九秒の使い道

(ブラロド)

 

 

食後にどうぞ、と淹れられた紅茶の香りを嗅いだときに、ふと懐かしい気持ちが湧いて上がった。カップに口を付ける寸前、手を止め、たぷりと注がれた琥珀色の水面を眺める。淡い湯気をくゆらせるそれの香りを、もう一度息を深く吸い込む。
その様子に、クロードが気付いた。向かいに座り、カップの柄を撫でながら、ちらりとブラッドを伺い見る。ほんの少し笑う。
「前に、薬売りの子がここに迷い込んできたことがあったと思います」
「ああ」
あの子かと、たったこれだけのやりとりで、記憶が鮮明に引き出された。
幾らか前のことだが、滅多に人の近寄らないこの城の扉を、堂々叩いた娘がいた。殺意も何もない、処刑人でもなんでもない来客、というのは大変に珍しく、よく覚えている。
警戒心たっぷりに扉の取っ手を握ったクロードに、下がっていてください、なんて言われ苦笑したことも、覚えている。目付きを鋭くしたクロードと対面したその娘が、脅えながら「私薬を売って歩いているんですが」と涙声に話していたことも、綺麗に思い出せた。思い出してしまうと、一昨日の出来事のように感じられる。
「あの時買ったものと、同じ香りがする」
「やはり気付きましたか?」
「長く生きていると、お茶の銘柄に詳しくなったりもするんだ」
そう答えれば、クロードはやけに嬉しそうに目を細めた。あの頃のことを思い起こした直後だと、柔らかな表情をするようになったものだと感心する。
あの時薬は買わなかったが、代わりに紅茶を買った。どうして紅茶など持っているのかと疑問を覚えたものだが、娘の父方が薬を作っていて、母方が紅茶畑を持っていたのだそうだ。色々と愉快になって、二缶、紅茶を貰った。
それから娘は幾度か尋ねてきて、その度に紅茶を二缶ずつ買った。しかし近頃はさっぱり見掛けてはいなかった。この紅茶のことも、つい先程まで綺麗に忘れ去っていたほどだ。
「久し振りに来ていたかい」と尋ねると、クロードは表情を少しばかり曇らせた。そこでおおよそ察したが、あえて彼の次の言葉を待った。一口含んだ紅茶は、薬にも似た甘い香りがした。あの時と同じだ。
「街に下りた際に、同じ看板を掲げている商人が居たので声をかけたのですが……あの子の孫のようでした」
「そうか」
「あの子はもう亡くなったそうです。折角なので紅茶だけ、購入したのですが」
そう言って、カップの中に視線を落としてしまった。項垂れているようにも見える。
クロードと出会って、かれこれ百年程経とうかという頃だ。
こういうことも、起こる様になってきた。あの時同年代として出会った誰かが、気付くと年老いて居なくなっている。そのことを大して気にしていないような、さも当然なような、そんな顔をしながら、それでも少し、目元を曇らせる。
普通に生きていたならば、とっくに同じところに居たはずの自分を、時々思うのかもしれない。それを彼は口に出さないので、本当のことは知れない。あくまで見た限りの印象でしかない。如何程永く生きたところで、心中を察するまでのことは不可能だった。
空にしたカップの底を眺めながら、ふと思い立ち「後悔しているかい」と問い掛ける。クロードは何を尋ねられたのか、分かっていない様子だった。それもそうか、と苦笑する。唐突だった。改めて「人をやめたことだよ」と問い直す。
「どうしてそんなことを尋ねるんですか」と尋ね返された。
純粋に理由が知りたいといった様子だった。後悔はきっと、していないのだろう。そういう顔をしている。極々純粋に、疑問に満たされた表情だ。その後で少し、不安が滲み出る。何か気に触ることでもしてしまったかと、頼りない瞳が覗き込んでくる。
いつの間にか同じ色になった、血の色の瞳。それがゆらゆら揺れる。不吉な色だと聞くこともあるが、涙の膜に覆われたつやりと揺れる瞳は、いっそ美味しそうなくらい綺麗に見えた。
彼が始めに持っていた瞳の色を思い出そうとして、意外と思い出せなくて、少し、困りながら言葉をこぼす。
