(クロジュリ)
爪先から、地面へ降りる。ブーツの先がかつりと音を立て、硬い床を踏んだ。空気を一筋吸い込んで、そっと唇の隙間から吐き出す。体の表面を風が通り抜ける感覚に瞼を押し上げ、見えた景色は明るい夜だった。
蒼く高い夜空で星が幾つも瞬いて、時折流れていく。流星群のようだ。
視線を星の群れから下ろし、正面を向けば白色の男が立っていた。良く知っているような、実は何も知らないような、長く共に居たようで、人生のほんの一瞬しか傍らに居なかった人。それでも強烈に脳裏と心の内に存在があるのは、彼の顔をさいごに見たからだろうか。全くもって、それだけではないけれど。
彼が視界の内で朗らかに笑った。屈託ないと言ってもいい。憑き物でも落ちた様な、元からこうだった様な。とにかくそんな笑みを向けられた。
なのにどうにも視界が悪い。景色が所々ひび割れるように歪んでいて、彼の顔があまりよく見えない。あんなに綺麗な笑みを見せているのに勿体無い。
視界の悪い理由は直ぐに知れた。かけている眼鏡のレンズが割れていた。眼鏡を外すと幾分視界はぼやけたが、それでも先程よりはましに世界が見えるようになる。外した眼鏡にもう使い道もないが、律儀にポケットに押し込んだ。と思ったのだが、ポケットに穴が開いていて転がり出て、結局床に転がってしまった。それを見て彼がまた笑う。今度は声をあげて。
「だって」とつい口答えすると「すまない」と笑ったままの返事がある。
彼は四歩こちらへ近付いてきて、指先を伸ばしあちらこちら破れている上着の襟を引っ張った。それから辛うじて役目をはたしているボタンを丁寧に開け、穴だらけの上着を肩からするりと脱がされる。内側で同じく控え目に役目を続けているシャツも同様に脱がされた。
脱がしたコートとシャツを、彼は適当にぽいと地面に放った。代わりに彼が真っ白なコートを脱いで着せてくれる。こんなところで上半身裸のまま、ということもはばかられたので有難く借り受ける。通した袖は短かった。ほんの少しばかり。
コートの前を閉めると、今度は頭に手を伸ばされる。ぱさぱさの髪の毛を指先で梳かれるが、絡まっていて指が途中でつっかえた。彼の指先に、白い髪がくるくると絡まっている。
「髪結ぶ物とか持ってたり、しないですよね」とダメ元で問い掛けると「持ってるぞ」とあっさり答えられた。どうしてだろう。彼は髪を結う必要もないのに、なんて疑問を押し退けて「後ろを向け」と言われて素直に従ってしまう。
頭に触れられ、髪を束ねられる。軽く手櫛で梳かれさっとまとめあげられる。「もういいぞ」という声に振り向くと、するりと視界がクリアになった。耳の上を何かで擦られる感触も続く。はっきりした視界の先で、彼が眼鏡をかけていないことに気がついた。
「これじゃ先輩が見えませんよ」
「お前が見えていれば十分だ」
その返答に口をぽかりと開け、絶句している隙に、彼は歩き出した。
くるりと背中を向け、コートを脱いだことで幾分華奢に見える後姿を晒して歩き出す。蒼い夜空の下、白い道を踏んで進み出す。
追いかけるように、つんのめるように一歩を踏み出すと、結ってもらった髪がさらりと揺れた。懐かしい感覚がして後頭部に手を伸ばすと、随分高い位置で結われていた。歩くのに合わせて髪が揺れる。
無造作に掛けられた眼鏡の位置を指先で直し、鮮明な彼の後ろ姿を追った。
てくてくと進む彼の背中はやたらと上機嫌に見えた。腰のあたり、ベルトの間から垂れ下がる尻尾が愉快そうに揺れているからだろうか。それでなくても背筋はしゃんと伸びていていつも、記憶の中のいつもより美しい。まじまじとその背中を眺めて初めて気付くが、彼はベストを着ていた。白いスラックス、白いシャツ、白いベスト。昔はベストなんて着ていたっけ、と記憶を手繰る。
「先輩、ベスト着てたんですね」
着ているところは見たことが無かったように思えたので、率直に尋ねた。彼はこちらを振り返り一瞥し、また前を向いた。
「正装だからな、ベストくらい着る」
「せいそう、なんですかそれ」
「そうだ」
言われてみれば確かに仰々しい格好だ。ただ彼は元からきっちりと服を着こなすタイプだったので、その時と今との差はわずかだ。それでもそうか、正装なのか。その正装の一部を借り受けている。着込んだコートの襟を軽く掴んだ。
コートに、眼鏡に、髪留めに。自分。
「流石に甘やかしすぎじゃないですか?」
そう口にする。彼は陽気に答える。
「何を今更なことを言ってるんだ。俺は元からお前に甘いぞ」
「まあ、知ってますけどね。先輩の愛がとーっても広いことくらい」
呆れた様な諦めた様な拗ねた様な、そんな口調で言うと笑い声が返った。
だって彼の愛は広い。あまりにも。生きとし生けるものすべてへ向けられるような博愛ではないけれど、常人のそれよりは明らかに間口は広く、深い。独り占めを試みるにはあまりに労力がかかりすぎる。たった数年やそこらで受け取りきれるものでもない。彼が生きる時間はあんまりに、長い。永い。とてつもなく。
その一部を確かに貰った。その上それなりに他より多めに貰った、という自覚もきちんとある。それなりの時間を使わせた。使ってくれるだけ思われた。全く特別でなく他とただただ平等である、と断言できるほど若くもなかった。けれどそれでも、一部分にすぎないということも、しっかりと自覚していた。全てを貰ったなどと自惚れるほどにも若くはなかった。
