視力0.01

(クロジュリ)

 

 
ジュリエットの上司はとても時間にうるさい。
どれほどかと言えば、時間を分単位どころか、秒単位で把握しているくらいだ。おかげで遅刻をするとすぐにばれる。そりゃもうあっという間に。出会いがしらに。挨拶よりも先に、真っ先に。
えー時間通りですって、ととぼけてみたところで、さっぱり通用しない。持っている時計がとても正確なのだ。これでもか、と見せられたらそれでおしまいだ。言い訳もさっぱり役に立たない。
そしてジュリエットはといえば、遅刻常習犯だった。
今日も報告書を持っていくと伝えた時間から、すでに十五分ほど経過してしまっている。たった十五分だが、きっと十五分も、なのだ。どうせこうなるならば、初めから少し遅い時間を伝えておけば良かった。後悔しても今更だ。
さてはてどうしたものか、と夜の色をした廊下を進む。どうにか軽く言い逃れができないものか、と頭の中に言葉をめぐらせる。しかしやっぱり、考えるだけ無駄かもしれない。任務自体が長引いてだとか、報告書が上手く書けなくてだとか、あれこれ言ったところで遅刻に違いはない。いっそこのまましらばっくれようか、という考えも一瞬思い浮かぶ。それでも結局、この廊下の先へ行くのだけれど。
怒られても良いのでとりあえず、顔を見たい気分だった。特に理由はないけれど。ただ何となく。そんな感じ。そんな気分。
そうして辿り着いた部屋の前で立ち止まる。息を吸い、息を吐き、腕を上げ、手の甲で扉を二回ノックした。
「遅いぞ」という声が、中から聞こえてきた。
名乗るまでもなく正体が知れてしまった。
全くそんな状況ではないのだが、少しばかりこそばゆい気持ちになる。「俺です」と言って誰か分かってもらえただけでも、嬉しかったような記憶がある。そこから更に先に行かれてしまった。
脳内にあった言葉が、全てきれいにどこかへ消えた。さっきまで言い訳だとかの言葉が、あんなにもぎっしりと詰まっていたのに。
何と返事をしたらいいものか分からなくなり、むぐむぐと口をつぐむ。もう一度深呼吸をする。吐いて吸って瞬きをして、表情を整えるとドアノブをひねった。
中を覗くように顔を出すと、クロノの目がこちらを向いていた。
部屋の奥で、書類を積み上げた机に向かいながら、手には万年筆を握っている。こんな時間だが、当然のように仕事中の様子だ。ふと、昨日借りた万年筆を持ってき忘れたことを思いだした。まあいいか、追及されない限り今日は黙っておこう。素直に話したら、遅刻した上に忘れか、とか言われてしまうに違いない。
「せんぱーい、遅くなりました」
へらりと笑って手を振ると、視線を逸らされた。ああ素っ気ない、と少しばかり悲しくなるが、その後手招きをされたのであっさり気が晴れた。
敷居を踏み越え、後ろ手にドアを閉める。一応上司の部屋に踏み込んだわけなので、足をそろえて一礼した。それを視界の端に捕らえたクロノが「なにしてるんだ」と呆れの混じった声で言った。
「報告書持ってきました」
「待ちくたびれた」
「えー、まだ十五分しか遅刻してませんよ」
「十五分もだろ」という予想通りの言葉に苦笑していると「まあ」と更に言葉が続いた。「今日は任務が長引いたと聞いていたから、あと三十分は来ないと思っていた。早かったな」
予想外の聞き慣れない言葉に、思わず返事を忘れる。何事かと伺うようにクロノの顔を見つめれば、彼が書類から顔を上げた。じろりと見られる。
「なんだ」
「えっと、早かったって言われたの初めてなんで、驚いてました」
「お前が遅刻ばかりするからだろ」
「そうっすね」
「それより報告書持ってきたんだろ。机に置いておいてくれ」
「はーい」
軽く返事をしたものの、いったいその机のどこに置けばいいのだろうか。
