(クロジュリ)
時刻は十一時三十二分。
彼はテーブルに広げた書類を眺めながら、ソファに腰掛けていた。革張りで座り心地の良い、二人掛けのソファだ。その真ん中に腰を下ろし、夜の時間を悠々と寛いでいる。
寛いでいるついでに、資料を眺めていた。走っていく文字を目で追いながら、ぱらぱらと紙を捲る。たまにテーブル端の分厚い辞書を開く。瞬きをする。長い睫毛が視界を掠める。くあ、と欠伸が零れた。
ドアを叩く音が聞こえたのは、丁度その時だ。
こんな時間に彼の自室を訪ねてくる者など限られている。ノックの音が穏やかであったところから、緊急の用ではない。となれば、最早誰かなど確認せずともいいくらいだ。
返事をするかと考えている間に「先輩、オレです」という軽い声がドア越しに聞こえてきた。知っていると言いそうになりながら、鍵は掛かっていないから勝手に入ってこい、という旨を簡単に伝えた。
扉が開き、隙間からひょこりと、すっかり見慣れた姿が現れた。覗き込むように顔を出した次に、束ねた長い髪の先がはらりと垂れて見えた。
彼の姿を確認すると「うわ、まだ仕事してんすか」と肩をすくめてへらへら笑った。ブーツの底でタイルの床を踏む音を立てながら、部屋に入ってくる。両手にマグカップを持っていた。湯気がふわりと揺らいでいる。
その片方を彼に向けて差し出しながら「まあそうだろうなって思ってましたけどね」と、またへらりとした。
受け取ったカップの中身は真っ黒いコーヒーではなく、真っ白だった。予想外のことに見上げれば「今からコーヒー飲んだら寝れくなりますよ」と返された。それはそうだろうが。口をつけたホットミルクははちみつでも入れたのか、妙に甘かった。
マグカップをテーブルに置き、腰を浮かせソファの端に移動する。空いた隙間に人が座ると、二人分の体重でソファが沈んだ。スプリングが押し返すように跳ねると、肩がぶつかった。マグカップの中身を覗きなが慌てる声が隣からする。「こぼすなよ」と声を掛ければ「牛乳で床拭くとぴかぴかになるとかありませんでしたっけ」と言ってくる。
再び書類に目を戻すと、となりでなにやら喋りはじめた。特に内容のある話ではないため、適当に相槌を打って聞き流す。黙々と喋ることが楽しいかのように話し続けていることが、いっそ器用だ。
十分程その話を聞き流した後「静かにしていていいぞ」と言うと、途端に口をつぐんだ。あまりにピタリとやんだので、ホットミルクに口を付けながら横目に様子を伺う。
驚いたように目を丸くしながら、彼を見ていた。レンズ越しにその目がぱちりと瞬く。目が合う。息を吸うことを思い出した様にマグカップを口に運ぶと、視線を逸らした。瞳の動きがテーブルの資料の上をさらりと撫で、再び彼に、今度はこっそりと覗き見る様に戻ってくる。
それに気付いていないような振りをして、彼も資料に目を戻した。
十二時ちょうど。日付が変わる。
あれからとなりは一言も発していない。空になったマグカップはテーブルの隅に置かれ、以降唇は閉じられたままだ。
時折彼が読み終わった資料をつまんで、中身を覗いたりはしている。しかしそれだけで、実に大人しい。昼間の姿を思うと別人のようだ。
「いつまで居るんだ」と問い掛けると「あ、もう寝るんすか」ととぼけてきたので、それはお前の方だろうと呆れ交じりに言えば、笑っていた。
机の上に散らかしていた資料をまとめ、揃えて置く。その上に重し代わりに辞書を置いた。となりを見れば、ソファに背を預けきって天井を眺めていた。
その時に悪戯心が湧いた、とでも言えばいいのか。無防備な姿に手を伸ばし、襟を掴んで思い切り引いた。体を浮かせ、今まで彼が座っていた場所に押し付ける様に引き倒す。「うわっ」という間抜けな声が上がった。
襟を掴んだ手は離さないまま、ソファに押さえ付け上から覗き込む。逃れようと一瞬もがいた手が、ソファの背を掴んでいるのが視界の端に見えた。もう片手が、襟を握っている彼の手を掴もうとして、空中で止まっている。
唇が「あ」と息を飲んだ形をしている。目は驚きに見開かれている。長い睫毛が縁取る瞼は、役目を忘れたように動かない。眼鏡のレンズが僅かな光を反射してちかりと光った。長い髪が遅れてはらはらと滑り落ちてくる。
その状態で止まっていたのは、五秒もないくらいだったはずだ。
瞳の中を走る虹彩が、ざわざわと走っているようだった。彼はそれを眺めながら、どうするかを少しだけ考えた。その五秒の間に、選択肢は色々と思い浮かんだ。けれども結局手を離して、体を起こした。彼が遮っていた照明が、ソファに仰向けに倒れている姿に降り注ぐ。
離した手の、小指の先が離れるその時に「油断し過ぎだ」と笑えば、ぱっと表情が変わった。「酷くないですか、試すとか」と文句を言いながら起き上がるのを背中に感じながら、テーブル上の資料を抱え上げる。
「あんまり油断しているからだ」となおも笑えば、「先輩相手に警戒しませんよ」という言葉が背後から射抜いた。