(クロジュリ)
体の全てをソファに預け、膝の上の分厚い本のページをめくり始めてどれくらい経っただろうか。
緩やかに蓄音機から流れてくる音楽は、気付けば全く知らない曲に変わっている。ランプの光がちかりと部屋の中で揺れた。
同じ体勢で座り続けることに疲れ、一度本にしおりを挟んで閉じる。ぐっと両手を上げ、体を伸ばせばくあと欠伸が漏れた。
時刻は十一時。夜更けもいいところだ。
片足のブーツのかかとを蹴飛ばして脱ぎ、足をソファの上に引き上げる。その膝の上に本を乗せ、読書を再開した。
古びたページには味わいがあって、中に書かれた物語は意外と面白い。これはクロノの部屋から拝借したものだが、彼の持ち物としては珍しく幻想小説だった。不可思議なことが面白おかしく、時に悲しく書いてある。
残すところ数十ページ。物語もやっと佳境に差し掛かっていた。背表紙で殴ればそれなりの凶器になるほどに分厚いものだから、読むのに随分と時間がかかってしまった。既に一週間以上は読んでいるはずだ。しかしこれはまだ上巻で、他に下巻どころか中巻もあるのだというから驚きだ。先は随分と長い。楽しみが続くことはいいことだが、この後二冊分もいったい何が書き連ねてあるのだろうか。
若干うとうととしながら文字を追っていると「おい、ロウ」と呼ぶ声が聞こえてきた。すっかり耳に馴染んだ声が届く。ぱちんと目が覚める。顔を上げ、横を向く。
声をかけてきた張本人は、こちらを呼んだにも関わらず背を向けたままだった。壁際にある机にかじりついていて、ここからでは背中しか見えない。それも一時間ほど前に見た光景と寸分違わない。全く動いていない。
呼んだのだから振り返るくらいしてくれてもいいのに。もしかして空耳だったのではと思い始めた頃、次の言葉がゆるりと続いた。
「今更だとは思うんだが、お前はどうしてここで本を読んでいるんだ」
「すっごい今更じゃないですか」
「だから、そう言っただろ。執務室ならまだしも、どうして俺の書斎でそう長い間くつろいでいるんだ。もう遅い時間だぞ」
それはそうなのだが、本当に今更だ。
ここを訪ねたのは九時頃だったと記憶している。少なくとも既に二時間は居座っているのだ。
どうして書斎の方を訪ねたかと問われれば、クロノが執務室に居なかったから、というだけだ。
ひと気のない真っ暗な執務室を覗いたあとでこちらへやって来た。ドアをノックすると「開いている」と短く言葉が返ったので、これは入ってもいいということだなと解釈して「お邪魔しまーす」と部屋に踏み込んだ。それ以上特に何も言われなかったし、問われなかったので、真直ぐこのソファを目指して部屋を横切り、どかりと座り本を広げ、今に至る。
忙しさのあまり大してジュリエットのことを気にしていなかったのだろう。最初の一言以降全く言葉は発せられず、ただただペンが書類を滑る音と、本のページを捲る音だけが響いて来ていた。余程集中していたと見える。
そして仕事が一段落したので、やっとこちらに気が回ってきたのだろう。
それにしても私室に戻ってまでそんなに仕事をしなくても、と思う。クロノが私室に戻って仕事をしている時は、大方直ぐ眠れるようにしている時だ。寝落ちするギリギリまで、誰にも邪魔されずに仕事をする気でいる時だ。ある意味執務室で仕事をしている時より性質が悪い。
もうちょっと休めばいいものを、と小さくため息が零れた。それを耳聡く聞いていたクロノが振り返ってこちらを見た。
目があったのは、今日はこれが初めてだ。
「それで?」と先程の質問の回答を促された。どうしてここでくつろいでいるか、だったな。
どう返事をしようか少し考えてから、へらりと笑う。
「先輩のこと好きなんで、一緒に居たいなあって思いまして」
「それで?」
「……やだなあ、もうちょっと会話のキャッチボールしてくださいよ」
「それが本気なら聞いてやらんでもないがな」
小馬鹿にしたように鼻で笑われた。
軽い冗談なのだから、もう少しのってくれてもいいのに。だが今のはどちらの意味だろう。冗談で誤魔化したことを言っているのか、くだらないことを言うなという意味なのか。どちらにせよ心臓に悪い。自分でまいた種なのだけれど。
肩をすくめ、それから膝の上の本を叩いた。
