うわーダイチが魔性を発揮してる」
「あれ、俺魔性だったら彼女ホイホイ出来てるんじゃにゃいの」
「残念だダイチ……」
「うわ酷い」
 折角髪拭いてやったのに! と頭を叩かれた。黄色いタオルが頭上から消える。拭いたせいでぐしゃぐしゃになり、水気が少し取れて癖を取り戻した髪が、くるんくるんに跳ねているのを見た大地が指をさして笑った。
 乱れた髪を直す前に、大地の手からタオルを奪う。先程してもらったのと同じように、大地の頭を拭く、と見せかけてぐしゃぐしゃにする。大地から変な悲鳴が上がった。
「恩を仇で返された!」
「お揃いにしただけだって」
「嬉しくない!」
 土砂降りのバス停で、二人並んでせっせと髪型を指先で直しているのがおかしかった。おかしいなあ、と思うけれど、嫌いじゃない。大地が居ると腹が立っても悲しくっても苦しくっても、後になってしまえばそれはそれで楽しいかもしれない、って思えてしまうから、かなり毒されている。
「ダイチってさ、大学入ったら一人暮らしする?」
「んーと、まだ考えてないけど」
「じゃあ一緒に住もう」
「はー今日のセツさんはほんとに唐突ですな」
「俺と住むと良い事いっぱいあるよ」
「ほうほう具体的には」
「家賃が半分」
「そりゃそうだな」
「家事も分担制」
「それはまあ」
「朝も起こしてあげよう」
「それは目覚まし時計で十分じゃにゃいのかね?」
「えーとあと、いつでも勉強見てあげる」
「うんうん、それは嬉しいような、嬉しくないような」
「それから、ダイチが単位落とさない様に見張ってあげよう」
「はー、ありがたいような、ありがたくないような」
「そんな事言ってると、試験とか提出物とかで躓いたり、寝坊して遅刻したりして、単位落として留年して、俺が先に卒業しちゃうんじゃない」
「ギャーそれはヤダ!」
 大地が両手を大きく振った。「ダイチならやりかねないと思うけど」と笑えば「笑えない冗談反対!」と背中を叩かれた。ちっとも痛くない。ただ、びしょ濡れになっていた服の感触を思い出した。雨は少し小振りになっていた。
「ヤダなーセツだけ先に卒業してー就職してーどっか行っちゃうとかさー」
「まあ、まずは大学合格してからだけど」
「そうだよなー。そもそも一人暮らしとかの前に、どこの大学行くかーだよなー」
「そうだけど」近かったなら実家から通っても何の問題もないし。
「でもさ」と大地がバス停の屋根の下から手を外に出した。小さい雨粒が大地の掌に落ちる。「大学が遠くて家から出るーってなったら、セツと住むのはいいかもなー」
「本当に?」と思わず聞き返した。
「なんだよ嘘だったのかよー」と大地が口を尖らせた。
 そうじゃないけど、と言って口ごもる。
「セツさ、今日やっぱ調子悪いとかじゃないの? へーき?」
「そんなに何か変?」
「幼馴染をみくびってもらっちゃ困るよーキミキミ」
 けらけら笑ってから、ハッとして「じゃあ雨に打たれたりしたから悪化した?」と慌てて大地が手を伸ばしてくる。額に触れると「やっぱ熱はないなー、てかちめたいわ」と眉を寄せた。
「マリッジブルーかな」
「えっセツさん俺に内緒でどこの誰と結婚すんの」
「ダイチ」
「セツさんや、俺にも分かる日本語でお願い」
 はあ、と息を吐出す。出来るだけ深く深く、ため息を吐く。核心は察しないくせに、何となく察してしまう大地の事が好きだけれど、今は困る。少しだけ、目を逸らした。
「大学はさ、ほら、一緒のとこに行けるかもしれないけど。大学卒業したら別々になるのかなーとか、大学ですら別々になったらそのまま中々会わなくなって疎遠になったりするのかな、ってさ」
「いやーそれはないっしょ」
 あっさりと否定した大地に、でも、と反論しようと顔を上げる。今まではずっと一緒だったけれど、そんな事がずっと続くかなんて、分からない。
「俺はセツとは死ぬまで一緒な気がするけどなー」
 当たり前でしょう、と言う様にダイチは凄く普通の顔をして、凄く普通にまばたきをした。茶化す時みたいに口を尖らせていたりもしない。
「あ、雨止んだ」
 言われて空を見上げた。雲が消え、日差しが漏れてきている。大地が屋根の下から飛び出した。足元で薄い水溜りが跳ねる。
「ダイチ」と呼ぶと、振り返った。
「ダイチ結婚しよう!」
「今日のセツは本当に唐突だなぁ」
 大地がけらけら笑った背後の空に、虹が見えた。

 

 

130818配布ペーパーより再録