(クロジュリ)
「おはよーございます、先輩」といういつも通りの挨拶をした後、彼は「うわ」と露骨な声を上げた。
あまりに失礼な響きに頭を上げる。
彼の視線はは執務机の上に向かって落ちていた。それなりに広い机の上。そのほとんどの面積が書類と書物で埋め尽くされている。飴色の天板はかすかに見えるだけだ。あとは白色と黒色と、書物のカバーの色。そればかり。
それを上手く避けて作業用の空間を作り、そこに両手を乗せ、書類を下敷きにし、万年筆を握っていた。
これでも作業を始めて既に云時間と経っている。
「手伝い、ましょうか。何してるかは分からないですけど」
「手伝いはいい。何か適当に喋っていてくれ、こうも静かだと眠りそうだ」
「音楽でも流してみたらどうですか? 俺としては眠ってください、って言いたいところですけど」
「そうもいかないから呼んだんだろ。あと蓄音機はお前に貸したはずだが」
「あれー、そうでしたっけ」
へらと笑った彼の顔をじとりと見つめると「覚えてますよ」と肩をすくめた。
話しながらも書類の上を滑らせる手は止めない。止めていたら終わりが見えない。
万年筆の先に視線を戻すと、足音が二三歩遠ざかっていく。そばにあるソファに座るだろうと思っていたのだが、足音はそこを越え更に遠ざかっていく。
顔を上げるのとほぼ同時に、ドアノブを捻る音が聞こえてきた。
「何処に行くんだ」と尋ねると「コーヒー淹れてきますよ」とにこやかな返事があった。
ぱたんと閉まるドアの音を聴きながら、再び書類に向き直る。
癖のある文字で書き連ねられた報告書の暗号を読み解き、便箋の束を取り出して返事を書き込んでいく。するするとペン先が滑る。書き終えると三つ折りにし、引き出しから取り出した封筒に押し込んだ。宛名を書きこみ封をし、処理済の箱に投げ込む。そして処理前の箱から次の書類を取り出す。
それを繰り返しているうちに、がちゃりと音がして、彼が部屋に戻ってきた。
「もどりましたよー」と穏やかな声が掛かる。足音が近付いてきて、机の空いている場所にマグカップが置かれる。「助かる」と呟いてそれを掴み口をつけると、予想外に甘かった。
今度はソファに腰掛けた彼を見れば、彼も同じようにマグカップを持ってゆるく笑っていた。
「ブラックは胃に悪いですよ」
それから彼は要望に応え、暫く話し続けた。
どれもこれも適当な話だ。知っている話の回想から、知らない出来事の感想まで、幅広く滑らかに語られる。それに相槌をうち、疑問を投げ、より詳細な描写を要求したりもした。耳と口の一部をそちらに預けながら、手と脳みそは的確に手元の書類をさばいていく。ペン先が紙の繊維を引っかける音、紙同士がこすれる音、本を開いては閉じる音が、会話の間に挟まって混じっていく。
はたと気付くと、声が止んでいた。
「おい」と声をかけながら手を止め「どうした」と顔を上げる。
彼が黙っていることには今気づいたが、果たしていつから静かになっていたのかは定かでない。
ふと集中の途切れる僅かな隙間があり、その時に意識が外に向き、たまたま気付いたというだけのことらしい。というのは、ソファに横たわっている彼の姿が目に入った時に悟った。
三人掛けでそれなりに広いソファに、横向きになって目を閉じている。背中を丸くして、両の手を顔の横に引き寄せて、足は床に下ろしている。勿論瞼は閉じられていて、眼鏡は律儀にテーブルの上に置かれていた。規則正しく穏やかな寝息が聞こえてくるような気がするほど、平和そうな寝顔だった。
それをぼんやりと眺めている間、手が止まっていた。
は、と我に返る。まだ書類の始末はついていない。
昼寝をさせるために呼んだ訳ではない。呆れ半分、苦笑半分で、名前を呼びかければゆるりと目を開けた。まぶたを擦りながら起き上がって、欠伸を零しながら眼鏡をかけた。
「すみません寝ちゃいました」と笑うので「眼鏡を外して寝る体制を整えて置いて何を言ってるんだ」と一応返した。
万年筆を再び書類の上に押し付ける。文字をかきこむ音が再開されても、彼の話し声は戻ってこなかった。代わりに床を踏むブーツの底の音が二つ。それから一つ二つとこちらへ近寄ってきて、直ぐそばで止まる。
綴り慣れた自分の名前を書類の右下に書き込みながら、足音の止まった方を横目に見る。かさかさと音を立てて書類を掴み上げながら、彼が机の端に手を付いていた。
「俺も手伝った方が早いと思いますよ」
「あまり読むな」
「ちぇっ、了解です」
露骨に不満そうな表情を見せた後、それでも素直に文字を追う目を逸らした。書類の束は端をそろえて机の端に置かれる。
ソファに戻っていくかと思いきや、彼はその場所で膝立ちになり、机上の片付いた場所に腕をのせ、そこに顎を乗せた。そして上目使いにこちらを眺めてきた。
書類を読むなとは言ったが、ほど近いそこから顔を眺められるのもなんともやりづらい。わざとやっているのだろうというくらい、注視される。
一つ息を吐き、一度万年筆を置き、空いたてのひらを伸ばし、彼の頭の上に置いた。そのままゆるく撫でると、年齢よりずいぶん幼く見える顔をして、笑った。その顔に、妙に心が痛んだ。
手を引き、机の端ですっかり冷めていたマグカップの中身に口をつける。冷たくなったことで余計に甘く感じた。とろりと舌の上に残る。
残りを一度に煽った後、万年筆を拾い上げた。そこで刺さるような視線は無くなって、彼は机の上と部屋の中をぼんやりと眺めながら、再び話を始めた。
懐かしい昔話だった。
書類が全て片付くころ、丁度話は終わった。
万年筆のキャップをしめると彼は立ちあがり、両手を上げ背筋を伸ばし欠伸を零した。
「おつかれさまです、せんぱい」
「長く付き合せたな」
「眠気覚ましのお喋りくらいしかしてませんけどね。先輩も終わったなら休んで下さいね」
「ああ、そうする」
「それじゃあ、おやすみなさい。先輩」
彼はそう笑うとひらひらと手を振った。
そして書物に戻る。
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絵柄からクロジュリ書かせて頂くあれそれ、ちろるさんへ。