共犯者の夜

(ルキリィ)

 

 

 

コツン、と一度だけ扉がノックされた。
その合図に呼ばれ、立ち上がる。
ただ広い部屋。あまりに高級な調度品。手入れの面倒な毛足の長い絨毯。執務室に置かれたものよりは少しだけ小さく、代わりに装飾の多い机。重たい書棚。来訪者などないというのに、一人では広い革張りのソファ。何の意味があるのか知れない、天蓋に囲われた寝台。
それら全てをすり抜け部屋の入口、鍵を回す。
錠の外れる音が立てば、勝手に相手は入ってくる。こちらから扉を開けたことなどない。
訪問者の姿を確認することもなく、踵を返す。扉の開く音を聞きながら、広いソファの真ん中に腰を下ろした。低く重たいテーブルの上に置かれた、先程開けたばかりの酒瓶を傾ける。琥珀色の液体がグラスに満ちる。甘い香りが広がる。
鍵の閉まる音が聞こえてきた。
酒を煽り顔を上げれば、足音もなく移動してきたリィンが、正面に立っていた。
日中の様な、重たい鎧の類は一切身に着けていない。最低限見栄えのする格好。だが変わらず愛刀を携えている。第一、彼が刀を持っていない姿など見たことがない。それも当然だ、刀を携えてルキウスの横に、後ろに、前に立ち、露を払うことが彼の役目なのだから。
テーブルに並べていた空のグラスに半分程酒を注ぎ、それをリィンに向け差し出す。それが手に取られることは無いと分かっているが、彼が部屋に来るたび毎度行っている。なんてことのない、嫌がらせの様な物だ。
今回もリィンは一度視線を寄越した後、呆れたような困ったような表情を浮かべ、顔を背けた。つまらないが、これもまたいつものことだ。リィンが娯楽に興じているところなど、見たことがない。ルキウスの目に入らないだけなのか、まるで嗜まないのかは定かでない。わざわざ確かめるほどでもない。問い掛ける言葉など、そもそも持ち合わせてはいなかった。
リィンは小さく息を吐いたのち、手に持っていた袋を、テーブルの上に投げてよこした。
袋を掴み上げ口を開け、逆さまに振る。ごろりと出てきたのは布切れが数枚と、勲章が数個だ。布切れは軍服の一部で、更にいえば、階級と所属を表す部分だった。
それを並べ、数え、眺める。
喉を鳴らし笑えば、これで満足かとでもいうようなリィンの瞳がこちらを射た。ああ、と答えてやりたくなるのを堪え、笑い声を零しながら目を細める。
この全ての始まりは、もう随分と前のことだ。
ある夜に、折りたたんだ紙切れを一枚リィンに手渡した。
紙切れには複数の名前が書き込んであった。その中身を確認したリィンは眉をしかめ、それから紙に蝋燭の火を移した。
その時に何かを望んだわけでもない。
そもそもこちらから声をかけることはない。交わす必要のある言葉は、とっくに掛け終えている。あれ以上になにも、必要はない。
それから数日後。書き込んだ名前の主の首を携えて戻った、リィンの姿を見た時は、愉快としか言いようがなかった。
あの時、ルキウスの首へと伸ばされた殺意の気配を摘み取って戻る時、リィンは何を考えていたのか。それは少しばかり、聞いてみたくもあった。
それ以降、彼に紙切れを渡すと代わりに勲章を持って戻るようになった。首は嵩張る。
再びグラスに口を付ける。
中身を空にするとソファから立ち上がる。今回の褒美は何にするか。こちらが幾ら悩めども、リィンは褒美などいらないとでも言いたげに、いつも音もない溜息を一つ寄越すだけだ。
酒の瓶を持たせたことも、金貨を持たせたこともある。何を与えても特に嬉しそうにしないのだから、渡すものはその時々で気まぐれになった。
絨毯を踏み、寝台の横を通り、飾り棚を物色する。
