(クロジュリ)
革張りのソファに、背中がふれる。
座り心地が良いソファだったが、寝心地が良いかというと些か怪しい。肘置きと肘置きの間は、いい大人が二人並んぶとそれだけで手一杯の広さだ。体格が良い男二人なら、肩が触れてしまう。寝そべると当然、足が出た。肘置きに頭を乗せれば少し高い。ここで眠ろう、なんて眠たくて眠たくて、もう一歩も歩きたくもない、という時以外は考えないだろう。
それでもこういう時は、この狭さがちょっと有難いかなあ、なんて思ってしまう。
座面に触れた背中がそのまま押し付けられる。足とか腕とかが、あちこち絡まる様に触れ合っている。よくわからないところに、触れている体温がある。
目を閉じているので、一体今どういう格好になっているのか、いまいち上手に認識できない。そんなことどうでもいっか、という感情が先に立つ。先に立っても、困らないところへ来ている。襲撃される予定があるわけでも、命の危機にさらされる予定があるわけでも、手の届くところに武器になるものがあるわけでもない。いやどうだろう、この人の、胸ポケットに仕舞われている万年筆くらいなら、それなりに凶器になるだろうか。まあ、しないのだけれど。
そんなことより、ソファから落っこちないようにしがみついて、気持ちいつもより粗雑に好き勝手する舌に応える方が、急務だった。
この人の、連続起床時間が長くなればなるほど、こういう時に無体に扱われる。三徹後では付き合うリスクが高過ぎて、どうにか寝かしつける方が得策になるくらいだ。
無体と言っても、普段があまりに緩慢で丁寧で気にしいなので、それがどんどん普通になるだけだ。普通を超えると、早急で乱雑で、加減知らずになる。
加減を忘れた不死の咎持ちなんて、相手にするもんじゃない。というのは、過去から得た教訓だ。
今のクロノの連続起床時間は二十四時間程なので、まだまだ理性的だった。手順が二つ三つスキップされるかな、というくらい。人の口内を好き勝手しながらも、息継ぎのことはちゃんと覚えている。おかげで、ずっと同じ体勢で押し付けられている背中の方が先に辛くなってきた。背中は半分くらい肘置きに乗り上げていて、あまり楽な体制ではない。このへんが、いつもより粗雑な部分だ。
「せんぱい」と息継ぎの隙間に抗議をする。手はソファの背もたれを掴んでいたり、床に触れどうしてかそれ以上あげられない格好になっていたりして、使えない。
名残惜しそうに、ゆっくりと離れていく舌先の温度の代わりに、白い睫毛の隙間から、じっと覗く熱っぽい黒い瞳が見えてくる。普段はあんなにも禁欲的な様子なのに、この格差はどこから湧いて出てくるのだろうと、いつも疑問におもう。
レンズを通さない瞳で直に見つめられると、体があまりいうことを聞いてくれなくなる。蛇に睨まれた蛙とかいうんだったか、こういうの。ちょっと、違う気もする。
くっ付ついていなければ落ちてしまうような狭いソファの上で、クロノに抱き寄せ直される。座面との間に手を差し込まれ、抱き上げられた。こんなに手のひら大きかっただろうかと思う程、背中の広い範囲がじわりと熱い。
今度はぺたりと、背中全てと頭までが座面につくように寝かし直された。片足は肘置きを越えて空中に、もう片足はクロノの膝の上を越して爪先が地面に付く。
脚の間から、クロノが見下ろしてくる。背中からランプの明かりが零れてきていて、逆光になって、暗くて、少し怖い。怖い程綺麗だ。
つい先程まで書類仕事をしていたこともあって、クロノは手袋をしていない。あまり日差しに当たらないのか、それとも体質なのか、人より白い指先がゆっくり伸びてくる。伸びて、ネクタイを引く。引っ張られながら器用に解かれる。けれど引き抜かれはしない。
元から二つ外れているボタンを、もう一つ開ける。開けながら顔を寄せてきて、鎖骨に歯を立てられる。噛むほど強くなく、押し付けるくらいの強さで、それでいて煽られる触れ方で。これも三徹目になると、問答無用で噛み付かれ、噛み跡を残されるようになる。
気持ちがいいくらいの強さで触れられる。視界の中でふわふわと、白い髪が揺れている。その隙間から、艶の良い黒い毛並みに包まれた耳が伸びている。触ってもいいかな、とそろりと指を伸ばす。
指先が届くその前に突如、クロノが体を起こした。
跳ね上がるように背筋を伸ばし、突如見下ろされる。その顔はやけに険しい。先程とはまた別の意味で、怖い顔をしていた。
「え」と声を出すと、一つ舌打ちが返ってきた。それから長い溜息がつづく。
「おあずけだ」
そう言うとそばのテーブルに手を伸ばし、そこに置かれていた眼鏡を手に取った。
掛け直しながらそのまま、ソファを降りていく。呆然とする視界の中を、黒い尻尾が横切って行った。
カツリと床を踏む音がして、ぎいと椅子を引く音が続く。
「え」と二度目の声を出す。今度は戸惑いをたっぷりと含ませて、クロノに向けて。
頭を動かし足音の向かった先、執務机を見れば、渋い顔をしてクロノが胸ポケットから万年筆を引っ張り出しているところだった。うそでしょう、と解かれたネクタイの端を掴んで思う。
「俺、おあずけくらうようなこと、何かしましたっけ?」
今日はまだ何も、していないはずなのに。
遅刻するような用事もなければ、この執務室を訪ねたのだってたったの三十分前。徹夜で仕事をしていることを知っていたのでコーヒーを持っていったら、もうすぐ終わると言われて、待っていたら二十分程で本当に終わって、冷めたコーヒーを飲みながら少し話をして、そうしたら急にソファに押し付けられて、出来るならベッドまで移動したいけれどこれも嫌いじゃないんだよなあ、だとか思いながら、ああなった、だけの、はず。
「ていうか、なんで俺がおあずけ食らうんすか」
押し倒してきたのはあんたのくせに。
やっぱりおかしい、と抗議をすれば、クロノの視線が一瞬こちらを向く。けれど直ぐに手元に戻ってしまう。カリカリと紙をひっかくペン先の音が、なんとなく苛立っている。
「お前じゃない、俺だ」
「……え?」
三度目のその声には、前の二回よりもただ純粋な困惑だけが乗った。クロノは深々と、溜息を吐く。
「発注書を出し忘れていたものがあった」
「……それ、今じゃないとダメ、ですかね?」
「急ぎで頼まれたものだからな……チッ、出さないと取りに来られる」
「それは、困ります、ねえ」
そういうことをする関係だということが、発覚するのはまだいいとして、踏み込まれるタイミングによっては、双方最悪の事態にしかならない。
渋々、ボタンを一つ閉じる。ソファの上でころりと体を転がし、仰向けから横向きに体勢変える。寝そべるならこの格好が一番マシだ。両足共に床に下ろす。それにこうすると、執務机が見え易かった。
クロノはいつもより乱暴に万年筆のキャップをしめると、音を立てて判を押した。そして出来上がった紙切れ一枚を持って、椅子から立ち上がる。大股に歩いてきて、ソファの横を通りすぎ、ドアへと一直線にむかう背中を見送る。
その背中についてく尻尾に向け、指先を伸ばすと器用によけられてしまった。代わりに、黒い視線が背中越しに一瞬、向けられる。
「すぐ戻るから待ってろ」
ここからの十分。
その時間を待つことが、あまりに苦しかった。