(ブラロド)

 

 

いつからか、城の中を灯りが歩き回るようになった。
どっぷりと日も暮れた真夜中。城の中で橙色の灯りが揺れている。それが窓ごしに遠くに、直接近くに、度々映り込む。遠くに見えるとふと止まり、灯りはゆっくり、時々走るように早く、こちらへと近付いてくる。そんなことが、すっかり日常の色をし始めた。温かそうな色をした灯りは、近寄るほどにクロードの姿を形作っていく。
ランタンを手に持った彼が目の前まで来ると、何かしらの用を伝えられる。食事が出来たとか、少し出掛けたいだとか、さまざま。用がなければ、近寄って来ないこともある。彼はそういうところで、変な線引きをした。
一人になりたい時もあるでしょう、と言う。彼のあれはいったい、誰に教えられたことなのだか。そうでもないよ、と返す言葉は彼にとって、気遣いにしか聞こえないようだった。
逆に、こちらから探しに行くこともあった。
書斎のカーテンを開け、読み物をしていると、廊下に明かりがともる。私自身は夜目が効くため、灯りを点けることはあまりない。とすれば、あそこにはクロードがいる。彼を迎えに行く時は暇つぶしであったり、用事があったり、これもさまざまだ。
だが迎えに行くと少し驚いて、それから僅かに嬉しそうな表情を見せる。それが案外、好きだった。
明かり一つない廊下を進み、物置代わりにしている一部屋に入る。
ここは、極々まれに増える土産物だとか贈り物だとか、そういった捨てるに捨てられない物を、ひとまず置く為に使っている。
扉を開けた途端、埃っぽさに顔をしかめることになる。だろうと覚悟していた。しかし予想していたようなことは起きなかった。
踏み入った部屋の空気は、廊下と比べれば少し淀んでいるかなという程度でだった。ざっと室内を見回す。壁面に作り付けられた棚と、後から置いた棚、どちらとも埃が払われている。何年も手付かずの部屋の様相ではない。
「まったく」感心を通り越し、俄かに呆れた。こんな普段使わないような部屋まで、彼はいつ掃除をしたのだか。
ここで一つ、探し物をする。
探すという程の手間もかけず、それはあっさりと見つかった。掃除がなされていて、物を手に取ることにためらいを覚えなかったこともある。何を持ち上げたところで、埃が大きく舞い上がるようなことは無かった。
探していたのは、ランタンだ。
壁面の棚の、下段。そこから記憶の中のデザインと相違ないそれを掴み上げ、そばにある机に置く。持ってきた蝋燭を入れ、マッチを擦り、火を点けた。
ゆらりと明かりが揺れ、部屋の中に影が伸びる。丸く作られたランタンのフレームには、細かな装飾がいくつも施されいる。でこぼことしたそれを、指先で撫でた。
かなり昔、それなりの金額を出して購入したもののはずだ。何の用があって買ったのだったかは、忘れてしまった。
一通り傷や割れがないことを確認し、明かりを吹いて消す。
目的を達したので、部屋を後にする。ぎいこと音が鳴り、扉が閉じた。
廊下に出ると手短な窓へ寄り、カーテンを開けた。ぐるりと一帯を眺めるが、どこにも灯りは見当たらない。はて、と少しばかり困る。
クロードはどこか、奥まった部屋にでも隠れているのだろうか。それなりに広い城の中で、宛てもなく相手を探すというのは、存外骨だ。
折角これを渡そうと思ったのだが、と手の中のランタンを見る。
普段のクロードは、どこで見つけて来たのか、やけに無骨なランタンを手に提げている。最低限使える以上の機能を持たないことが、ありありと分かる質素さだ。
灯りを手の中に持ち、揺らしながら歩いている姿というのは、案外愛らしい。明け方が近付いてくるにつれ、無理に起きているのだろうなと分かる眼で、健気に瞬かせている姿と相まれば余計に。
