心音

(クロカイ)

 

 

「そういうつもりで、呼び出されたんですか」
なんて、目の前の男が言う。
はて。そういう、とはどういうことを指しているのだろうかと考える。
男は椅子に腰かけていて、クロノはその目の前に立っている。もう少し厳密にいうならば、男を椅子に座らせて、クロノがその目の前に立っていた。それから、あちらこちら破れた服を着替えさせようと、襟を引き、取れ掛かったボタンの一つに指を掛けていた。
男の目がぼんやりと、クロノの手の上に焦点を合わせようとしている。元々掛けていた眼鏡にはひびが入ってしまっていたので、それは先に外してしまっていた。折りたたんで、背後の机の上に置いてある。
男が身じろぎすると、白く長い髪の一房が肩から滑り前へと落ち、クロノの小指を掠めた。そのぱさぱさとした手触りが気になり、無造作に伸ばされている髪全体へと片手を滑らせる。手入れを怠っていたという訳ではなさそうだが、あの状況の後では痛まない方がおかしいのかもしれない。あとで櫛を取ってこようと考えていると、僅かに肩をすくめた男がやっとまともに視線を寄越した。
「文句があるわけではないのですが」と何とも言い難い声色で呟いた。
諦めだとか落胆だとか、そういうものではない。困惑が一番近くて、それから罪悪感と、なんだろうか。期待だろうか。それでやはり、罪悪感。
声色の様子を読んでいると、はたと気が付いた。
全く「そういう」つもりは無かったのだが、じわりと欲が浮かぶ。投げかけられてすぐに逸らされた視線と、顔を背けて晒された首筋の色のせいだろうか。
本当にただ、服を着替えさせようと思っていただけなのだが。
「別に、」と言いながら髪を梳いた指先のまま、首筋を撫でる。視線が少し動いて、男の肩に僅かに力がこもった。再び軍服の襟を掴み、ゆるく引っ張る。「その姿で居させるのは忍びないからな。着替えさせようと思っただけだ」
その言葉に返された視線に、今度は落胆が僅かに浮いていた。
これには少しばかり驚いた。驚いたことに対して、そういうことを予想していなかった自分に対しても、驚いた。
男はその後少し悩んで、襟を引くクロノの手に触れた。
「そうだとして、貴方がわざわざ脱がせる理由はありませんよ」
自分で脱げます、と暗に言われる。確かに、それもそうだ。
ただどうにも構いたくなる、というべきだろうか。とにかく男は現在、そういう見た目をしていた。破れた服と、無造作に下ろされた髪、頼りなく下げた視線。元々そういう気質なわけではない。むしろしっかり者で生真面目さと芯の強さを兼ね備えた男だった。以前はどうあれ、あの頃の男は世話を焼かれるような、世話を焼きたくなるような、そういう存在ではなかった。
しかし間違いなくこの瞬間この男は、そういう存在だった。
「着替えを、頂けるなら嬉しいですし着替えますが、着替えさせてもらう程力が残ってない訳でもありませんよ」
「だろうな」
「でしたら」と並ぶ堅苦しい言葉にどことなく淋しい気持ちになった、ような気がしたので襟をより強く引いた。「わ」と声を上げ椅子から僅かに腰を浮かせた男の額に、口づける。ゆっくり離れれば、きゅっと瞼を閉じた顔が視界に入り、ふと悪戯心が湧いたので、その瞼の上にも唇を寄せた。
「そういうつもりは全く無かったんだが、それもいいかもしれないな」
襟を掴んでいた手を離し、代わりに腕を引き立ちあがらせる。よろめきながら立ち上がった男と入れ替わるように椅子に腰かける。そしてもう一度引き寄せて、半ば無理矢理膝の上に座らせた。勿論こちらを向くようにして。
「性質上拒否はできないようになっているかもしれないが、そういうつもりがないのなら、普通に着替えさせて終いにするがどうする」
「着替えた場合、その後どうしますか」
「飯でも食う」
「そんな事のために、呼んだんですか。私を」
「そうだな」
くつくつと笑い声を零しながら、男の背を抱き寄せた。少し強めに力を込めて、ぴたりと体を重ねる。膝に乗せた都合上、顔が丁度服の損傷が激しいか所に当たる。びりびりに破れた服の穴。心臓の近く。そこに唇を押しつけると、男の手がクロノの服を掴んで僅かに引いた。
「どうした」
「そう、いうつもりが無い訳ではない、のですが」
「煮え切らない返事だな。らしくない」
「あっ、なたに! ……会うのが、いつ振りだと思ってるんですか」
一瞬荒くなった声色が、妙に懐かしい響きをしていて笑う。いつまでも取り繕っていなくても良いものを。他に誰も居ないのだし、あまりに今更なのだから。
「そうだったな」
「それに、そういうことがしたいのなら、昔の私の方を呼び出した方が、いいと思いますよ」
「どうしてだ」
「……若いですし」
どうにも苦々しく吐き出された言葉があまりに可笑しくて、思わず噴き出した。勿論男は不満そうに眉を寄せた。なおも喉を鳴らして笑っていると、男がクロノの背に腕を回してぴたりと抱き着いて、顔を隠してしまった。
「私は、年を取りましたし、貴方は今でも、若いままじゃないですか」
「俺にだって変わった部分はあるぞ」
「服の色ですか」
「それもあるな。それだけではないがな」
「知ってます」と男が呻いた。「知っています」
ぐずるようなその響きに、あやすように背を撫でた。クロノの背を掴んでいる指先に力が込められたことがわかる。歳を取ったというわりに、こどものような仕草だ。クロノからしてみれば、昔の男も、今の男も、大した変りなど無いというのに。何をいったい、そう比較するのか。
せんぱい、と恐る恐る小さくつぶやく声が聞こえた。
「それで、着替えるか? どうする」
場を茶化すように軽く声の音を跳ねさせて、問い掛けた。
男の体に込められていた力がするりと抜け、背に縋っていた指先も離れ、背筋が伸ばされる。
少し高い位置から、クロノに向けて視線が落とされる。
「脱がせて下さい」と彼は静かにはにかんだ。