資料と書類だらけで空間が無い。適当に置いたら、埋もれて無くなってしまわないだろうか。分かりやすく正面に置けばいいか、と机を挟み向かいに立つと、俯いたままクロノが「あ」と声を出した。
「いや、直ぐに見る。向こうに座って少し待っててくれ」
「あっはい、了解っす」
「あとそっちの棚にある」
「紅茶ですか? 淹れますか?」
「……飲んでも良いぞと言いたかっただけだ」
「それって、ついでに自分の分も淹れてくれってことですよね」
けらけら笑うと、ため息混じりに「まあな」と肯定された。
すっかり、勝手知ったる部屋だ。
迷わず戸棚から、茶葉の入った銀色の筒を取り出す。この部屋には茶葉はあれど紅茶を淹れるための道具はないので「いってきまーす」と言い残し部屋を出た。飲み物一杯淹れるために、わざわざ部屋を移動しないといけないのは少々どころかかなり面倒だ。部屋に作り付けてはくれないかなあ、とぼんやり考えた。
厨房に入ると明かりをつけ、湯を沸かした。お茶を飲んで待っててくれ、の手間ではないなとしみじみ思う。
そもそも報告書を置いてくるだけでも十分だったはずなのだ。それなのにこうして手間をかけ、紅茶を淹れているというのも大変おかしな話だ。あの報告書には特記事項などもない。直ぐに読んでもらわなくては困る、ということも勿論ない。
それでどうして湯を注ぎ、茶筒をポケットに押し込み、ティーポットとカップを二つ持って廊下を戻っていくことになっているのか。
理由はごくごく単純で、大して意味もない。顔を見たら、もう少し同じ場所に居る時間を得たくなったからだ。それだけ。たったそれだけ。
それだけ、の中から調査だとか、監視の意味が薄れ始めたのはいつ頃だったか。そう考えると答えは出し難い。ちりちりと胸が痛んだので、息に乗せて吐き出した。かといって楽にはならなかった。
ジュリエットとしての理由はそれだが、クロノがどうして待っていろと言ったのかは甚だ疑問だ。直ぐに見なくてもいい書類ということは、彼だって分かっているだろう。もしかしたら飲み物を淹れる人員を確保したかっただけかもしれない。それともいつの間にか、監視されている側が入れ替わったのだろうか。
「戻りました」と部屋に入れば「ああ」という淡白な返事に迎えられた。
紅茶を注いだカップの一つをクロノの机に、一つを部屋の真ん中にあるローテーブルに置いた。ローテーブルの両側にはソファがあり、最大六人座れる。ちょっとした打合せが出来るようになっているのだ。
報告書と空になったティーポットをテーブルの上に置いた後、ソファの一席に深々と腰掛けた。湯気の立ち上る紅茶を一口含む。中々美味しい。以前に比べ、紅茶を淹れる腕前が上達したような気がする。
ほっと息を吐きだすと、あまりに緩やか時間の流れに眩暈がした。
少しと言った割に、クロノは未だ黙々と机に向かっている。書類の上を往復する視線は真直ぐだ。カリカリと万年筆の先が紙を滑る音が心地良い。時折紙を捲る音もする。とても静かで穏やかだ。
「仕事をしてる先輩って、カッコイイですよね」とぽつりとつぶやいてみると、クロノの視線が一瞬こちらを向いた。
眼鏡越しに目が合う。直ぐに逸らされ、代わりに溜息を寄越された。「ほめてますって」と言えば、辞書でも閉じた様な音が、呆れたように部屋に響いた。それから椅子が床の上を無理矢理滑る音と、立ち上がったクロノが床を踏んだ足音が続く。
日中は長いコートをまとっているから、こうして夜の執務室で見る、シャツにネクタイだけという姿はとても珍しいものに思える。こんな時間なのにまだ律儀にネクタイをしているんだな、と比較するようにボタンを開けた自分のシャツのことを思った。
