(Dクラネタ、クロジュリ)
『D‐Club』
そう書かれた入り口のドアを押し開け店内へと踏み込めば、途端に煌びやかな空気に包まれた。この匂いを懐かしいと感じるのは、立場の変化だろうかそれとも、なんだろうか。
ここへやって来たことが久々、という訳でもない。月に一度は言い過ぎだが、それに近い頻度で訪ねている。それでもどうにも懐かしいように思う。勤める立場から客へと変わったことに心境の変化を覚えるのだろうか。しかしそれも、あまりに今更だ。
絨毯の布地を踏み進めば、何処からともなく香水の香りが漂ってくる。纏わりつくようなそれに、けほりと一つ咳を零した。
入り口の程近くに居た見習い騎士の一人が、カウンターを越えて出てくる。所作はあまり優雅とは言えないところが見習いらしい。もう少し足の運びに気を遣った方がいい、指先は揃えた方が、などと考えながら、これも既に余計な世話かと苦笑した。そういう気遣いはきっと、現在の統括騎士を任されている者が対応するだろう。
接客用の笑みを浮かべながら傍へと来た見習いが、こちらの顔を確認すると途端に表情を緩めた。
「クロノさん、お久しぶりです」と眼差しが親愛のこもったものに変わる。「今日は客だがな」と答えれば「そうでしたか」と目尻をゆるりと下げた。
客だと告げたのにその緩んだ顔はなんだと思う反面、親愛を向けてくる後輩のことが可愛くない訳ではない。しかし一つ線引きをし「接客態度もみてやるぞ」と意地悪く笑みを向ければ、慌てて表情が引き締めた。
背筋をすっと伸ばし、指先にまで神経が通ったのが見て取れる。こういう素直さは見ていて心地がいい。宜しく頼むと笑い掛けると、接客用の温和な笑みが顔に戻った。
「ご指名は」と尋ねられ「ない。時間が潰せればいいからな」と答えると、僅かに不思議そうな色を乗せた視線を向けられた。そう言う顔をしたくなるのは分からないでもないが、露骨に顔に浮かべるんじゃないと指摘する。見習いは慌てて頭を下げた。そして顔を上げながら「でも今日来ていますよ」と囁いたので「知ってる」とだけ苦笑を返した。
「こちらへ」と空いているテーブルへと案内される。
その途中でコートの裾が引かれ、かくんと足が止まった。明らかに人為的なそれに振り返れば、見知った婦人の顔が幾つか並んでいた。そのうちの一人がソファの背もたれを乗り越え、赤く塗られた爪の先でコートを摘まんでいた。
「クーローノさん」と酔いの滲んだ甘い声が掛かる。
それが存外大きく店内に響いたらしく、辺りの空気がざわめいた。瞬時に視線が集まる。こういった視線に晒されるのも随分と久し振りだな、などと懐かしく思わないでもないが、しまったと微かに眉を寄せる。
ちくりちくりと視線が全方位から刺さってくる。興味津々なそれに混じり、あちらこちらから名前を呼ぶ声や黄色い声が漂ってくる。正面から客として入ってきたのは間違いだったか、と嘆息したくなった。
まさかこうも、知った顔に囲まれて引き留められるとは思ってもいなかった。思慮が足らなかった。やはり裏からこっそり入って待たせてもらうべきだったのかもしれない。
未だコートを掴んでいる指を丁寧に剥がして一歩距離を取る。愛想笑いは浮かべない。あくまで平静。今日はサービスをしに来たわけではない。これも線引きだ。
「クロノさん復帰したの?」
「今日の俺は客だ、接客はしないぞ」
「なーんだ残念。でもそれなら奢るから、一緒に飲みません?」
呼んで招いて再び掴もうとする指先を、見習い騎士を盾にしてかわす。面倒くさいという気持ちが顔に浮かびそうになるのを押し隠す。それでも少しだけ「困る」という表情を作り、視線に乗せて留める。そうすると相手の勢いが弱まる。
かつての顧客とはいえ、今この瞬間の立場は対等だ。あちらも、こちらも客。もてなしを受ける側。ただただ暇をしているだけの日ならば相手をすることもやぶさかではないが、今日はそういう訳でもない。時間を潰したい事は確かだが、目的もある。
「すまないな、今日は用もある」と眉尻を下げる。
つれない、と唇を尖らせた婦人から視線を逸らし、店内を見渡す。
景色に細かい変化はあれど記憶の中と大きな変化もない。見慣れた内装が目に映る。聞き馴染んだ音楽が優しく耳を撫でる。やはり懐かしいように思う。淋しいという訳でもないこの気持ちをくすりと口の端に浮かべながら、視線を滑らせ目当ての物を探す。