「これがもう直ぐ読み終わりそうだったんで。ここで読んでたら直ぐ続き借りれるじゃないですか」
「なるほどとは言い難いが、まあいいだろう」
「これの続きってこの部屋にあります?」
「ある。その棚だ」
「じゃあ先に借りてもいいですか。帰るまでにこれ読んで、ちゃんと戻すんで」
「まだ居るのか」
「先輩だってまだ寝ませんよね。だったらいいじゃないですか、邪魔はしません」
「……ちゃんと戻せよ」
「了解っす」
残り数ページの位置にしおりを挟み、本を閉じる。パタンとほこりっぽい音がたつ。
ソファから立ち上がると、先程少し伸ばしたとはいえ所々体が痛んだ。首をぐるりと回す。腕を伸ばしたり肩を回したりしながら移動し、先程クロノが指差した本棚を覗き込む。
書斎というだけあってここには本棚が沢山あり、どの棚にもぎゅうぎゅうに本が詰まっている。文献から辞書に図鑑、こういう小説まで。それなりに分類されつつも所々雑多に押し込まれている。几帳面そうなのに同じシリーズの本が別の棚に混じっていたりするのは、忙しくて整理する暇がないからだろうか。あとはジュリエットが適当に戻した物もあった。それは気付かれる前にこっそり並べ直しておく。
目的の本を探し、棚の前をうろうろとしていると「あまりいじるなよ」と俄かにたしなめるような声色が飛んできた。
「なんですか先輩。見られたら困る物とかあるんですか。あっ、もしかしてやましい本とか?」
「そういうものじゃない。お前のために言ってるんだ、目的の本を見付けたらそれ以外触るな」
「なんすか俺のためって」
そう言われると、むしろ気になる。
何も本気で、ここでただ本を読んでいた訳ではないのだ。調査だとかそういう名目だってある。ここはクロノ個人の書斎だ。何かしら隠されていてもおかしくはない。
そういうものも探している、探しているのだ。ただ背中を眺めながら本を読んでいるだけではなない。まあ今晩は何も見付けられなくてもいいかという気持ちも、ない。一応。
「それにしても凄い本の量ですよね。集めるのにどれだけかかったんですか」
「この部屋に元からあったものもあるから、そう多くはないぞ」
「元から?」
「元の持ち主の物だ。おいだから、あまりいじるなよ」
「はいはーい。あ、これ向こうに上巻ありましたよ、なんで下巻だけこっちの棚にあるんすか。ちょっと適当すぎません?」
「おい待て、それは触るな」と、強めの語気でとがめられた時にはもう、その背表紙を引っ張り出していた。
だが半分ほど引いたところで本が何かに引っ掛かる妙な手応えがあり、ガコンという音が本棚の中から聞こえた。
「えっ」
そして突如浮遊感に襲われた。
次の瞬間には視界が消えた。
落下する感覚と、真っ暗になる視界。
「うそ!」と叫んだ声がやたらと周りに反響した。
落下した距離はそう高くなかったが、思い切り背中を打ち地味に痛い。しかしそれで終りではなく、落ちた先のつるりとした床には急な角度がついていて、勝手に体が下へと滑っていく。「なにこれ!」と叫んだ声もまた派手に反響した。
滑る体を止めようと試みるが、床に手をついても何の引っ掛かりもない。掴まることの出来る場所を探そうにも真っ暗で何も見えない。
声の反響や手を伸ばした感触からして、そう広い空間ではないようだ。ダクトみたいなものだろうか。
先程の本を引っ張ったことで何かの仕掛けが作動し、突如床が開き、このダクトに落とされどこかへ流されていっている、ということで間違いないだろう。まあ落ちる直前に一瞬見えたクロノの顔がそこまで焦っていなかったので、きっと命に係わる様な物ではない、と思う。多分。
だがどこへ続いているのだろうか。
それとは別に気になるのが、どうしてクロノの部屋にそんな仕掛けがあるのかということだ。
ほぼ間違いなく対侵入者用なのだろうが、そんなものがあるとは全く聞いていない。もしかしてあの本棚の奥あたりに何か大切なものが隠してあって、それを暴かれないようにするためのこの仕掛けなのだろうか。だから知らされていないのか。
なんて考えていたら、突如床が消え宙に放り出された。
なんとか受け身を取ったは良いものの、着地と同時に大量のほこりが舞い上がったため惨事だ。体を起こしながら袖口で鼻と口を覆い、目をつむる。けほけほと咳が出た。煙たい。埃っぽいどころの騒ぎではない。少し吸い込んだだけなのに、口の中がじゃりじゃりする。いったいなんなんだここは。