クロノはこちらへ向かってくると、当然のように滑らかな仕草で、となりに腰を下ろした。ぼふりとソファの座面が沈む。他にも席は空いているのに、いったいなんでそこに。思わず焦る。心臓がばくばくとうるさくなる。
幸い感情が即顔に出るタイプでは全くなかったので、表面上取り繕えてはいると思う。こちらの焦りにはまるで気付かない様子で、クロノは無造作においていた報告書に手を伸ばした。
片手で持ち内容を目で追いながら、もう片手でジュリエットの目の前に置かれているティーカップに手を伸ばし、口に運んだ。「それ俺のです」と控えめに伝えると「茶葉は俺のだ」と言われ、それ以上の反論の方法を見失った。くっと煽り、空っぽになったカップが戻される。
「ふむ」と頷いて報告書を置いたので、どうやら内容に問題はなかったらしい。「ご苦労だったな」と言いながらクロノが眼鏡を外した。目が疲れたのか、目頭を押さえている。
「そういえば、先輩って視力どれくらいなんですか」
「あまり良くはないな」
眼鏡を外したまま、じろりと見つめられる。
言葉通りあまり見えていないらしい。目が細められている。
見つめられる、というより睨まれている気持ちだ。妙な威圧感に首をすくめると、クロノが首を傾げた。
「お前の顔が、まあ見えるな」
「この距離でですか。すっごい目悪いじゃないですか」
「だから、良くない」と言いながら、眼鏡を掛け直した。いつも通りの見慣れた姿に戻ると、何故かほっと息が漏れた。それが聞こえたのか知らないが、クロノがこちらを見た。目が合う。どうにも落ち着かない気分になり、また首をすくめた。
そして一瞬視線を逸らした隙に、眼鏡を奪い取られた。
手が伸びて来たかと思えば、眼鏡の弦を掴まれ、半ば強引に外される。途端に視界がぼやける。霞んだ視界の向こうで、クロノのシルエットと、その手だろう先に何か、多分自分の眼鏡が捕まれているのが見えた。
「帰してくださいよ、俺も眼鏡ないと全然見えないんすよ」
「どこまで見えるんだ」
「えーっと、色とシルエットが何となく先輩だなってのは分かります」
「俺より悪いんじゃないか」
「どうですかね」
「どういう表情かくらいまでは見えていたぞ」
「えー、俺今先輩の顔よく分かんないんで、声から察するにちょっと楽しそうってことしか」
「楽しそうに聞こえるか」
「結構。たまにそういう悪戯心出しますよね」
「そうか?」
そうですよ、と答える。
笑いださないことが不思議なくらい、クロノの声に愉快な色が混じっている。表情が見えないのが惜しく思えた。
ぱちりぱちりと瞬きをし、なんとかピントを合わせようと試みるが、やはり見えない。多分顔だろうという場所をじっと眺める。クロノの顔は今笑っていたりするのだろうかと考えたところで、どう頑張ったって何も分からなかった。
「そろそろ眼鏡返してくださいよ」と手を差し出す。どうしてかクロノは返事をしなくて、動きもしなかった。
「せんぱい」と再度声をかける。
こちらを向いている、と思う。それ以上のことは分からない。目が合っている、ような気もする。
なんなんだと考えていると、クロノが動いた。
手が伸びてくる。何か持っているので、きっとあれが眼鏡だろう。ぼんやりとした視界でそれを眺めていると、ご丁寧に眼鏡を掛け直された。
視界の中を眼鏡の弦がすり抜け、レンズが目の前に現れる。ぼやけた景色がクリアに移り変わる。
その正面にクロノの顔が、はっきりと見えた。顔にかかる前髪の色、睫毛の色、瞳の色、虹彩の形。全てくっきりと見えた後、またぼやけた。
近すぎて何も見えなくなった。
再び焦点が合うのは、クロノの顔が遠ざかって行った時だった。
閉じたまぶたを開け、その隙間から視線がこちらを射抜くのが見えた。
「え?」

今、唇に何か。