「ありふれた、人としての幸せを、君は捨ててしまったわけだからね」
生きて年を取って、誰かと連れ添って、その中で子をもうけたり、孫を眺めたり、そうしていつか看取られて終わっていく、ごく普通の人生。それをクロードは随分前に、あっさりと手放していた。瞳の色が変わり、それ以降容姿には一遍の変化も起きなくなった。背が伸びることも、老いることもない。人間を手放して、限りなくブラッドに近い存在に変わってしまった。
その時に得たものと、手放したもの。
「後悔は有りません」
クロードは断言した。紅茶で潤した喉で、滑らかに言葉を紡いだ。ぱきりとした声同様、眼差しも同じ色をしている。どうしてだかそれを見られなくて、不意に視線を窓の外へ向ける。部屋の中のランプの明かりが鮮やかで、ガラスの向こうの夜はほとんど見えなかった。
「なら君の幸せとは、いったい何かな」
ここで漸く、彼の顔を見た。
カップに口を付けていたクロードは、問われてそこで動きを止めた。大きく開いた目で、一度瞬きをする。
初めて考えた、という顔を彼はしていた。

近頃クロードは、書庫に篭りきりになっている。
起きて、食事を取って、一息つくと姿が見えなくなる。ふと思い出して探せば、書庫からろうそくの明かりが漏れ出ていることに気が付く。覗けば、熱心に調べ物をしている姿が見えた。
生真面目だな、とその姿を見る度思った。
書庫で彼は、答え探しをしている。ブラッドが気まぐれに集めた本の山を端から開いては、以前投げかけた質問の答えを探している。「彼の幸せとは」という答えが、果たしてこの城の書庫にあるのだろうか。全て読了しているブラッドの記憶に、その答えがあった様には思えない。
そもそも書物を捲って見付ける答えでもないのだが、と思いながらも口出しはしない。きっと彼にとっては、あれが正解なのだろう。分からないことは、調べるしかない。つまり彼にとっての幸せという回答は、現在存在していないということだった。
困ったな、と少し悩む。
質問の答えのことではなく、クロードが書庫に篭りきりだということに、困っていた。食事と掃除と洗濯と、日常のルーチンはいつも通りにこなされている。そこまでしなくても、と思い続けて百年経つが、それに変わりはない。困っているのは、あまり彼と話をしていないということだ。
なんだかんだと一緒に居ると、話をする。ちょっとした遊びに付き合せることもある。永く古城に一人で住んでいた身に、その相手が増えたことはそれなりに大きなことだったらしい。
久々に感じるが、一人は退屈だ。
暖炉に薪をくべ、火をつける。久し振りに燃やしたが、幸いやり方は忘れていなかった。ぱちりと爆ぜる音が聞こえ始めると、部屋がゆるやかに温まってくる。小さなテーブルと、椅子を二つ引き摺ってきて部屋に入れた。
それから書庫を覗き込み、クロードを手招きする。
「本を持ったままでいいから、おいで」
そう呼ぶと、二三度瞬きをした。ずっと本を眺めていたせいで、視界が悪いのかもしれない。ぎゅっと目をつむったあと立ち上がり、開いていた本を胸に抱えてついてきた。
暖炉のある部屋に招き入れると「珍しいですね」と見上げられる。
「この暖炉をつけるのは、確かに久し振りかもしれないな。けれど手入れをかかさないでいてくれたおかげで、直ぐに使えたよ」
ありがとうと笑うと、目元を赤らめながら戸惑ったように視線を下げた。未だに褒められ慣れないところを思うと、彼のたった数十年はなんとも根深い。この百年余り、良く褒めて過ごしたというのに。
「それで、どういったご用ですか」と誤魔化す様な、話題を変えようとしている様な、そんな様子で尋ねられた。
暖炉の熱でやんわりと温められた椅子の片方に腰掛ける。ぎいと音が鳴る。そしてとなりの、もう一つの椅子の背もたれを軽く叩いた。
「暖炉にあたるのに付き合わないか」
一人では暇なんだ、と素直に誘う。
