(クロジュリ)
ぱちりと瞬きをした先に広がっていたのは、長い石造りの廊下という景色だった。
廊下の端は果てしなく遠くで滲んでぼやけ消え、見えなくなっている。等間隔に並ぶ四角い窓にはまった硝子は透明だ。月明かりの青色が建物の中へと導かれている。切りそろえられた石の床と壁は、灰色にも透明にも銀色にも見える。その色が、廊下が消えるその先まで続いて見える。
何をしていたんだろう、という疑問よりもほんの少し早く「寒い」という感覚が体の全て覆った。
「さむい」
口に出した言葉もひやりとしていた。冷たい廊下にころりと落ち、僅かに反響して消える。
さむい。
見れば自分は寝間着姿だった。ゆるりとしたシャツとズボンはどちらも薄手で心許ない。その中でも石の床に触れている素足が一番冷たかった。靴も何も履いてはいなかった。足の指、踵、足裏の皮膚が、つるりと冷たい床を踏んでいる。
はぁ、と吐きだした息は白い。僅かに口を開けば寒さでカチリと歯が鳴った。てのひらで体を摩るが、そのてのひらも冷え切っていて話にならない。
さむい。ただ、寒い。
青く透けて遠くへ消える廊下の姿が、妙に冷たくて心許なくなる。足元を冷たい風が抜けていくような心地がする。
感覚が薄らいでいく足先を動かし、歩き出す。戻ろう。帰ろう、せめて。
どっちだっけ、と悩みながら前へ進んだ。何に悩んだのか、歩き出すと忘れてしまった。鮮明な景色に相反して、何か曖昧だ。
ぺたりぺたりと歩いていくと、明かりの漏れてくる扉が遠くに見えた。明かりは淡い橙色をしていて、とても暖かそうに見えた。
引き寄せられるように近付いて、その扉の前に立つ。扉は少し開いていた。そのせいで明かりが漏れてきていたようだ。
鈍色をしたドアノブを掴み、引いて、開ける。
景色がするりと暖色に包まれた。茶色の絨毯、煉瓦でつくられた暖炉の色、暖炉で燃える炎の色、チェアの木目の色。
ぱちり、と炎の爆ぜる音が聞こえた。
チェアに座っていた白い人影が動き、こちらを向く。
「せんぱい?」
声はふわりと漂って、彼に届いた。
レンズ越しに黒い瞳がゆるく瞬いて、俄かに呆れた様子を乗せて細められた。
「何してるんだ」
「え、っと」
「取り敢えず入ってこい。寒いだろうが、ドアを閉めろ」
「元から開いてましたけどね」
こちらに向けて揺らされる指先に呼ばれ、敷居をまたぎ扉を閉めた。
彼は先程の言葉を最後に視線を逸らしてしまって、こちらを向いてはいなかった。横顔だけが見える。白い横顔が、暖炉の炎に淡く照らされ柔らかな色に滲んでいる。
「こっちへ来い、そんなところに居ても寒いだろ」と今度は声だけで招かれた。
素直に近付いていけば、裸足の足裏が絨毯を踏む。柔らかい。温かい。ふわふわと踏み、そばへ寄ると立ち止まり、そばに座った。
彼は一人掛けのチェアに座って、本のページを捲っていた。膝に乗せた分厚い辞書のような本。古ぼけた見慣れない文字がびっしりと並ぶ本。
「何も床に座らなくても良いだろ」
「床以外は先輩の膝くらいしか空いてないですもん。それも本が乗ってますけどね」
へらりと笑って膝を抱える。
直ぐ前で暖炉の炎が燃えている。ぱちりぱちりとはじける。そこから零れる橙色の明かりがじんわりと部屋全体を包んでいる。ちりちりと暖かい。
炎の揺れを眺めていると、衣擦れの音が頭上から聞こえてきた。見なくても誰が動いたか、なんて知れていたのでそのままでいる。音がゆるく近付いてきて、首筋を撫でた。温かい指先が温度を確かめるように、撫でる。
くすぐったくなって、その手を掴んだ。触れた指先の熱に、自分の手の冷たさを思い知った。
「冷えてるな」
「……外に、居ましたから」
「そんな格好でうろつくからだ」
呆れた声色で吐き出された言葉の割に、表情はとても柔らかかった。暖炉の炎に照らされているせいでそう見えるのだろうか、なんて思う程に。温かそうで優しそうで、それからどうしてか少し、淋しそうな顔をしていた。
