(ブラロド)
淡い血だまりの中に青年が一人倒れている。それを見ながら手にした剣を振り、切先に着いた血糊を払う。血だまりの拡大はとてもゆっくりで、見た目の派手さに比べて傷口は浅いのだろう。まあ、そうなのだが。そうしたのは他でもない私なのだが。
ふむ、と考える。
自らの血だまりに寝そべる青年の意識は無い。死んでいるという意味ではなく、気を失っているという意味だ。
羽織っているコートの裾に付いた砂埃をぱたぱたと払う。指先が破けた布地の隙間に引っ掛かる。破れたところに真新しい血が付着していたが、これは私のものではない。指に付いた赤黒い血を眺め、深くはかんがえず口に含む。口内に血と混じった砂粒の味が溶ける。
ここで一度目の気まぐれを起こす。
「おはよう、目が覚めたかい」
おはようと言えど、今は真夜中だけれどね。とにこやかに話し掛ければ、焦点の定まらない曖昧な瞳が、非常にゆっくりと動きこちらへ向いた。ぱくり、と口を開けるが、何も言葉を発しないまま再び閉じてしまう。幾度か瞬きを繰り返すと次第に瞳の色がはっきりとして来て、私の顔をついに認識したようだった。いったい今まで誰を見ていると思っていたのだろう、ということが少しばかり気になった。
彼は血の気の少ない青白い顔でまじまじと私を眺めた後、視線を逸らし天井を見た。そして溜息のような吐息を一つ。ぐるりと天井の景色を眺めまわした後、こちらを向かないまま口を開けた。
「どうして」と言ったように見えた。言葉自体はとても小さな音をしていて聞き取れなかったが、口の動きはそう見えた。
彼を寝かせたベッドの横に椅子を一つ引き摺ってくると、腰掛けて足を組んだ。腕を組み首をかしげる。そして笑う。その気配を察知した彼が頭を動かして、こちらを見た。
「どうして、助けたんですか」と今度は確かに音として発せられた。
その表情に、少しばかり驚く。
彼の顔の上には憎しみだとか悔しさだとか、そういった物が何一つ乗っていなかった。どうして助けたのかという問いも、なぜ殺さなかったのかだとか情けを掛けるなだとか、そういう色も含んでもいなかった。
純粋な疑問と、諦め。
返事をしないでいると彼は片手を動かして毛布を捲り上げた。そうして己の現状を確認している。着替えさせられた服と、胸に走っていた傷をふさごうと施された手当の後、巻かれた包帯の色。
起き上がろうと肘を立てるも傷口が痛んだのか、呻いてまた大人しく寝そべった。胸の上で両手を組むと小さく息を吐く。そうしてまた、こちらを見る。どうして、と今度は視線で問われる。
気まぐれだよ、と本当のことを答えることも出来たのだが、解答として考えていた二つ目の方を答えることにした。
「久々の来客が嬉しくてね」
彼はこの言葉に面食らったようだった。
ぱちり、と開かれた瞳はとてもあどけなかった。魔術の習得に余程心身を擦り減らしたのだろうと悟れる立ち回りと、生まれてこの方刷りこまれてきたのだろう咎人への憎悪にどっぷりと浸された不相応な振る舞いではない、年相応だろう表情をしていた。それは少し可愛らしかった。なので笑うと、どうして笑われたのか分からないようだった。
彼は困惑に視線を彷徨わせ、首をすくめてそれがまた傷に障って呻いた後、誤魔化すように口を開いた。
「ここは、どこですか」
命を狙ってやってきた相手だというのに丁寧な口調を崩さない様に、育ち自体は悪くないのだろうなあ、なんてことを思った。名家の生まれだろうか。家のために咎人を殺す術を仕込まれたのだろうか。短い人生だというのに、なんとも人間は不憫なものだ。
「私の城の、私の寝室の、私のベッドの上だ」
城の内部は広いが如何せん私一人しか住んでいないため、他に連れて行きようがなかった。手入れは自分の使う範囲だけ。先程も言ったように来客など久しくなく、招くための部屋も泊めるための支度もない。怪我人を寝かせておけるような場所と言えば、自室しかなかった。