埃が落ち着くのを待ち、ゆっくりと目を開ける。暗いがどこかに明かりがあるらしく、先程までのような全くの暗闇ではなかった。目が暗さに慣れたこともあり、ぼんやりと景色が見える。
ここは四角く小さい部屋らしい。正面には鉄格子が見えるので、ほぼ間違いなく牢屋だろう。そして落下の時間から考えるに、きっと地下だ。地下牢があるなんて知らなかった。まだまだこの拠点について知らないことがあるものだ。はあと溜息が零れる。
鉄格子に近寄りじっと観察すれば、一部は開閉できるようになっていた。だが勿論鍵がかけられている。鉄格子を掴み軽く揺すってみるが、びくともしない。これほど埃が蓄積する程放置されているはずなのに、あまり痛んではいないようだ。体当たりをして破る、というのは難しそうだ。
これは、とても純粋に困った。
ためしに「誰かー、いませんかー」と声を張り上げてみる。だが声が反響しこだましただけで、何の反応も返っては来なかった。当たり前か、と項垂れる。声を出して反応するくらい近くに誰か居るくらいなら、この地下牢の存在を知らない訳がないし、こんなに埃が積もったりもしていないだろう。
ためしに「せんぱーい」とも呼んでみる。「せんぱい、クロノせんぱーい」
これにも勿論反応はない。けれどクロノがこの罠と地下牢のことを知っているならば、探しには来てくれるだろう。
それにしても、罠にはまった、と改めて思うと何とも情けない気持ちになる。
こんな易々、あんな単純な罠にはまるなんて。けれどクロノの部屋に罠があるとは思わないじゃないか、仕方ない、これは避けられなかった。仕方がないのだ。絶対にそうだ。
しかしもし、彼が探しに来てくれなかったら自分はこのままここで一人餓死するのではないか、と考えると薄ら寒い気持ちになる。それでなくても、中途半端に二三日放置、というのも嫌だけれど。
だがもしも、もしも既に自分の素性が彼に知れていて、このまま、という考えも頭をよぎる。何かボロを出した覚えはないが、相手が相手だ。絶対大丈夫、とは言い切れない。
まあ考えても仕方がない。クロノが来てくれることを祈り、牢の隅に寄りうずくまる。目を閉じる。幸い寒くはないので、眠ってしまっても大丈夫だろう。いざという時のために体力を温存しておくとにしよう。
それからどれほど経ったか分からないが、ふと物音が聞こえた。
ぱちりと目を開く。息を殺し耳を澄ませば、遠くの方で重たい扉を押すような鈍い音が一度、それから少し間をおいて、規則正しいカツンカツンという音が聞こえてきた。
それが足音だと気付き顔を上げる。埃が舞わない程度に跳ね起きて、鉄格子を掴み外を伺う。先程までなかった明かりが遠くで揺らめいていた。
「先輩!」と叫ぶ。返事こそなかったが、溜息のようなものが聞こえた気がした。
少しずつ足音と明かりが近付いてきて、ランタンを片手に持ったクロノが随分呆れた顔で立っている姿が見えた時、妙に安堵してうっかり泣きそうになった。
というと流石に大袈裟だが、飛びつきたい気持ちにはなったので、鉄格子の間から片手を差し出した。
「せんぱいー」
「だから言っただろう。あまりいじるなと」
「すいませんでしたごめんなさいだいすき早く開けてください」もうこんな埃っぽいところ嫌です、と早口で言えば深々と溜息を吐かれた。
クロノがポケットから鍵の束を取り出し、牢の鍵を開けてくれる。カチャンという軽快な音が立つ。蝶番の錆びついた音がして、扉が開いた。
鉄格子をくぐり外に出ただけで、随分と開放的な気持ちになった。ほうっと息が零れる。そして飛びつきたい衝動が持続していたので、クロノに向けて両手を伸ばす。しかし残念ながら「ほこりっぽいから寄るな」とあっさり避けられた。
「えーひどい。っていうか、ここなんですか。何で先輩の部屋の床に罠とかしこまれてるんです」
「あれは元からだ。この城はあちらこちらにああいう仕掛けがあるんだよ」
それは初耳だ。もしやここはからくり屋敷なのか、と目を丸くしているとクロノが歩きはじめたので、慌ててとなりに並ぶ。