クロードは喜んでと一礼した後「折角ですからお茶を淹れてきます」と本を置いて部屋を出て行った。
素直に誘いを受けてくれるところは嬉しいが、いまいち誘い甲斐のない子だ。
きっと深い意味など無いと思っているのだろう。暖炉に火を入れたし暇だったからそこに居た彼に声をかけただけ、とでも思っているに違いない。彼を誘う為にわざわざ火を燃やし、椅子を支度したなんて、考えてもみないのだろう。それはそれで良いのだけれど、いまいち物足りない。
置いていった本を拾い上げ、タイトルを見る。意外にも空想小説だった。こういうい物も読むのかと驚く反面、本当にただ書棚の端から攻めていて、丁度今この本に当たっていただけかもしれないとも思う。如何せん、生真面目だ。
ティーポットとカップを持って戻ってきたクロードは、ブラッドが本を手に取っていることに気付いても、特に顔色を変えなかった。だからきっと、理由は後者なのだろう。
本を返し、代わりにカップを受け取る。中身は例の紅茶だった。この香りを嗅いでいると、不思議と気持ちが和らぐ。
火の爆ぜる音だけが聞こえる夜の中は、あまりに穏やかだ。
クロードは椅子に腰を下ろすと、早速本を開いた。隙間から、いつだったかにブラッドが贈った栞を取り出し、大事そうに本の一番後ろに挟んだ。暖炉の熱の所為かは知らないが、じわりと温まる。
「答えは見付かったかい」
「……まだです」
「そうか」
特に気にしてもいないことを、あえて尋ねた。答えは予想通りだったが、返事があるというのはやはり違う。紅茶に口を付けながら、クロード同様に本を持ってくるのも悪くなかっただろうかと考えた。会話をすることも良いが、並んで本を読むというのも、悪くはないかもしれない。
次の時は気に入りの一冊を持ってこよう。それかクロードにどれが面白かった聞いて、それを読み返すとしよう。
ふと、視線を向けられていることに気付く。
顔を向ければ、戸惑いながら視線をそらされた。顔はこちらに向けたまま、視線だけ、暖炉で燃える色の中に投じられる。どうかしたかと尋ねる前に、彼が口を開いた。
「答えが見つけられなかったら、どうなりますか」
「どうもしない」
「呆れたり、なさいませんか」
「まさか。私の気まぐれな質問に熱心に向き合っていて、感心しているくらいだ」
「それは、僕も……自分の幸せが何かということを、考えたことが無かったので」
知りたいと思ったんです、と炎の燃える音に混じってしまう様な、小さな声で呟いた。本当に考えたことが無かったのかと、憐れになった。幸せになりたいというのは、人間の中ではかなり大きな欲求だったはずではないか。
どうしたって思い出されるのは、初めて出会った頃の様子だ。自己というものがとても希薄な、人形の様な虚ろさを形取った姿。
「貴方の、」とすっかり感情豊かになった瞳に見つめられる。直ぐに逸らされる。そしてまた向かい合う、恥ずかしがり屋の瞳に見つめられる。
なんだい、と先を促す。クロードは唇を閉じ、それから小さく開け、躊躇いがちに、それでも真摯に、こちらを見据えた。
「幸せを、教えていただけませんか」
これに答えるに、困ってしまった。
その間じいと見つめ合うことになる。少し経つと、クロードは落ち着かなそうに目を伏せた。そしてぱらりと、本のページを捲った。めくって、また戻す。
ふと我に返り、背もたれに深くもたれかかれば、ぎいと鳴った。その音を聞いて、クロードが顔を上げる。
「忘れてしまったな」
笑って彼を見れば、とても不思議そうな瞳が見つめ返してきた。
意地悪かもしれないと思いながら、こう続ける。
「だから君の幸せが何かを知りたいんだ」
「……もうすこし、考えます」
そう答えられ少しだけ、申し訳なく思った。

食後に出された紅茶の味が、変わっていた。
顔を上げれば「あの茶葉は使い切ってしまいました」と残念そうに眉を下げた。
「そうか、それは残念だね」
「見掛けることがあれば買っておきます」
「そうしてくれるかい。結構好きなんだ」
