真夜中のお客さん

(ジュリとブラッド)

 

 

今日は月の明るい夜だった。
空には雲一つない。ただ夜がどこまでも広がっていて、その隙間で星がちらほらと光っている。月は丸く眩しい。こんな夜中でも木々の影が遠くまで見渡せるほどだ。見張りをするにはなかなか、悪くはないシチュエーション。
本来の見張りの持ち場を離れ、ジュリエットは城壁の縁に腰をかけていた。見付かったらどうしてそんなところに居るんだと怒られるかもしれない。でもこの場所の方が圧倒的に景色いいのだ。見張る範囲は変わらないのだし、良いということにしよう。
しかし見晴らしが良いということは、遮るものがないということで、風が良く通る。
髪は風にあおられ、吐いた息は白く煙ってどこかへ流れて消えていく。じわりじわりと体温が奪われて少しずつ表面が冷えていく。けれど寒くて耐えられない、というほどではない。せいぜい肌寒いな、と思う程度だ。
静まり返った真夜中の城の屋上、城壁の縁、月明かりは目映い。やはり結構いい夜だ。
大きく息を吐きだせば、ふわりと白い息が煙り、風に乗り背後に向けて流れていった。
丁度その方向から、音も立てずに何かが近寄ってくる気配を感じた。誰も居ない筈の屋上にいつの間にか増えた気配。それが歩いてくる。
確かに歩いている気配がするのに、音は全く聞こえない。石の床を踏んで足音を立てないというのは、なかなかの技術だ。しかしそこまでしておいて気配を隠さないというのも、おかしなことだ。
何がしたいのかさっぱり分からない。隠れたいのか、気付かれたいのか。おおよそこちらを少しばかり驚かせたいが、警戒させたいわけではない、というような感覚なのだろう。どうしてか、ジュリエットの周りにはそういう少しの悪戯を働く人材が多かった。
一歩また一歩と確かに気配が近付いてきて、ついにとなりに並んだ。
顎を上げ、視線を流し、その人の顔を伺い見る。
赤い瞳が愉快そうにこちらを見ていた。
「来てたんですね」
声を掛けるとその人が「まあね」と頷いた。相変わらず装飾の多い服を着ている。それだけ着ていて音を立てないことは、いっそ恐ろしく思えるような気もしたが、きっと年の功なのだろうと勝手に納得する。
勝手に納得しなくては理解が及ばない言動をする人物が多いのだ。これも慣れだ。それにしても、どうして手にマグカップを持っているのかが気になった。これもよく分からないので、気付かなかったことにする。
「相変わらず暇そうですね」
「はは、まあね」
ブラッドは唇に緩やかな弧を乗せて「昨日も先程も似たようなことを言われたし、この城に居る者は私に手厳しいね」と言った。
穏やかで上品な笑い声が、夜の色に不釣り合いに転がる。彼の笑い声はどちらかというと、陽だまりの様な音をしているように思う。夜の生き物であるはずの吸血鬼に向けて、そんなことを思うのも変な話かもしれない。
「ってあれ、昨日から居たんですか」
「ああ。実は昨日の夕方に着いたんだが、その時君は居なかったね」
「夕方って言うとそうですね。でも今日はずっと居ましたけど見てませんよ」
「先程まで寝ていたんだ」
優雅に笑うのでなるほどね、と納得しそうになるが、それは丸一日以上寝ていたということではないか。「それはまあ、なんとも呑気なことですね」と若干呆れる。
「それも先程既に言われたよ」
「そりゃ誰でも言いたくなりますって」
「それがそうでもないんだよ、これがね」
何が愉快なのかはさっぱりだが、ブラッドは尚も笑っていた。唇を閉じたままくすくすと笑い、視線は空を眺めている。月明かりのせいであまり星は見えないが、彼の目にならばもっと細かい星々まで見えるのではないかと思った。
「まあいいですけどね、来たのが昨日なら」
「どうしてかな」
「見張りしてるのに、ブラッドさん来たの見逃してたとかだったら大失態」ですよ、という言葉尻を遮って彼は「ああそういえば」と彼は突如閃いた顔をした。こういった話の持っていかれ方をするのは何も初めてではない。今更気にはならないが、長く生きるというのはこういうことなのかと俄かに疑問になる。
そんなこちらの思考はつゆ知らずといった様子で、ブラッドは手に持っていたマグカップを差し出してきた。「目的を忘れるところだった」
「なんすか」とゆらゆらと湯気がなびいていくマグカップを見詰めながら尋ねる。
「差し入れだ」と言いながら半ば押しつけるようにそれを握らされる。掴んだ取っ手からじんわりと熱が伝わってくる。
「マジっすか。丁度冷えるなーって思ってたところなんで有難いです。わざわざ屋上にまで来てコーヒー飲むとか、風流なのか変な人なのか分かんないなとか思ってすんませんした」
「おや、そんな酷いことを考えていたのか。君が見張りをしていると聞いたから、気を利かせてもってきてあげたというのに」
「あはは、ほんと、大変失礼いたしました。ありがとうございますいただきます」