握った指先を離すと、逆に掴み返された。手首を掴まれ、くんと引かれる。いつの間にか彼は膝の上の本をどこかに片付けていた。
問答無用で引っ張り上げられ、連れていかれた先は彼の腕の中だった。必然的に膝の上に腰を下ろすことになる。
「え」と驚いた声を漏らしている間に、背中に毛布が掛けられた。先程まで彼が羽織っていたはずのものだ。瞬きを二つする程度のほんの短い時間の間に、魔法のように仕草が流れていく。
毛布と彼にくるまれる。毛布ごと温めるように抱き締められ、身動きが取れなくなる。ぴたりとくっつく。肩口に顔を埋めるには身長差があって届かない。もぞりと体を動かせば、直ぐ横に白い髪と黒い獣の耳が見えた。
「こうしていれば温まるだろ」
淡々とした声が、触れているところを伝って届く。火の爆ぜる音が、背中から聞こえてくる。背中を毛布と暖炉の熱とでじりじりと温められる。
正面からは彼の高い体温が伝わってくる。シャツ一枚の薄いへだたりしかない。そばから聞こえるとくりとくりという心音が、果たしてどちらの物なのか知れない。あまりに、静かな音をしていた。
「先輩、体温高いですね」
「長く暖炉にあたっていただけだ」
「そうですか」
背中を一度撫でられる。暖かい手の動きが心地よい。
自分の両手のやり場はどうにも分からなくて、引き寄せられた時のまま固まっている。今更動かせもしない。
けれどもう少しだけ、近付きたい気がした。これだけぴたりと重なるように触れ合っているのに、これ以上どこへ、どう近寄れるのか分からない。
は、と息を吸い込む。少しだけ冷たい空気が、肺へと流れてきた。
少し悩む。考える。それから、視線を送る。相手に届かない視線を密やかに。
そして獣の耳に顎を乗せ、顔を寄せた。
ごほっ、と咳き込む音で目を覚ました。
次に襲ってきたのは途方もない苦しさで、無意識に支配されたまま体を丸めて大いに咳き込んだ。咽た空気と一緒に、幾ばくかの水が口から零れて出て行く。
苦しさに目をつむりただ咳き込んでいると、つめたい掌の感触が背中をさすった。ぽんぽんと息を落ち着かせようと手が触れる。けれど体を包んでいる衣服は全て濡れていて、それ越しに触れられるのは、あまり気持ちが良いものではなかった。
それでもその掌に対して安堵を感じる、この気持ちはなんなのか。
「気が付いたな」
呼吸が落ち着いてきた頃に掛けられた、その静かな声に顔を上げる。視線の先にクロノの姿が見えた。視界の中をぽたりぽたりと水滴が横切っていく。自分の髪から滴るそれと、クロノから滴ってくるそれとが混じる。
クロノもまた、ずぶ濡れだった。
「あ、の」と出した声はかすれていた。意識がはっきりすると、途端に寒さが襲ってきて体が震えた。くしゃみが出る。深い吐息が口から出る。
膝をついて覗き込んでいたクロノだったが、こちらのそんな様子を確認するとあっさりと立ち上がり、離れて行ってしまった。
そっけない。と思えたのはどうしてだろうか。
距離感はいつだってこれくらいだったように思う。必要以上には慣れ合ってくれない、けれど触れてくる時はためらいが無い。決して冷淡でもない。
濡れた髪をかきあげながら体を起こす。ひたひたに濡れた身体は重かった。そして寒かった。記憶を手繰り寄せれば、任務の途中で川に落ちたところで途切れていた。
あの時は、ああ、油断していた。
くしゅんともう一度くしゃみを漏らすと、クロノの姿が視界に戻ってきた。
彼の片手にカノッサが握られていた。あ、と体を浮かせ手を伸ばせば優しく手渡される。カノッサもまたずぶ濡れだった。きょろりと視線が不満そうにこちらを一度見た。苦笑して返す。
「ご迷惑をおかけしました」
へらりと笑うと、頬をつままれた。「いひゃい」と呟けば、あっさり指は離された。
それからクロノは、少し、笑った。
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絵柄からクロジュリ書かせて頂くあれそれ、ロオさんへ。