(クロジュリ)
「ほ、ほんとにするんですか」
おっかなびっくり揺れる声で尋ねると、現在頭一つ低いところに居るクロノの目がじろりと見上げてきた。
白い髪の隙間、眼鏡のレンズ越しに黒い瞳が半ば睨むように、それでいて呆れるように見詰めてくる。顔を寄せられると眼鏡の縁がカチリと音を立てた。そんなに近寄られては何も見えない。
そろりと視線を下に逸らせばクロノの足と、その上に乗っかっている自分の体が見えた。ああどうしてこんなことに。
「お前が誘ってきた癖に、何を言ってるんだ」
「そーですけど」
そうでしたけど。夜更けにクロノの私室を訪ねて、冗談半分で誘ったのは間違いなくジュリエットなのだけれど。
ただ別に、それが目的で部屋を訪ねた訳ではなくて。読んでいた本が丁度読み終わってしまって、眠るには少し早くて、その本がクロノから借りていた物で、続きはクロノの部屋にあるわけで。
クロノが顔を引き、離れる。と言ってもソファに背を預けただけなので、そう遠ざかりはしない。ジュリエットの腰に回しているのと逆の手で眼鏡の弦を掴むと、乱雑に外しそばにあるテーブルに置いた。テーブルの上には分厚い本の山と小瓶と、中身の入っていないマグカップがあった。
眼鏡を外しても、クロノの視線に変化はなかった。あまり目が悪くないのだろうか。どうだろう。これだけ近ければ関係ないのか、それとも見えないということにも慣れていて気にならないのか。視界の悪さに目を細めるような仕草はなかった。
再びじとりと見上げられ、そしてジュリエットの眼鏡に手が伸ばされた。自分のそれを外した仕草とは打って変わって、丁寧に外される。
ぼやけた視線でぱちりと瞬きをする。少しほっとして息を吐いた。
目の前のクロノの顔も、あまりよく見えない。正直これほど近い距離で、あの綺麗な顔を眺めていることは心臓に悪かった。こちらを見られる度、視線を合わせられる度、指先が痺れるような落ち着かなさを感じて仕方がない。ありふれた恋慕みたいな思いが、じわりと心臓から滲み出て体中に回る様な、そんな思いをすることがあるなんて考えてもみなかった。
なんの障害物もなくなったところで唇を合わせられる。押し付けるように触れ、離れると舌を差し入れられる。
「ん」と鼻にかかった吐息が零れる。わざとらしく立てられる水音が耳に届く。
踏んだ場数は知れないが、流石に何千年も生きていると上達もするのだろうなあ。なんてことで思考を誤魔化した。与えられる感触は心地良いを通り越して、じわじわと欲を煽られる。唇がふさがれていなかったら、深々とした溜息が漏れそうだった。
酸素が足りなくなって来た頃に唇が離される。は、と息を深く吸い込んだ。
「見えてるか」と不意に尋ねられ、返事が出来なかった。なんの話だろう、とぼんやり思っていれば「目だ」と言われた。
瞬きをした先で、クロノの瞳がじっとこちらを見ていた。良くは見えないけど。
「んーあんまりですね」
「どれくらいだ」
「先輩の顔は分かりますよ」
ぼかして答えれば小さく嘆息された。
どうして今、視力の話をされているのだか分からない。こういう時はよく見えないくらいの方が都合がいいのだけれど、なんて。見えなければうやむやになることもある。とはいえクロノの顔が見たくない訳ではないので、少し惜しい気もする。それでもはやり、見えない方が気楽だった。
「せんぱい?」と未だ難しい顔をしている、ように見えるクロノに向けて尋ねる。
不意にジュリエットの眼鏡が戻された。耳の横を滑る弦の感触があり、視界が鮮明になる。
眼前にクロノの顔がはっきりと見えた。「あ」と息を詰まらせると頬に口付けられる。そして耳を食まれる。視界の端で黒い獣の耳に揺れる、金色のピアスが見えた。べろりと耳の輪郭を舐めあげられ、背中では大きい掌が背骨を数えるようになぞっている。
「う、んん……あ、の眼鏡、外したいんですけど」
「駄目だ」
「あっ、わっ。ちょっ、と! 何でですか」
顔の上を滑る唇の感触が首へと滑り降りてくる。手はシャツの裾から潜り込んで素肌に触れる。唇は下がってきて、掌は上へと迫ってくる。胸をやわやわと撫でてくるクロノの手が視界の下の端に映る。逸らすように首を捻り、喉を晒すとそこに噛みつかれた。
「んあっ、もー、だからあ!」
眼鏡! と叫ぶと、喉に触れていた歯が柔らかく刺さった。びくりと肩が跳ねる。立てられた歯の隙間をべろりと舐められる。
外してくれる気はないのだと判断し、自ら手を伸ばす。早く外したい。この際床に投げ捨てることになっても良いから、早く。
なのに途中で手首を掴まれ制止された。「あ、なに」とこぼすと引き寄せられ、掴まれた手の親指の付け根をがぶりと噛まれた。それからねっとりとてのひらを嬲られる。
「あ……あ、の……先輩」
「眼鏡はしてろ」
「どして、邪魔じゃないっすか」
指の付け根に歯を立てられ、指全体を舐められくすぐられる。じわりじわりと熱を上げられる。与えられる感触もだが、視界の暴力が凄まじい。クロノの唇の隙間から見える歯が、舌が、ジュリエットの性感を指の先から煽ってくる。見ていられない。
視線を逸らす。肩に頬が触れる程顔を背けたところで、それでも視界の端にどうしても姿が映る。
与えられる感触がふと止まった。
そろりと視線を戻すと、クロノが意地悪そうな顔をしているのが見えた。
「ちゃんと見ていろ」