このランタンの存在を思い出したのは、少し前のことだ。折角持たせるなら、あの無骨な物よりはこちらの方が似合うだろうと、ふと思った。ただどこにしまったのかを思い出すのに手間取ってしまった。なにせ使ったのは、購入してから一度や二度程度。以降はずっと物置の中だ。
漸く見付けたのだから、早く本人に持たせたいと思う。
時計を確認する。この時間ならどこにいるだろうか。食事の支度をする時間でもない。厨房にはいないだろう。すると途端に、探す宛ての候補が減る。
いや、宛てはある。多分に。ありすぎて絞れないと言うべきだろう。こんな、私ですら滅多に立ち入らない部屋の掃除がなされていることも考慮すると、まるで目星がつかない。
暫し悩んだ後、まずは彼が自室にしている部屋に向かうことにした。廊下をいつもより少し広い歩幅で進む。
階段を下り、角を曲がったところで、急に胸に何かがぶつかった。「わっ」と聞こえた声に、慌てて手を差し伸べる。この時ふと、血の香りがした。
「大丈夫かい」
ぶつかった弾みで後ろへよろめいたクロードの腕を引くと、胸の内へ逆戻りしてくる。ふわりとクロードの髪が首元に触れた。
掴んだ手を離し、逆の手に持っていたランタンを確認する。幸いこちらはぶつけなかったようで、傷は無かった。
「も、申し訳ありません」
慌てて飛び退いた勢いのまま、頭を下げられる。「気にしなくていいよ」と声を掛けながら、あまりに直ぐ離れてしまった体温を少し勿体無く思った。
「どこか怪我をしなかったかい」
「いえ」何ともありません、とクロードは首を振った。
なら先程の血の香りはなんだと、顔を覗き込む。
怪我をしている様子はない。かといって返り血を浴びている訳でもない。食材でもさばいたか、とも考えたがそのような生臭さでもない。ほんの少し、甘く香っただけだ。一滴、二滴といった量だろうか。なのでぶつかった拍子に、鼻でも打ったのではないかと思ったのだが、はて。
見つめ続けていると、クロードは居心地悪そうに目を伏せた。彼は元より、あまり目を合わせたがらない。覗き込み続ければ、これが当然の反応だろう。生来の癖なのかは知らないが、長く目を合わせることはまずない。視線が絡むのも、ほんの少しの間だけ。いつだって直ぐ逸らされる。
クロードは視線を床へと落とし、落ち着かない様子で指先を組んでいる。そこで、ふと気付く。
「クロード、灯りはどうしたんだ」
「あ、最近は暗くても見えるので。持ち歩いていませんでした」
「見えているのか?」
「はい」
答えた顔を、改めて覗き込む。じっと見詰め、クロード、と名を呼ぶと視線が絡む。直ぐに驚いたように逸らされる。目元がほんのりと赤味がかった。この反応を見るに、本当に見えているのだろう。
ふむ、と暫し考える。「眷属になった影響だろうか」
以前と近頃で変わった、明確な点といえばこれだろう。これ以上に大きな変化は思い浮かばない。問い掛けに対し、クロードは首を横に傾けた。
「……どうでしょう」
「近頃のことで、他に気になることは?」
「そういえば、近頃はこうして夜に起きていても、眠くありませんね」
「ん? ああ確かに」
言われてみれば今も眠気の滲まない、はっきりとした眼差しをしている。これに「やはり前は眠いのを我慢して起きていたんじゃないか」と指摘をすると「それは」と困ったように俯いてしまった。
その姿を見て笑う。けらけらと声を出せば、僅かに眉が寄った。
「それで、私にぶつかるほど急いでいたようだけれど、どこに行こうとしていたのかな」
「先程は申し訳ありませんでした、不注意でした」
「胸に飛び込んできてくれるのは歓迎するけれど、それで怪我をされても困るからね。気を付けてくれ」
で、と頭を垂れたままのクロードに続きを促す。顔の上げ時を見失っているように見えたので、まずは顔をあげなさい、と声を掛ける。クロードはすっかり顔を困らせきっていた。
ええと、と彼が咳払いをする。「鏡を、探していまして」
「またどうして」
