(クロジュリ)
「ここにサインしてくれ」
「はーい了解……って、あれ」
ペンを取り出そうと、手をいれたポケットは空っぽだった。
指先が布の感触しか伝えてこない。確かに胸ポケットに入れたはずなのだが、どこに消えたのか。違うところにしまったんだったかな、と別のポケットも探る。あれあれおやおやと、全身をぱたぱたと叩くがなんの感触もない。
コートのポケットを叩いたところで、やっと何か硬いものに指が当たった。「あった!」と手を突っ込むと飴玉が出てきた。
目の前の上司が真顔でずっとこちらを見ている。
ああ視線が刺さる。
自分と彼の間には執務机。その上には書類と書籍の山。こちらに向けて差し出されている、サインしろと言われた紙切れが一枚。
クロノが真顔な事が怖い。何を考えているのかさっぱり分からない。指で摘まんだ飴玉のやり場が分からない。
なんだそれはふざけているのか、という真顔なのか、呆れているのか、なんで飴玉なんだという疑問の真顔なのか、全然判別できない。
困ったので取り敢えず笑ってみる。にこりと笑みを向けるが、彼は机の上で手を組んだまま、表情をぴくりとも変えなかった。
「えーっと、たべます?」とためしに尋ねてみる。
甘い物は嫌いではなかったはず。というか嫌いな食べ物はあるのだろうか。なんでももくもくと食べている印象だ。甘い物も辛い物も苦い物も、食べられるならば食べるというスタンスな気がしなくもない。
それはさておき、問い掛けに対するリアクションは皆無だった。
そんな事はいいからさっさとサインをしろ、という顔に見えてきた。そろそろ拳の一発や二発飛んでくるのではないかと予想して震える。しかしやはり、飴のやり場が分からない。まあ素直にポケットにしまえばいいのだろうけれど、と思いながら包みをあけた。
執務机に手を付いて身を乗り出し、飴を摘まんだ手を彼に向けて差し出した。
どうしてこう、あえて要らない冒険しているのだろう、という疑問は付きまとっているがここまで来たら今更だ。
筆記用具を忘れ続けること早七回目で、そろそろ本格的に怒られそうだからどうにか誤魔化したい、という気持ちがないではない。それにクロノは割と冗談には乗ってくれる方なので、どうにかなるのではないかという期待が少し。
飴を口元に近付けると、彼の視線がそちらに移った。そしてぱくりと食べられた。直接。手から。
実はこれは、予想していなかった。やっぱ要らないですよねえ、と言って自分で食べる予定だったのだ。指先に柔らかな感触があるとは、思ってもみなかった。
再びクロノの視線が正面に戻ってくる。
多分、いや間違いなく自分は間抜けな顔をしていたと思う。
「ペンを忘れたのか」
「あっ、はい。すんませんでした……」
「これで何度目だ。お前には学習能力がないのか」
「ポケットに入れたはずなんですけどね、消えました」
「お前のポケットはペンが飴玉に変わるのか」
「みたいっすね」
頷くと頭を叩かれた。
全く痛くはなかったが、叩かれた箇所を押さえる。「わーひどい、先輩が暴力振るったー」ととぼけることすら忘れた。
先程からぽかんとした顔のまま表情を戻せない。飴玉の下りをスルーされ、どうしてここで怒られたのかさっぱり分からない。そして今更、じわじわと指に残る感触が脳内を侵食してきていた。頭を押さえた手の、人差し指の、指先がぴりぴりする。
クロノの口からカランという、飴が転がる音が聞こえてきてどきりとした。
続いて吐き出された大きめの溜息に、今度は体がびくりとする。背筋を伸ばして両手をぴたりと体の横につける。
「ほら」
「ごめんなさい罰則の掃除当番は勘弁してください!」
「何を言ってるんだお前は。これを貸してやるからさっさとサインしろ」
「えっ?」
驚いてクロノを見れば、その手から離された万年筆が机の上をころころと転がってきた。
それを拾い上げながら「罰則は無しっすか」と尋ねると「期待に応えてやろうか」と言われたので丁重にお断りした。
さらりとサインを書き込み、書類と合わせ万年筆を返そうと差し出す。何故か書類だけを指から抜き取られた。
「万年筆は今日は貸しておいてやる」
「でもこれ、先輩いっつも使ってるやつじゃないですか」
「予備があるから問題ない」
「これ高そうですけど」
「だから無くすなよ」そう笑い、クロノが万年筆のキャップを投げて寄越した。
部屋に戻り、コートを脱いだ時にポケットからそれが転がり出てきた。あの後使うことがなく、すっかり存在を忘れていた。
ころころとカーペットの上に転がった万年筆を拾う。
椅子を引き腰掛けると、机の上の書類の束から適当な要らない紙を引っ張り出した。
万年筆のキャップを外し、さらりと線を引く。どう考えてもそのへんに沢山あるようなペンとは書き味が違う。いったい一本幾らするのだろうとまじまじと眺める。こんなものを部下に貸していいのだろうか。
しかしきっとそれは些細なこと、なんだろうと思った。
それも、これも、些細なことなのだろう。彼にとっては。
仲間に優しい部下に甘い。そうやって彼から何かを与えられた人たちがいったい過去に、彼の人生の時間の中に、どれだけ居たのだろう。
「こんなの簡単に貸さないでくださいよ」と呟いた言葉が部屋の壁に当たった。
あんまり、面白くない。
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#短い話が書きたいのでCPと一文を指定されたい→「きっとそれは些細なこと」