あれは一応目立つはずなのだが、どうにも他に目を引く存在が有りすぎる。今日は顔を出している騎士が多いようだ。上位二人もそろい踏みしている為か店内はかなり賑わっていて、知った顔も知らない顔も沢山並んでいた。相も変わらずこちらを向いたままの顔も多い。おかげで目が滑る。
ぐるりと見回し真横を向いたあたりで、一際こちらを注視している視線に気付いた。そこへ向け視線が吸い込まれる。
眼鏡のレンズの向こうで目を丸くして、口はぽかりと開けて、手には少し傾いたグラスを握っていて、そして驚きの中になんとなく不満だとか不安だとかそういうものを滲ませた、複雑な表情をした人物がいた。
よく知った顔だ。
そいつに向けて人差し指を向ける。不意に上げられたその指先を追って、クロノに集まっていた視線が全て移動する。視線の砲火を移された当人は余計に顔を困惑に染めた。持っているグラスが更に傾く。彼のとなりに座っていた夫人が「ジュリエットさん、手」と囁く姿が見えた。「あ、え?」と口元が動き、ぱちりと瞬きをした姿も見えた。
可笑しくなって笑う。
「今日はあれを迎えに来ただけだ」
「あ、の。終わりましたよ」と掛けられた声に「早くないか」と時計を確認する。
記憶が正しければ、ジュリエットのシフトはもう少し後まで入っていたはずだ。記憶違いかと首を捻ると「早めに上がってもいいって」とおずおずと視線を向けられた。
「そうか」と納得した後、不意に試そうという気になり手を差し出した。
察したジュリエットが姿勢を正し、恭しく指先を取ると緩く引いた。導かれるままに立ち上がり「仕草は上出来だな」と言えば、小さく笑みを返された。
「俺もこのまま裏を通って帰らせてもらう」
相手をさせていた見習いにそう告げる。分かりましたと一礼した後、「俺のおもてなしはどうでしたか」と真摯な瞳で尋ねられた。こういう真面目さはやはり好感が持てるなと思いながら、隣の男とちらりと見遣る。
「会話の広げ方は良かったな。仕草はもう少し気を配った方がいい」その他思ったことを軽く述べると深々と頭を下げられた。実に初々しい。
彼に向けひらひらと手を振って、ジュリエットと並んで裏へと退く。フロアと隔てているドアをくぐると、途端に深々した息を吐く音が傍から聞こえてきた。
「やーびっくりしちゃいましたよ」と声がけらけら笑う。「先輩に指差されて、みんなこっち見るんですもん。あの後会話しどろもどろになっちゃいました、あはは」
「相変わらずオフになると良く舌が回るようになるな。第一ロウがおもてなしで饒舌なところをあまり見たことがないんだが」
「えへ。オフっていうか先輩と喋る時って言うか」
「もてなしも、もう少し頑張るんだな」
はーいと間延びした声が返る。分かっているのかいないのか。
扉一枚内側に入っただけでも、フロアの賑わいは随分と遠くなった。勿論あの煌びやかさも伝わってくるが、どこか別の世界のことのように遠い。裏方はとても事務的で、従業員同士の会話も穏やかだ。この空気もまた懐かしく、鼻がすんと鳴る。
ロッカールームへと続くこの狭い廊下も昔はよく歩いた。それこそ毎日のように。今となってはただスーツに身を包み、客として足を運ぶばかりだが、以前はとなりを歩くこの男のような恰好をしていたこともある。もてなすために着飾る。普段の生活ではそう機会のないことだ。
ジュリエットへと視線を向ければ、妙に嬉しそうな笑顔を返された。目元が緩んでいる。いったい何がそんなに嬉しいのだか知れない。
すれ違う騎士や見習いと軽く挨拶を交わしながら、ロッカールームへと入った。身支度全般が整えられるように色々な物が備え付けてあり、シャワールームも併設されている為それなりに広い。騎士専用に宛がわれている部屋だけある。
内に入りドアがぱたりと閉まると、ジュリエットが顔を寄せてきた。伺うように、それでいてねだるように視線が絡む。鼻先が触れる。「せんぱい」と囁く吐息が唇にかかる。俄かに苦笑してから、内開きのドアへともたれかかった。
後ろ手に鍵を回す。カチャンという音を聞きながら、スカーフを掴んで引き寄せ呼べば、素直に近寄ってきた。ジュリエットがドアに手をつくと、かたんと音が立つ。
「せんぱい」と再度甘える声が聞こえ、唇が合わせられる。柔らかに触れ合いながら腰を抱き寄せれば、くすくすという笑い声が唇の隙間から漏れてくる。その声も飲み込むように舌を滑り込ませ絡ませた。深く触れ合いながらも比較的穏やかな口付けを交わし、向こうが満足したところで離れる。