「……睫毛が、目の中に入ってしまったので」
「嘘はいけないな」
俄かに呆れながらそう指摘する。
どうしてまあそんな嘘を吐くのだか。指摘されたクロードは、この世の終わりでも垣間見たかのような表情に変わった。今にも死にそうなその表情に少し焦って「怒ってはいないよ」と言葉を加える。
こういう彼の繊細さが、時々分からない。いったい私を何だと思っているのだ、と聞きたくなることもある。一回の嘘で首を刎ねるような存在だと思われているのだろうか。そうならば、流石に心外だ。
「血の香りがしている。睫毛が目に入ったくらいでは、血は出ないだろう」
早々に種明かしをして、それでと再び促す。
今度こそ観念したようにクロードが口を、小さく開けた。
「口の中に、違和感があって」
「違和感?」
「それで、先程少し噛んでしまったので、確認しようと思いまして」
「ギリギリ嘘ではない、と思うのだが。口の中を噛んだからと言って、鏡は見ないだろ」
本当のところはなんなのだと問い掛けるが、これに一向に答えようとしない。クロードは困って視線を床に落とすばかりだ。そんなに言いたくないようなことでもあったのだろうか。
それにしたって、こうしていると意地悪をしているみたいだ。向かい合っていて、片方は俯いたまま微動だにしない。そういうつもりではないのだが、それなら更に意地悪をしてみたところで大して変わらないか、と閃く。
「なら私が見てあげよう」
名案じゃないかと笑い掛けると、瞠目された。
大丈夫です結構ですと、慌てた言葉がいくつも向けられる。それに聞こえていない振りをして、一番近くの窓により、カーテンを開けた。そしてランタンを置く。火を入れると、あたりが柔らかに明るくなる。二人分の影が伸び、床や壁に映り込み揺らめいた。
「こっちへおいで」と呼べば、逃げたいのだがどうにも抗い難い、という苦悶の表情でクロードが寄ってくる。それが可笑しい。
ランタンの明かりにあたる位置に、彼を立たせる。灯りがなくても見えるが、明るい方がよく見えるのは道理だ。
ほら、と口を開けるように促すが、頑なに引き結んだまま微動だにしない。
仕方がないので「口を開けなさい」と言葉をかける。これも意地悪だろうとは思うが、こうした命令口調に彼が抗えないことを知っていた。
クロードが恐る恐る唇から力を抜き、少しだけ開かせた。
そこから覗き込もうにも隙間が狭く、まるで見えない。明かりが逆に影になってしまうくらいだ。見える見えない以前に、見えるほどの隙間がない。
「もう少し口を開けないか」と彼の顔を見つめる。視線は私から逸らすように、斜め下を見ていた。どうしてこうも頑ななのか。そんなに口の中を見られたくないのか。
呆れて小さく溜息を零すと、びくりと肩を揺らし逃げようとした。慌てて捕まえて、片手を彼の頬に添えこちらを向かせる。「まだ見えていないよ」と再度隙間を覗く。あの、と小さく唇が動いたが、それで何かが見えることは無かった。
仕方がないので、指を差し入れた。
頬に添えた手とは逆の手の人差し指を、唇の隙間から潜り込ませる。見えないなら触れば分かるか、というだけの発想だったのだが、クロードは露骨に体をこわばらせた。
指先が、歯に触れる。
固い感触と裏腹に、熱い吐息が表面を撫でた。
「噛んだのはどちら側なんだ」
尋ねるが、彼は声の出し方すら忘れてしまったかのようだった。
不安げな視線がただ、自らの口の中に滑り込んだ指先を見詰めている。信じられない、とでも言いたげにも見える。それでも不愉快という訳ではないようだ。頬が赤い。じわりと泣きそうに、目が潤んでいる。
結局返事はなかった。仕方がないので、勝手に口内を撫でる。
頬の内側に傷がないかを探ると、あっと口が動いた。指に歯が当たり、やわりと噛まれた形になる。それに慌てたクロードが口を開けた。歯を立てることが罪悪であるかのように必死に堪えている。少しくらいなら噛んでくれてもいいのだが。変に律儀な子だ。
