吸血鬼の主人

(ブラロド)

 

 

「クロード」と呼ばれて振り向けば、開いた扉の隙間からブラッドが顔を覗かせていた。その背でちらちらと明かりが揺れている。普段ならば明かりの要らない人なのに。
こっちにおいで、と白く長い指先が招いてくる。人好きのする笑みも、造詣の整った顔の上にあるといっそ、幽霊じみて見えるように思う。
爪先の向きを変え近寄れば、彫刻のような指に手を取られた。
この人とこうして手を触れ合せると、人の中では白い方の自分の肌の色も、妙に生々しく生き物の色に見える。その方が健康的でいいとブラッドは言うが、その度に隔たる壁の厚さ、溝の深さに寂しくなる。少し近付いたくらいではどうにもならない長い永い溝が、ずうっと向こうの方まで続いているような、そんな気持ちになる。
このまま、永くこの人と同じように生きていれば、いつか自分の肌の色も同様に、真っ白に、彫刻のように陶器のように、血の色が抜けたりするのだろうか。
ひやりとした手に引かれ、部屋の中に招き入れられる。背後で空気を読んだかのように、パタリと扉が閉まった。
部屋の中は暖かい。見れば暖炉で火が燃えていた。ぱちりと火の爆ぜる音がする。ソファの横に置かれた燭台で蝋燭が炎を灯し、ゆらゆらと空気の流れを感じとっている。
ソファのそばまで寄ると、指先を撫でるようにして手が離された。ブラッドはそのままソファに腰掛ける。「おいで」と呼ばれ、その横に腰を下ろした。
座ると肩が触れたので、少し落ち着かない気持ちになる。それを誤魔化すように、スカーフに指をかける。解こうとすれば「こら」と指を掴まれたしなめられた。
「私の少ない楽しみを取ってはいけないよ」
「いつも思うのですが、楽しいですか?」
「君は私のスカーフを解いても良いよ、と言われても楽しくないのかな」
「……どうでしょう」
解いてみたこともなければ、考えてみたこともない。
困ってうつむけば、首元にかかるブラッドの指先が見えた。せめて解きやすいようにと上半身を相手に向ける。どうしてかそれに気を良くしたらしいブラッドがくすくすと笑った。
となりに座りながらも半ば向き合う様な格好になり、両手で丁寧にスカーフを解かれる。しゅるりと上等な衣擦れの音を立て、布地が引き抜かれる。解かれたスカーフはソファの背もたれに掛けられたようだ。見えないが、かすかな音がある。
こうして向かい合ったのは、既に幾度目だか分からないくらいだ。だというのに、未だにどうしても落ち着かない気持ちになる。
ほんのわずかに前に倒れたら、もう額が相手に触れてしまいそうな距離。視線を少しでも上げれば、ブラッドの顔が見える。それが落ち着かず俯いているので、今視界には彼の首元だけが映っている。
先程までの自分同様、スカーフに隠された首筋。真っ白な布と比べてやっと分かるくらいの肌の色。
お召し物は黒と赤を基調に選ばれている。似合っているのだけれど、巷に流れる根も葉もない、時々本当のこともある、有象無象の噂を加速させているようにも思う。
極悪非道の吸血鬼。自分にとっては極悪非道でも何でもない、ただのちょっと変わった、長生きで優しい人だ。それでも人の血を飲むこと自体が極悪非道である、というのならば、途端に否定はできなくなるのだけれど。
シャツの留め具が一つ、二つと外される。
部屋の空気は暖炉の炎で温められているため寒くはない。けれど空気が肌に、直に流れる感触は落ち着かない。
室温よりも、ブラッドの指先の方がひやりとしていた。その指が首筋を掠めながら、シャツの襟をつかむ。ぐっと引っ張られると、反射的に反対方向へと顔を背けてしまう。これは半ば刷り込みなのでは、などと考えながら相手に首筋をさらけ出す格好になる。
どくどくと鼓動が早まる。未だに緊張しているということが伝わっては恥ずかしい。けれど隠し通すこともきっと無理だろう。抱き寄せられて歯を立てられれば、隠す間もなく鼓動の早さが伝わってしまう。ああでもどうだろう、血を飲む場合、こちらの鼓動は早い方がいいのだろうか。早い方が血の巡りは良さそうだ。
なんて、よそ事を考えていると、首筋にふっと息が吹きかけられた。
「うわっ」と上擦った声が出て、思わず顔を上げてしまう。直ぐそばで、真っ赤な瞳が愉快そうに揺れていた。肌の色から吸い取られた生き物の血の色が、全てそこに集まったかのように輝く色をしている。本当の血の色はもっとくすんでいることを知っているのにどうしても、血の色だ、と思ってしまう。透き通って少し、美味しそうな色。
「あまり緊張しても良いことはないよ」
やはり伝わってしまっていたじゃないか、と羞恥のあまり顔を下げる。それに対しなぜか、嬉しそうな声がくつくつと笑って降ってくる。