ちゅ、と音を立てながら遠ざかる唇を見送った。
どうしてこういうことが出来る癖に、ああも客の扱いは迷走しているのだかと疑問に思う。まあこれも、クロノが教えたことの一つだ。教えたことを素直に覚えて実践することはいいのだが、生かされる機会が些か限定的過ぎる。どれもクロノに戻ってくるばかりだ。
焦点が結べるくらい離れると、とろりと目尻を下げた笑みが見えた。
「全く、人がいないから良いものを」
「早めに上がらせてもらえたって言ったじゃないですか。この時間にロッカーに来るような人いないっすよ」
「今日はそれなりに盛況な様子に見え方が、上がって良かったのか」
「俺の指名はあんまりいませんでしたー」
「……偉そうに言うんじゃない」
「あはは。ま、先輩待たせておくのが忍びなかったのはあると思いますよ。皆気にしてましたもん」
やはり正面から入ったのは間違いだったなと、俄かに眉間に力を込める。その表情を見ないうちにジュリエットはしな垂れかかってきて、首元に額を寄せた。
ぽんと背中を撫で、香ってきた香水のキツさに顔をしかめる。
「香水の匂いがするな」
「んん、やっぱそう思います? 今日きっつい乙女が居ましたからねえ」
「そういう言い方はするな」
離れると自分の腕をすんと嗅いで、ジュリエットが顔をしかめた。「シャワー浴びてきてもいいすか」
「行って来い。待っててやる」
「じゃあ、脱がせてほしいです」
屈託ない笑みを浮かべて何を言いだすんだか。
ジュリエットは三歩程下がると、さあどうぞと言わんばかりに両手を広げた。何も初めてのことではないので「はいはい」と適当に返事をし、スカーフに指を伸ばす。菫の色をしたそれを解き、自らの腕にかける。次は手を差し出されたので、手袋を恭しく指先から引き抜いてやる。表情を視線だけで伺えば、随分嬉しそうに緩めていた。フロアでもこれくらい笑えればまた違うのだろうなと、あのぎこちない笑みを思い出す。
ベストのボタンを一つ一つ外していると「先輩も一緒に入りますか?」と馬鹿な問い掛けがあったので「狭いのを知っているだろう」と呆れを返す。
「言ってみただけですー。じゃ、待っててくださいね」
唐突に満足したらしく、ジュリエットは脱げかけのままシャワールームへ消えて行った。その後ろ姿に向けて小さく嘆息する。
薄い壁越しに聞こえてくる水音を耳にしながら、ベンチへと腰掛けた。どうにも愛情の掛け方を間違えただろうかと、俄かに後悔する。
昔はこうではなかった。出会った頃のジュリエットというのは甘え下手も良いところで、愛情の受け取り方すらおぼつかないような様子だった。それに甘え方を覚えさせようとあれこれ愛情を注いだ結果があれだ。構われ方を覚えたのはいいが、それがクロノにばかり向いているように思えることが俄かに心配だ。少なくとも接客にはまるで生かされていない。
小さく息を吐き出すが、そこまで悪い気がしないのでクロノもクロノだった。
暫くするとシャワーを浴び終えたジュリエットが戻ってきた。湯気をまといながらぺたりと踏み込んでくる。
高い位置でまとめていた髪を解いているだけで、随分印象が違って見えた。それだけなら良いのだが、何故か服を着て居らず腰にタオルを巻いただけの姿をしていたものだからぎょっとした。
「着替え出してくの忘れました……」
「脱がせろだとか言ってるからだろ」
「だってー」
言い訳をぽつぽつと口にしながら、ロッカーを開け何の飾り気もない服を纏っていく。ワイシャツとスラックス。先程までの煌びやかさを思えば随分と地味になるが、それでも様になる容姿をしていた。
帰り支度を整えている後姿を見ていると、毛先が腰を過ぎた辺りでくるりと跳ねていることに気付いた。化粧台に置かれている櫛を拝借し、ベンチに戻るとジュリエットを手招きする。気付いたジュリエットが、素直に近寄ってくる。手を取り、こちらに背中を向けるようにとなりに座らせた。
長い髪をすくい、毛先から櫛を通していく。
「もう帰るだけなんでいーっすよ、そこまでしなくても」
「長い髪もセールスポイントだろ、きちんと手入れしろ」
「してますよー」
「こういうところで気を抜くなと言いたいんだ」
さらさらと梳いていくと、くすぐったそうに背を丸めた。毛先は少し痛んでいるが、確かにきちんと手入れがされている。触り心地は柔らかい。撫でると笑い声が聞こえてきた。
「ところで今日は何の用事ですか」
「用がないと訪ねて来ないと思ったか?」