これもこれで美味しいんだけれどね、と出された紅茶を飲む。いつの間にか紅茶の淹れ方が上手になったものだ。さて、いつからだろう。
「次はいつこちらへ来るか、聞いておくべきでした」
「次からはそうしたらいい。ああでも、気付けばまた代替わりしてしまっているかもしれないね」
今回がそうだったように。
ついこの前のことと思っていても、実際には随分と長い時間が流れていることがある。頭で思うよりも、人間の一生は短い。薬売りに地方をめぐるとなれば、年齢も限られるだろう。あっという間に代替わりをするのだろう。看板をかけ替えられたりしてしまえば、二度と巡り会えずに終わってしまうかもしれない。そのことが、少しばかり寂しく感じられる。そう考えていると「それは少し寂しいですね」とクロードが言ったので驚いた。
「気付けば相手がいなくなっていることが、多いんですね。貴方の人生は」
珍しくクロードが、正面からブラッドを見ていた。考えがまとまったような、そんな顔をしている。「僕の幸せはという話なのですが」と切り出された。
カップをテーブルに置く。ゆらりと湯気が、視界を横切った。
「貴方より、九秒だけ、長生きすることです」
それを聞いた率直な感想としては、なんだそれは、だった。幸せとは、そういうものだったかと考える。九秒長生き、私より。言葉を反芻する合間、あれこれ考えが過った。
「もう少し、詳しく話をしてくれないか」
そう願うと、真直ぐだった視線を一変させ、気恥ずかしそうにカップの中に視線を落とした。ゆらゆらと瞳が揺れる。目尻が少しだけ、赤くなる。
「一秒では短いし、一分では長いと思えて。丁度いいのがきっと、九秒だろうなと、思ったんです」
「その九秒だけ私より長生きをすることが、どうして君の幸せになるんだ」
「……見送るばかりのブラッドさんを、その、見送ることが出来たら、幸せなのではないか、と。思って」
あの、とどんどん声が小さく不安定になっていく。怒っていないよ、話してご覧と伝えると、ほっと息を吐いた。そして顔を上げ、ほんのりと笑った。その顔がやけに、愛らしかった。
「見送って、僕だけ残ってしまうのは悲しかったので、九秒だけ」
「随分変わったことを、思いついたものだね」
「そうでしょうか」
「もっと単純な答えでも良かったし、そうなると思っていたんだ。例えば地位や名誉を手に入れたい、名前を遺したい、美味しいものが食べたい、お金が欲しい」
「……どれも僕には必要がありません」
「どれも?」
「その中から選ぶなら、美味しいものがたべたい、でしょうか。でも一人で食べても楽しくないので、やっぱりいいです」
「おや」と思わず目を見張る。
暗に誰かと一緒でなければ意味がない、と言ったことに気付いているのだろうか。それが私かい、という意地悪を言うかどうかを悩んで、これはまた今度に取っておくことにした。代わりに別のことをもう一つ尋ねる。
「なら、先程の九秒だけれど、九秒をクロードは何に使うんだい」
たった九秒。それでいったい何が出来るのだろう。一分では長いと言ったが、一分だって短いだろう。一年あったって足りるか分からない。呑気に考えて、冷めないうちに紅茶を飲み干す。クロードは少し照れて、それからおずおずと口を開いた。なんだ、と思うがその理由は直ぐ知れた。
「貴方の名前を呼んで、お別れを伝えて……唇に触れるのを、許してください」
それがとても、心にぐさりと刺さった。
返事に困って「中々叶いそうにない幸せだ」なんて言ってしまう。それでもクロードは、嬉しそうに目を細めていた。
空になったカップを置く。
いったいどれくらい先の話なのだか、見当もつかない。けれどその時のことを思い浮かべると、あまり悪くないように思えた。先程刺された心臓が妙に痛い。誤魔化すように頬杖をつく。
クロードは、ようやく紅茶に口を付けたところだった。
「最初と最後なら、いつでも歓迎するよ」
せめてそう意地悪を言うと、彼は紅茶で咽てしまった。