二律背反

(クロジュリ)

 

 
ドアを控え目に二度ノックする。
返事がない。
更に三度ノックする。
こげ茶色の木目が美しいドアの前で首をかしげた。なんの音も内側から聞こえてはこない。静まり返った呼吸のように穏やかな気配がする。
真夜中の廊下をひやりとした風が足元を吹いていく。外に面した窓ガラスから、月明かりがちかちかと漏れてくる。青い夜闇が影を作り、石の床に長く細く伸びていく。
ドアノブを回すと鍵は掛かっていなかった。カチャリという音に誘われて、手前に引く。中からランプの明かりが漏れ出てくる。
「せんぱい、いないんですか」
声を掛け、ドアの隙間から中を覗き込む。いつも座っている仕事用の椅子には誰の姿もなかった。けれど明かりは煌々と付いている。誰も居ないとは思えない。明かりを消し忘れて部屋を出るようなタイプでもない。
ブーツの裏を浮かせ、足を一歩、敷居を越えさせる。
コツンと足音が立つ。
静かな呼吸音が近くから聞こえてきて、視線を落とす。
ソファに横たわる影があり、それが探している人だった。肘置きに頭を乗せ、反対の肘置きに足を乗せている。とても珍しく、だらしのない格好で眠っている。それも仕方がないか、とこの数日の彼の仕事量を思い起こす。
用があったのだが起こすことは躊躇われた。大した用でもない。こんな夜中に尋ねるものの緊急でない用事など、たかが知れている。明日の朝でも良いけれど、今日話したかっただけの程度のことだ。
寝顔を覗き込む。銀の髪がはらりと額に掛かっている。眼鏡は掛けられたまま。きっとすぐ起きるつもりだったのだろう。
どれほど前からこうしているのかは知らないが、呼吸は穏やかで、こうして近寄っても目を覚まさないところを見るに、それなりに寝入っているのだろう。
それにしても、起きないものだ。
いつだったか、眠っているところに近寄って、銃口を額に押し当てられたことを思い出した。あの時のひやりとした物理的な感覚と、肌の表面を強風のように撫で上げた悪寒を、まだ覚えている。死んでしまうのかと思った。毛が逆立つような感覚と、冷水を浴びせられひたひたと沈められるような圧迫感。
自分の身の上が知れてしまったかと、あの時命を覚悟した。
だが結局、なんだ驚かせるなと寝惚け眼で笑われたあの顔を見た時、死んだも同然だった。
名前を呼び掛けたくなる気持ちを押さえて、部屋のクローゼットを開ける。中には彼がいつも着ているコートと、シャツの変えが数枚かけてあった。それを押し退けて、仮眠用にと置いてある毛布を引き摺り出した。
ぱたりという音を立てない様にクローゼットを閉め、再び彼の方へ近寄る。毛布を広げ、そっと被せた。相変わらずの静かな寝息にほっと息を吐く。
すうすうと息を吸っては吐く彼に向けて、おそるおそる手を伸ばす。
眼鏡を外そうと思った。
外して、テーブルに避けておこう。そう思った。そうすると流石に起きてしまうかもしれないなという思いも、頭にはあった。起きて欲しかったのか、寝ていてほしかったのかと問われると答え難い。きっとどちらでもあって、どちらでもない。こっちを向いて欲しいし気付かないでほしい。返事が欲しいけれど知らないでいて欲しい。伸ばした手を握って欲しいし触れないでほしい。
いつもただただ相反する感情が連なっては何も言えなくなって、笑って陽気に誤魔化すしかない。
ソファの横に膝をつく。眼鏡の弦をそっと摘まみ、ゆっくりと外す。するりと抜いて、目を閉じたままの彼の寝顔にほっと息を吐いた。
そのつもりだったのだが、ぱちりと開いた瞳と目があっていた。
レンズを介さない彼の瞳が真直ぐにこちらを見ていた。寝惚け眼の視界の中に映りこんでしまっただけの様にも、しっかりと見据えられているようにも思う。結局よく分からない。
よく分からないまま、大事に両手で掴んだ眼鏡は離せなくて、襟を引っ張られて、慌てて片手をソファの背につくことが精一杯だった。
あぶないと言いたかった言葉は全く発せられず、半ば倒れ込んだ先、至近距離に睫毛の揺れが見えた。重ねられた唇は少し荒れていて、やっぱり疲れがたまっているんじゃないのかと見当はずれなことを思った。
視界には近すぎて見えない、彼の伏せた目が見える。襟を引かれていて首の後ろに圧迫感がある。唇には他人の感触があって、触れて、少し離れて、やわりと食まれて、開放するように離された。
何も状況が飲み込めないまま、はっと息を吸い込んだ。息を吸ったにも関わらず急速に苦しくなる。苦しくて頭痛がしてくる。
掴んでいた眼鏡を取り上げられる。クロノが眼鏡を掛け直した。
それを間近に見ていた。
「嫌ならきちんと拒め」
かけられた言葉が、いったいなんのことなのか、まるで分からなかった。
彼は見慣れたレンズ越しの視線を一度こちらに向け、直ぐに逸らすと起き上がった。避ける様に上体を逸らすと尻もちをついた。
彼がソファから立ち上がった。その奥でちかりと光るランプの明かりが眩しくて目を細める。
「拒んだって別に怒りはしないから、ちゃんと言え」
こつりという足音が遠ざかり、ぎいと椅子を引く音が聞こえてきた。いつもの執務机に座ったんだろうなと察する。ぺらりと書類のめくれる音がする。
音で察するばかりで、そちらを見られない。
体どころか眼球の動かし方すら忘れてしまったようだ。
最初に息の吸い方を思い出し、溜息のように呼吸をした。それから背中を支える筋肉の使い方を忘れて、床に座ったままソファに突っ伏した。
顔を覆う。呻き声が口から漏れそうになり、出せなくて、はくはくと唇だけが動いた。
何も言わなかったのをいったいどう思われただろう。万年筆を書類の上で走らせながら、今どういう顔をしているのだろう。何を考えているのだろう。何を考えて、いったい、どうして、ああいう。なにが、知られていて、なにを、知らないでいられているのか分からない。
かたかたと指先が震える。
う、という呻き声を飲み込んだ。
嫌じゃないですという言い方を知らなかった。なんでという尋ね方も知らなかった。いっそ怒ってくれる方が反応の返し方というものがあるというのに。
望んではいられないものをどうして与えようとされているのか、分からなかった。
拒む方法があるのなら、いっそ知りたかった。