「ここに迎えに来る時は用がある時ばっかですよ。じゃなかったら電話かメールですもん」
それもそうか。急ぐ時は迎えに来て、タクシーにでも詰めるのが常だ。呼び出す時は急いでいなくて、仕事が終わったら寄れと伝えるだけ。そう思うのも当然かと考えながら、前に垂れ下がっている髪を後ろへすくうついでに首筋を撫でると「うひゃ」と気の抜けた声が上がった。
「今日は鍋が食いたいと思ってな」
「なべ、って鍋?」
「キムチ鍋だ」
「それだけのために迎えに来たんですか、先輩」
「具材も買ってないからな。買い出しも手伝わせるつもりでだ」
「因みにいつ?」
「今晩だな」
「今十時半ですよ」
「知ってる」
「食べる頃には日付変わってんじゃないすか」
「そうなるかもな」
「先輩って……たまに変に思い切りいいっつか、何か変」
「嫌だと言うなら別に良いがな」
「ヤだとか言ってないですー。泊まっても良いなら行きます」
「初めからそのつもりで迎えに来ている」
今更何を言っているのかと、俄かに呆れた声が出る。この時間に迎えに来て、家に帰すと思ったのか。
髪を梳かし終わると、ジュリエットが倒れ込んできた。ずるずると滑り、肩にもたれかかるのかと思ったらそのまま胸の方へ移動してきて、膝に頭を乗せた。足はベンチの外へ投げ出している。それでも膝枕をするにはいささか狭いと思うのだが、器用なものだ。
「久々っすね、お泊り」
「ここ暫くまとまった時間が取れてなかったからな」
「明日俺休みですよ」
「知ってる。俺もだ」
答えると「ふは」と笑った。屈託なく。嬉しそうに。前髪を指で梳きながら頭を撫でると「甘やかしてくださいね」と目を細めた。
「もう十分に甘やかしているつもりだがな」
「もっと!」
「欲張りだな」
くつくつと笑ってジュリエットの手を取る。指先を撫で、口付けて、指を絡める。やわやわと握ると笑い声が上がる。
「あ、そだ。鍋の材料って今から買うんですよね、俺キムチ鍋はヤです。ヤるときキムチくさいのいやですから」
「……ならロウが決めろ」
「何にしよっかなー。トマトとか。トマト鍋の話してる乙女いたんですよね」
「なんでもいいが買いながら選べ。そろそろ帰るぞ」
「え、やだ。もう少しこうしてて下さい」
「帰ってからでいいだろ」
「だって、ほんと久々じゃないですか。こういうの」
まあな、と息を吐く。確かにここ暫くはまとまった時間が取れていなかった。こうして時間が出来るのは一か月ぶりだろうか。
握っていた手を引っ張られ、甘えるように頬を寄せられる。甘えたがりの猫みたいだとふと思った。
「だからさっさと俺の部屋に越して来いと言ってるだろ」
「えーだって先輩の部屋家賃高いですもん。折半はちょっときびしーなーって」
「家賃くらい出してやる」
「それは流石に。先輩におんぶにだっこ過ぎて、男として情けないんで」
「おんぶにだっこの自覚はあったんだな」
「はは、借金もまだありますしね」
もうちょい頑張るんで待っててくださいね、と上目使いを向けてくる。思わず溜息が出る。決して少なくない賃金を手にしているはずなのだが、こいつはどこへ蒸発させているのだか知れない。十中八九賭け事なのだろうが。ひやりとした視線を向けると、ジュリエットが首をすくめた。
「もう少し狭い部屋にでも越すか」
「え?」
「あれ?」と急に部屋に一つ声が増えた。
驚いて声の方を向く。いつの間にかドアが開いていて、その隙間からアレンが顔を覗かせていた。目が合うとぱちりと瞬きをする。アレンは首を傾げながら部屋の中に入ってきた。
「お二人ともまだいらっしゃったんですね」
「もう帰るとこ。どしたの」
「ハンカチ汚しちゃって、替えを取りに来たんです」と爽やかな笑みを向けられた。
話しながらもロッカーから手早くハンカチを取り出し、慌ただしく踵を返す。ジュリエットが首だけ捻りその姿を見ていた。
「忙しそうだね」
「次の指名が入っているんですよ、あまり待たせたら申し訳ないですからね。それじゃあ失礼します」
「人気者は大変だね。じゃあねー」
ひらひらと手を振る向こうで、綺麗に会釈を残してアレンは出て行った。
ドアが閉まると部屋の中に静寂が落ちる。無言のままふと視線を下げれば、目が合った。
「帰りますか?」
「そうだな。髪結んでやるから起きろ」
「やった。ゆるくでいいですよ」
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2015/10/04発行した本のWEB再録