わざと大袈裟にお礼を述べ、そのままマグカップに口をつけた。
一口含んでから気付いたのは遅かったと思うが、中身はコーヒーではなかった。口の中がべったりと甘い。ブラックを想像していたものだから余計に甘く感じる。困惑のまま嚥下し、マグカップの中身を改めて覗き込めば、満ちていた色は真っ黒どころか真っ白だった。
「……あの、これ」
「ホットミルクだ。屋上は寒いだろうと思ってね」
「みたら分かるしお気遣いは大変うれしいんですが、俺が見張りしてるって聞いたって言ってましたよね」
「ああ」
「ホットミルクとか寝れない時に飲むものですね。知ってますかね」
「勿論」
「これ飲んだら眠くなるじゃないですか」
「それならば見張りを交代しよう」
「お客さんに見張り代わってもらったとか言ったら、俺めちゃくちゃ先輩に叱られますよ」
話が通じているのだか居ないのだか分からないなあと思いながら、二口目を口に含む。
眠くなるとは分かっていても折角貰ったので飲む。温かいし。そう簡単に眠ってしまう程軟弱でもないし。
それにしても甘いので、もしかしたらはちみつでもとかしているのかもしれない。本格的に寝かせるための飲み物ではないのか、これは。わざとではないだろうか、とちらりと見上げる。新手の嫌がらせなのでは、なとど勘ぐる。
見上げたブラッドはごくごく普通の表情をしていたので、多分なんの他意もないのだろう。
「しかしどうして君がわざわざ見張りなんてしているんだ」
「それは聞かなかったんですか。今日は人が少ないんで、俺くらいしか手が空いてなかったんですよ。っていうか、俺もたまには見張りとかしますよ」別段不思議に思うようなことでもないと思うのだが。
ブラッドはあっさりと「そうか」と頷いた。そしてまた空を見た。やっぱり見えない星を見ているのではないかと思った。赤い瞳が月明かりを取り込んでちかりと瞬く。長い前髪は風に煽られ揺れていた。
この人は何をしにここに来たのだろうか、と考えたのもまた、これが初めてではない。
彼はふらりと拠点にやってきては、数日滞在しまたふと居なくなる。なにか目的があってやって来ているようにも見えない。たまたま近くを通った知り合いの家を訪ねる様な気軽さでやってきて、そろそろ夕飯の時間だからお暇しようといった気軽さで帰っていく。
何か目的があるのかと考えるが、どうにも思いつく言葉の中では「遊びに来ている」が一番近く感じる。それ以外に何かあるのかも怪しい。
眺めている視線に気が付いたのか、ブラッドがこちらを見た。
「どうかしたのか」と彼が口を開く。「なんでもないっす」と答えた言葉は白く煙って夜の色に溶けた。
「そういえば、ブラッドさんは自分の分を淹れてこなかったんですか」
「ホットミルクの話ならば差し入れだからね、私の分があっても変だろう」
「そっすかね、変でもない気がしますけど。寒くないんですか」
「いいや」
さらりと答えられるとやはり、そういうものか、という気になった。
相変わらずジュリエットの口からこぼれた息と言葉は白く煙っている。なのにブラッドの口からは何も漏れては来ない。白い期の代わりに、唇を開くと時折ちらりと牙が見えた。
「俺まだ見張りの時間長いんで、もう戻ってくださいよ。ホットミルクありがとうございました」
「いや、もう少し居よう」
「気使わなくていいですって。見張り慣れてますし」
「そう邪険にせずともいいと思うのだが」と拗ねた声を出した割に彼の顔は笑っていた。「久々に誰かと話しをするんだ、もう少し付き合ってくれないか」
「久々なんですか」
「ああとても。今回は行った先であまり人と会わなくてね、まとまった話をしたのは前にここを訪ねた時以来だ」
「じゃあ結構な間ですねえ」
全く本当に、この人がどういう生活を送っているのだか想像がつかない。聞けば聞くほどよく分からなくなるような気もする。ここで見掛ける時は特に何もしていないし、外で何をしているかだなんて想像の外も良いところだ。
まあ、たまにはそれを尋ねてみるのもいいか、と思い立つ。
「ブラッドさんっていっつもどこに何しに行ってるんですか」
この質問に彼はどうしてか目を丸くして、考えるように顎に手を当てた。
ふむ、と唸る。何を考えることがあるのだろうか。それとも言えないようなことなのだろうかと想像だけが巡った。
空中に向け赤い瞳を二、三度左右にうろつかせた後、ブラッドがこちらに視線を落とした。
「単純な言葉で言えば旅行だろうか」
「うわ、ほんっと優雅ってか暇ですね」
「はは、今度お土産でも持ってきてあげようか。リクエストがあれば聞こう」
「リクエスト、すか」
そう言われても、どこに行くのか知らないのにリクエストするのも難しい。ぱっと閃いてはこない。まだ少しマグカップに残っていたホットミルクを煽りながら、ふと閃く。
空にしたマグカップを、ブラッドに向けて差し出す。
彼は不思議そうに首を傾けた。
「とりあえず、次はホットミルクじゃなくてコーヒーが良いです」