「傷は無いようだ。もう塞がってしまったかな」
どれだけ探っても、傷の類は見付からない。ただつるりとした粘膜があるだけだ。傷の治りも早くなっているのだろうか。
ただそれよりも、問題は別の部分にあった。
口内を探っていた時、指の背に触れたそれに指先を這わせる。唇の端の裏側辺りにある歯の一本に触れ、形を確かめる。周りより長く先の鋭いこれは、以前のクロードには間違いなく無かったもののはずだ。
「牙があるね」と呟いた声は、彼にも届いた。
間近に視線が絡む。だがやはり、すぐ逸らされた。うろうろと困ったように彷徨う視線に「君は本当に私と目を合わせようとしないな」とついこぼしてしまった。不満というほどでもないのだが、折角綺麗な目の色をしているのに、直ぐ逸らされてしまうのは勿体無い。
これをクロードはどうとったのか、赤らめていた顔をさっと青ざめさせた。だが言葉を発しようとすると噛んでしまうと思ってか、何も言わない。良くない受け取り方をしたな、ということだけは知れたので「怒ってはいないよ」とまた付け加える羽目になる。
「それにしても、驚いたな」
再度指先で、つるりと牙をなぞる。
これと同じものが、私の口の中にもある。
こういった変化も起きるのか、と改めて驚いた。永く生きてはきたが、眷属など持ったのはこれが始めだ。似たような知り合いもいない。他の症例を聞いたこともない。
ただ。明らかに自らを要因として、相手が作り替わるという事実は、少し恐ろしくもあった。ぞわりとなにかが、背筋を駆け上がる。
撫でていた牙の先に、指の腹を押し当てる。もう少し力を加えれば、皮膚が裂けるだろうか。そうしたら、彼はどういう反応をするのだろう。
興味は多大にあったが、歯を立てることすらいけないことと思っている彼には、意地悪が過ぎるだろう。ひっそりと肩を竦め、指先を引き抜く。僅かに透明な糸が引いたが、直ぐに切れて見えなくなった。
「口の中が切れたのは、これが原因だろう。まあ、そのうち慣れるよ」
「……やはりこれ、牙、ですよね」
「そうだろうな。眷属にしたことで、こうも似てくるものだとは、思っていなかった」
未だクロードはどこか落ち着かない様子で、唇の端に触れている。その下にある牙の存在を確かめながら、不思議そうな、それでいて少し嬉しそうな、そんな表情を見せた。
「それにしても、先程はどうしてあんなにも慌てていたんだ」
「それは……主のような、牙みたいなものが生えてきたので、その」
「なんだい」
「嬉しかったのですが、違うものだったらどうしようかと思いまして」
「ふは」
そんな理由か、と笑うと彼はまた表情を困らせてしまった。
まあ嬉しい、と素直にいうなら良いかと、窓に置いたランタンを持ち上げる。カーテンを閉める。クロードの視線が、それを追ってきた。
「そういえば、珍しいですね」
「これかい? 本当は君にあげようと持ってきたのだけれど、要らなくなってしまったね」
夜目が効くようになったのでは、これも必要ないだろう。あの灯りを揺らして歩く姿がもう見られないかと思うと、少し残念に思えた。
また持って戻るかと考えていると、クロードの指先が控えめに、ランタンをさした。
「あの、それ、頂けないですか」
「だが、もう必要もないだろう」
「折角主が持ってきてくださった物ですし、頂いてもよろしければ」
欲しいです。と願われた。
これを否定する言葉は勿論、持ち合わせていなかった。
未だ灯りの揺れるそれを差し出すと、宝物でも受け取るかのように恭しく、彼の指先が受け取った。
そして今まで見た中できっと、一番穏やかな表情を見せた。
「有難うございます」
笑った彼の唇の隙間で、牙がちかりと光った。

それを見た時、不意に、変な気を起こしそうになった。

(水無月さんとのブラロドトレードのやつ)