眠る時間がそれなりに長いため、寝具には気を使っている。手入れも怠っていない。広いベッドの上、真っ白なシーツの上。寝心地は悪くない筈だ。
その答えを聞いた彼は驚きのあまり咳き込んで、傷が開いたのか血を吐いた。私は柄にもなく少々焦った。
気まぐれを起こしてから数日、だったか数か月だったか、覚えがないが何日かが過ぎるとクロードが起き上がれるようになった。名前はいつだったかに聞いた。家名は口にしなかった。別に報復に君の家族を皆殺しにしようなどと思わないから秘密にしなくてもいい、と言ったのだがクロードは言わなかった。
嘘はついていないのに。城から出て何処ともしれない彼の生家に乗り込んで、殺戮を働くほど血気盛んな時期はとうに過ぎ去ったというのに。
起き上がれるようになったな、と思っていたらいつの間にか歩き回る様になっていた。案外回復が早いのだなと口から零すと「怪我をすることは慣れているので」となんとも不穏な回答を送られた。
そして動き回るようになったクロードは、どうしてか城に居着いていた。帰るでもなく、なんでもなく、城に居た。勝手に一部屋片付けて、そこで寝起きをしている。
特にこちらに目立った害はない、と言うより日に日に城の中が片付いていくので好きにさせている。むしろメリットしかない。その上私は久しく居なかった話し相手を手に入れたため、大変に上機嫌だった。独り言を拾って返事をしてくれる相手が居るとどうにも愉快だ。
そんな彼の姿だが、今日は朝から一度も見ていない。勝手に城の中を探索していることは常であり、視界に入る場所に居る時間の方が少ないのだが、それでも一日に一度くらいは見る。多分。確か。日付の感覚が曖昧なため自信がない。
以前は城の中を意味もなく歩き回るということをほとんどしなかったのだが、近頃はクロードの姿を探してうろつくことが増えた。折角いるので話し相手にしようと姿を探す。今もそうやってあちこちぷらぷらと歩いていると、厨房から漏れる光が目に付いた。ついでになにやら食べ物の匂いもしてくる。
「クロード」と呼びかけながら踏み込むと、鍋を覗き込んでいる彼の姿があった。鍋をぐるぐるとかき回しながらこちらを向くと「まだ早いですよ」と言った。
「はやい?」
「出来上がったら呼びに行こうと思っていました。出来上がるのにあと十分はかかりますから」
はてなんの話だ、と厨房の入り口にもたれかかりながら暫し考える。あちらに座っていてもらえますか、とクロードがこちらを見ずに言う。あちら、と視線を移動させた先、カウンターの向こう。食堂側のテーブルの一つに燭台と食器が並べてあった。
「もしかして、料理を作っているのか」
「はい」
「料理が作れたのか」
「一応。家事全般も一通り、仕込まれましたので」
「ほう」それはなんとも便利、なものだ。
けれど今まで一度も作っているところを見たことが無い。そう言うと、ろくな食材が見当たらなかったので、と答えた。つまり食材をわざわざ仕入れてきたそうだ。買い出しのために街へ降りて、また戻ってきたのか。この子は。
「そのまま逃げてしまえば良かっただろうに」と捕らえている訳でもないのにそんなことを呟いてみる。クロードは「まだ貴方の命を狙っているんです」と言って、小さく笑った。
「ここに居れば機会に恵まれるかもしれないですからね」
「おや、諦めた訳ではなかったのか」
「貴方の命を奪えていないのに、家には戻れませんから」
そうかい、と笑うと、そうなんです、と笑われた。
配膳を少し手伝ったあと、同じテーブルにつく。パンと、野菜を煮込んだスープが控えめに並べられている。向かいにクロードが座っている。こうして誰かと同じ食卓を囲んだことも、はてさていつ振りだろうか。懐かしさからくる楽しさに表情を緩める。
置かれたスプーンを浸し、湯気の揺れるスープをすくいあげる。