彼が視界の先で歩みを止めて振り向いた。指先をこちらに向け、こいこいと呼ぶ。云千年も生きた人外だということを記憶から零しそうになるくらい、愛嬌のある動きだった。それとも云千年も生きているからこそ、なのだろうか。
素直に呼ばれて駆け寄ると、呼んだ指先に手を掴まれた。彼の指。手袋も何も無い素肌。ネクタイまできちんと締める彼を思えば貴重な素肌。その指に自分の指が絡め取られる。触れる指の温かさを感じ、自分の指が冷えていることに気付いた。無理もない。けれどならばどうして彼の指は暖かいんだろうなと、少し疑問に思った。
掴まれた手を引かれて歩みを再開する。手をつないだまま歩くなんて、と少しためらうが「誰も居ないんだからいいだろ」と穏やかな声が掛けられてはどうしようもなかった。
明るい夜の景色の中を、手を繋いで歩く。どちらもいい歳なのに。どちらも男なのに。手を繋いでデートだなんて歳でもないのに。けれど周りには誰も居らず、掴まれて分け与えられるように伝わってくる体温が心地よいとなれば、振り解くほどの理由は見付からなかった。代わりにそろりと指先を握り返す。返事をするように更に手を握り返されて、胸の詰まる思いがした。
空では流れていく星の数が、どんどんと増えていく。ぱらぱらとこぼすように空を横切っては消えていく。そのどれもが一つの場所を目指しているようにみえた。目的地があって、そこへ落ちていく。吸い込まれていく。
「俺で良かったんですか」なにがとは言わず、問い掛ければ「ああ」とはっきりとした返事があった。
「ずっと、胸ポケットに入れてくれてましたよね」とも言えば「分かるのか」と聞き返された。これに「そんな気がして」と答える。それ以上は言いようが無かった。
書物の自分。王の名前を冠さない、書物の自分。
「でも、俺のことカイロスって名づけたんですね」
少しだけ不思議に思っていた事を尋ねれば、ここにきてはじめて彼は屈託ない笑み以外の表情を見せた。笑顔には変わりないが、苦笑の色が強い。それから自嘲。
「お前が俺の知る、以前の名を捨ててしまっていたからな。少し、不安だったんだ」
ロウ、と名前を記すことが。と彼は囁いた。なんだそれ、と正直に零した。
彼はそれ以上のことを言わなかった。言いたくないのか、上手く言えないのかは判別付け難かったが、どうも後者のような気がした。なんとなく。短いながらまじまじと眺めた付き合いの時間から想像して。
じわりじわりと胸の内を占めていくものが溢れてくる。爪先の方から急速に満ちてきたそれが、ついには舌先にまで乗る。
「俺、今凄く、自惚れそうです」
堪え難くてその言葉を伝えてしまう。ずっとそばに持っていてもらったことへと、今ここに選んでもらったことへの自惚れ。特別の一番上の場所。握られた指先。
書物の自分とはいったいどんなものだろうと、思ったことがあった。勿論あった。彼の出自を少し知っているからこそ、余計に考えた。切り取られた自分の人生の再録。そこから呼ばれる自分は果たして誰だろう。途中かけの自分のセーブデータ。生きている自分と書物の自分。書物の自分は自分をどう思うのか。気になれど自分は書物ではなかったので、きっと知ることは無いだろうと思っていた。
そうして今ここに居る書物の自分は、書物だけれど間違いなくあの延長線上に立っているように思えた。それが錯覚なのか、本当のことなのか、彼がそうなるようにそのように綴ったからなのか、どれなのかはまるで分からないが、もうなんだってよかった。
どれが正しくてどれが間違っていて、何が嘘だろうがなんだろうが、些末なことだった。ここに呼ばれたのが、他の誰でもなく、たとえば自分でもなく、この自分だということだけで良かった。
だからとても、自惚れそうだった。
「勘違いじゃないぞ」
彼が笑った。
「本当かなあ」
疑う振りをしながら笑い返す。
どちらでも、いい。自惚れを咎める誰かも居なければ、自惚れたからと言って不利益が生まれるわけでもない。そういう次元はとうに過ぎ去ってしまったのだと知っていた。
くすくすと笑っていると、彼からの視線がとすりと刺さった。とても悪い笑みを乗せた視線だった。射抜かれて一瞬ぽかりと固まっていると、繋いでいた手を引かれて前のめりになる。傾いた体に彼が肩を寄せ、顔を寄せられる。
「お前は知らないかもしれないが、」俺はロウを随分とだな。
耳元でささやかれた、続きの短い言葉にさっと顔が赤くなる。そんなこちらの反応を見て満足げに彼が離れる。手はつないだまま。
色んなことを平常心で、おくびにも出さないでやり過ごす術を身に着けては生きた。そういう自覚がある、自負もある。ただこれは、これを、やり過ごすことなんてできる訳がない。出来る方がきっと、どうかしている。
恥ずかしさと俄かな悔しさに歯噛みしながら、じとりと彼を見る。
「あんたほんっとにズルい」
クロノは声をあげて笑った。
今までで一番、愉快そうに。
その後も道はもう暫く続いていく。引っ張られるように、途中からはとなりに並ぶように、黙々と道を進んでいく。進めば進むほど星の落ちていく数が増えていく。きらきらとして綺麗なものだから、見上げながら歩いていると肩がぶつかった。そんな些細なことでも彼は笑う。どうしてそんなに愉快そうなのだろうと思ったが、尋ねるまでもない。
代わりに行き先を訪ねた。
「先輩。何処まで行くんですか」
彼は悪戯めいた笑みを浮かべて答えた。
「星の落ちる場所だ」
彼には似つかわしくないような、似合うような、夢想的で幻想的な響きの言葉だった。