正直なところ、こうも早く仕事を済ませて戻るとは思っていなかった。早くともあと五日はかかるだろうと踏んでいた為、何も準備が出来ていない。豪奢な髪留めでも渡してやろうかと考えていたというのに。
ふ、と。振り返る。
天蓋の布地の奥、先程と変わらない位置からリィンがこちらを見ていた。その姿を、指先で呼ぶ。彼は素直にこちらへと歩み寄ってくる。リィンが逆らう姿など見たことがない。ただ一度、出会ったあの日、剣の切先を向けられたその時だけだろうか。それも逆らったとは、また違うのだが。
リィンは目の前までくると、こちらを見下ろした。ほんのわずかに、彼の方が背が高い。瞳が、下を向く。
ここからの行動もただの、いつも通りの試す様な嫌がらせの延長でしかなかった。
リィンの肩に手を置き、足をかけ、寝台へと押し付ける。
この時見えた、彼の驚いた顔というのは、中々に愉快だった。
はっと見開かれた瞳と、反射のように動く体。それでも押し倒されることを阻止する程、身構えては居なかったようだ。寝台に背中からぼすりと沈む。けれども手は、腕は、それでも本能のように刀の柄に手をかけ僅かに引き抜いていた。
その刀身が、首元に触れているのが分かる。ひやりと鋭い空気が通り抜けた。ただ、痛みはない。肩と首元を押さえつけられながらも、見事な反応だと笑う。それ以上に、皮膚を割く寸でのところで止められた刃に感心する。
未だに瞳は見開かれている。瞳孔も開いていた。本能を慌てて納めているように見える。
首元からそろりと刃が離れ、刀身が鞘の内に戻る。両の腕は寝台の上に投げ出すように沈められた。
瞳から驚きの色が薄れ、怪訝そうな色が濃くなる。
何がしたいんだ、と言いたいのだろう。それがありありと伝わってくる。くつくつと笑えば、余計にその色を濃くした。
爪先にひっかけていた部屋履きを脱ぎ捨て、寝台に上がり、リィンをまたぐ。いつも彼が眠っているような硬い寝具ではない、王のために設えられた柔らかな寝具。そこに黒い髪が散らばっていた。赤い瞳が、伺うように見上げてくる。
さて、これも褒美に入る、と言えば入るだろうか。
そんなことを思いながら、リィンの髪の結び目に指を伸ばし、髪紐をほどく。するりと解けたそれを、彼の目の前にかざす。しかし彼は変わらず、訝しむような瞳を向けて来るだけだ。
鈍いなと呆れる。しかしリィンにまつわる浮ついた話も一切聞かない。王の護衛というだけで、肩書としては余りあるほどだ。誘う手も一本や二本でないだろう。その割にどの手も取らないのだから、不思議なことだ。誰かを娶るつもりがないことは知っているが、遊ぶ様子も見掛けない。酒を好む様子もない。いったい何を娯楽にしているのか。それすらも必要ないと思っているのか。
それならばそれで、構いやしないのだが。
未だ掴んだままにしていた髪紐を、床に向けて放る。リィンの瞳が一瞬、それを追った。だが、それだけだ。どこまですれば、彼はこの状況を察するのだろう。紙切れ一枚で、こちらの思いを汲み剣を抜いたリィンが、いつ気付くのか。気付いたとして、どう応えるのか。
じっとその顔を眺める。鍛えているせいもあって肩幅も広い、胸板も厚い。どこからどう見ても男の、その姿を眺める。だが、まあ、それがなんだ。あの日、あの時から二人の間にあるのは同性だとか、王と剣だとか、そんなものを越えてもっとただ、泥の沼だ。
刀を握るリィンの手を撫でる。指を開かせ取り上げる。不満そうな視線がちくりと刺さる。これでもまだ気付かないのかと鼻で笑う。
押し付けた唇は荒れていた。
床へと落とした刀が、がしゃんと音を立てる。
あれが最後に切るのは、紙切れに綴られた名前でも、竜でもなんでもない。この私だ。