「毒を入れたかもしれませんよ」と口に入れる寸前、クロードが呟いた。手を止め、彼を見る。悪戯をした子供みたいな顔をしていた。ちらとスプーンの上に視線を落とし、それからそれを、彼に向けて差し出した。
有無を言わせず押し付け「えっ」と開いた口の隙間にスプーンを差し込む。反射的に口が閉じられ、飲み下すように喉が動く。少し零れたスープが口の端から垂れて、クロードが慌てて口元を押さえた。
スプーンを引き抜くと再び自分の皿からスープをすくいあげ、今度は自分の口に入れた。随分と薄味だったが味は悪くなかった。誰かの手料理というのも全くいつ振りなのか知れない。
「あの」と戸惑った声が掛けられる。
悪戯に悪戯を返して気分が良かったので私は笑った。
「私の命を狙うのに、君はそんな姑息な真似はしないだろう」
その後の食卓はとても静かだった。彼が恥ずかしそうに目を伏せて、全く口をきいてくれなかったからだ。
その日、二度目の気まぐれを起こした。
珍しく日の当たる時間に目を覚ました。外が騒がしかったのだ。
分厚い遮光カーテンを捲り、窓を開け外を見て、あまりの眩しさに目を細める。光を浴びたからと言って灰になったりはしないが、直射日光に強くないのは確かだ。眩しいし、眩しいので出来れば夜に起きたい。
ひかりに目を慣らすように瞬きをし、辺りを伺う。城の正門方向から土煙が流れてくるのが見えた。ただ騒がしい音は無くなっていた。静けさが戻っている。いっそ気持ち悪い程の静寂。土煙が風に煽られ流れていくのに合わせて、血の香りが漂ってくる。知ったその匂いに窓を開けたまま、適当な上着と愛剣とを掴んで寝室を出た。
玄関を開ると血の香りが濃くなる。一人二人ではない。肩に上着をかけ、剣を携え、日傘を広げ外へ踏み出す。
少し離れた場所に、知った影が倒れているのが見える。近付いていけばその更に向こうに幾つもの人影があった。そのどれもが動かず静かに血だまりに横になっている。死んでいるな、と手早く結論を出す。この場で細く呼吸を繰り返しているのは私の他に、あと一人しかいない。
日傘の落とす影と共に移動しながら、その誰かのそばへと歩み寄る。日差しに照らされていた彼の上に、影を作る。
「クロード」と呼ぶと、目を開けた。一度目の気まぐれで命を拾ったあと、ベッドの上で最初に見せた目と同じ色をしていた。ぼんやりとどこか遠くを見ている。けれどあの時と違うことが一つ、クロードの目はうつろだが確かに私を見ていた。
「あながたいい」
そう、か細い声で呟いた。「せめて、あなたに殺されたい」
初めからそうなるはずだったのだから、と彼は言った。「それならまだ、なっとくもできる」そうも言った。
彼の胸には矢が一本深々と刺さっていて、他にも沢山の傷痕が見て取れた。あの時のようにゆるく広がっていく血だまりに仰向けに寝そべって、静かに息をしている。瞳だけは違って、こちらの方を見ている。
遠くを見れば、倒れている死体の一つが矢筒を背負っていた。地面を走る戦闘の跡から出来事を想像する。
どうして彼が、この城を背にするように立ちまわっていたのかが分からない。
死体は全て、クロードの仕業だろう。彼らの装備を見るに狙いは私だっただろう。それでどうして、彼が死にかけているのか。
再び見下ろすと、クロードが笑っていた。声はあまり出ないようだが、随分と愉快そうに。きっと高笑いのつもりなのだろう。
「はやくしてください、死んじゃいそうです」
ブラッドさん。と彼が名前を呼ぶ。
私はここで、二度目の気まぐれを起こす。
今度は土の上。自ら流した血だまりの上で彼は目を開けた。
目を開けて、日差しの眩しさに目を細め腕で顔を覆った。それからけほりと咳をして、喉の奥に溜まっていた血を吐き出した。
「おはようクロード」と声を掛ける。
はっきりとした、驚きに満ちた視線が私を見た。私は手にした日傘で影を作ってやりながら、愉快に笑った。
「咎人になった気分はどうかな」