歩きながらランタンの明かりを頼りに辺りを見渡せば、この通路の両脇に先程までジュリエットが入っていた牢と同じものが並んでいるのが見えた。振り返った先にもまだまだ続いている。もしこの地下牢が、城と同じ幅だけあるとしたら相当な数だ。ぞわりと鳥肌が立つ。
「もしかして、この牢と同じ数だけ罠が?」
「いや。同じ牢に出る仕掛けもあるから、仕掛けの数はもっと多い」
「マジすか……聞いてないんですけど」
「教えていないからな」
「そういう大事なことは教えておいてくださいよ。教えてくれてたら、落ちなくて済んだのに」
「俺は一応忠告してやったぞ」
「そうですけど……。あっ、もしかして本当は全部把握してない、とかですか?」
そう尋ねると、意味ありげな視線を寄越された。少しからかったつもりだったのだが、クロノの口元は笑っている。これはどういう笑みなのだろうか。見詰めていると、視線が逸れ前方に向いた。それから気持ち楽しそうな声が、牢の壁に反響した。
「この城を拠点にすると決めた時にそれくらいすべて調査済みだ。あたりまえだろ」
「なんだ、把握してるじゃないですか。だったらもっと周知しておいてくださいよ」
「仕掛けについては知ってる者もいるぞ」
「俺は一個も知らないです……あっ、さっき先輩の部屋のは知りましたけどね、身をもって」
「あれでも侵入者用の罠だからな。全員に知らせているというわけでもない」
「えー、もしかして俺信用ないんですか」
ためしにそう言ってみる。口を尖らせながら軽口を装って。
仕掛けが城中にあるというなら、あまり歩き回って変な場所に踏み込むのは危険かもしれない。どこかに重要な機密に繋がる場所があって、そこに立ち入ると罠にはまったりするかもしれない。牢と罠が繋がっているのだから、落ちた場所によっては言い逃れが出来ないようなものもあるのかもしれない。
だからまだ、教えられていないのではないか。なんて考える。あり得ない話ではないと思う。
クロノの表情を伺えば、先程と変わらず笑っていた。「なんですか」と更に問えばふっと吹き出すように笑った。
「心細そうな顔をしているのが面白くてな」
「先輩ひどい。あとそんな顔してません」
「面白いからお前にはまだ内緒だ。心配するな、命にかかわるような罠は撤去してあるから、はまったところで死ぬことはない」
「それって、初めは死ぬようなやつもあったってことですか」
「まあな。全く酷い目に遭ったものだ」
「……先輩もはまったんですね」
「調査したと言っただろ」
「そんな体当たりだとは思いませんでした」
「見取り図も何もなかったんだ、仕方がない」
何を思いだしているのか分からないが、笑みをひっこめて眉間にしわを寄せた。その、調査中のクロノが罠にはまる姿を思い浮かべると可笑しかった。笑っては怒るかなと思い、その感情は心の中だけにとどめておいた。
そうこうしているうちに、半開きになった分厚い扉に辿りつく。そこを越えると、見慣れた明かりが差し込んでくる階段に出た。
「ここを上がると城の中だ」
「はー戻って来れて良かった」
「それにしても明るいところで見るとロウ、お前本当に汚いな」
「ほこりが凄かったんですよ。あの地下牢どれくらい使ってないんですか」
「十年単位でだろうな」
「うわあ」
通りで、と服についた埃をはたくとクロノに頭を叩かれた。「やめろ、ほこりが散る」
「でもじゃりじゃりして気持ち悪いんですよ」
「外に出てから、せめて俺と別れてからにしろ。ほこりっぽいのがうつる」
「……俺今めちゃくちゃ先輩に抱き着きたい気分です」
「もう一度地下牢に行きたいのか。今度は迎えに行ってはやらないぞ」
「やっぱやめます」
冗談なのに。そうきっぱりと断られると、なんとなく悲しいような気がした。
しゅんと頭を落としてみせると、となりからため息が聞こえてくる。ぱたぱたと手を叩く音が続く。頭を叩いた時に手に付いたほこりを払っているな、と察する。
全く、優雅にクロノの部屋で読書を楽しんでいただけなのに、どうしてこういうことになったのだか。どっと疲れたし、ほこりっぽいし。
ため息が漏れる。
「本の続きは出しておいてやったから、シャワーを浴びたら取りにこい」
頭上から降ってきたその声に、ぱっと気分が明るくなった。
それから、自分も随分単純になったものだと、少し呆れた。