こんなの慣れる方が無理だ、とやわく下唇を噛むが、何年、何十年、何千年と経って、肌から血の色が薄れた頃になれば、慣れているのだろうかとふと思った。
「やめておこうか」と尚も笑い声がする。
「いえ、どうぞ」と半ば自棄、というわけでもないが、改めて首筋を差し出す。
息を大きく吐き、膝の上に手を乗せる。
襟を掴んでいない方のブラッドの手が、背中に回された。少し引き寄せられながら、彼の体が、顔が、近付いてくる。視界を白い髪が横切る。それが晒した首筋に触れるとくすぐったい。ふっ、とこぼれそうになる声を飲み込んで、膝に爪を立て耐える。
その瞬間まではくすぐったくて、その時は一瞬痛みが走って、それからは。
という一連の流れが、今回もあるはずだった。どうしてかそれが無い代わりに「あ」という声が首筋に吹きかけられた。
「ひっ」と今度こそ隠しきれなかった声が零れ出た。
珍しくブラッドはそのことを言及せず、するりと体を離した。スカーフを解いていた頃の距離感に戻る。襟を引いていた手が離れ、首筋が隠れる。
顔を上げた先で、ブラッドがじっとこちらを見ていた。黙って見つめられると作り物じみた雰囲気を感じて、変に緊張する。白い睫毛と赤い瞳の対比はいつ見ても美しかったし、細く白い髪はろうそくの色を取り込みながら煌めいている。
正直に、息が詰まる。なのでこの人には笑っていてもらうか、いっそ怒っていてもらった方が気持ちが楽だった。あまり遠くへ行かないでいて欲しい。
そんな気持ちを察した訳ではないのだろうけれど、ブラッドはふと笑った。長い睫毛を揺らして目を細め、口元が笑みを作る。眩暈がするほど綺麗な笑い方をされるが、これはどちからといえば、よからぬ閃きをした時の顔、に見えた。
つい身を竦めると、膝の上に置いていた手を掴まれた。今度は指先ではなく、手首を握られ引き寄せられる。
「血は飲まれないのですか」
そのために呼ばれたと思っていたし、先程まではその流れだったはずだ。改めて尋ねるとブラッドはとても気軽に「勿論もらうよ」と嬉しそうな声で言って、てのひらに口付けをした。
押し付けられた柔らかな感触に驚いて、素っ頓狂な声を上げながら反射的に手を引く。気持ち的には振り上げたくらいの力で引いたのだが、実際はしっかりと押さえ込まれていた為、わずかに揺れた程度だった。
「こら、暴れるんじゃない」とたしなめられればもう何も出来ない。
「どうしてですか」と困惑のあまり曖昧な問い掛けになってしまう。
ぎゅうと握られた手首が痛い。力を込められているから痛いだとか、そういう問題ではないように思う。なんだか、妙に痛い。
掴まれた場所から先は同じ身体でも、他人の物のようだ。わずかに動かした指の関節が、長年動かしていなかった蝶番のようにキシキシと音を立てている。
彫像みたいな指に掴まれ、色んな傷痕が残っている自分のてのひらが見つめられていると思うと居た堪れない。目を逸らして俯いてしまいたいのだが先程から、こちらを見なさい、とでも言いたげにブラッドの視線が真直ぐこちらを向いている。
上機嫌で嬉しそうで楽しそうな瞳が、瞬きの隙間からずっと、こちらを見ている。
「ほら、いつもは首筋から吸うだろう」
「……はい」
「あれだと君の顔がさっぱり見えないなと、ふと思ってね」
「……はあ」
それが何かと首を捻る。今まではずっとそうしていたし、何かそれで困りごとがあるとは思えない。手っ取り早く素肌を晒せて、それなりに量をとなるとやはり首筋が一番楽だと思える。
言わんとすることをまるで察せられない。仕方がないので大人しく正解を待つ。ブラッドは呆れるでもなくやはり、愉快そうだった。
「私に歯を立てられている時の、クロードの表情を見てやろうと思ったわけだよ」
そこまで丁寧に説明され、ようやく察する。察するが、理解は出来ない。
「見ても面白くありませんよ」
というより、あまり見られたいものでもないのだが。
動揺して慌てる心を必死に隠す。ドッドッと鼓動がうるさい。血を飲まれている時、いったい自分がどういう顔をしているかなんて知りもしないが、絶対に面白くはない。「見ても楽しくないです」と必死に説明したが「楽しいかどうかは私が決めるから安心しなさい」となにも安心できない返事を頂いた。
「クロード」
と、改めて名前を呼ばれる。
息をするように、意識がそこに、名前を囁いたブラッドの唇に吸い込まれる。ふは、と笑った彼の唇の隙間から、人ならざる牙が見えた。肌よりも白い、硬質な色。
あ、とわざとらしく、見せるように口が開かれる。
目を逸らしたくて仕方がないのに、体も眼球も、ぴくりとも動かせない。動かないのに何故か、喉が鳴った。
いったい自分が今、どんな表情をしているのか分からない。その表情を、ブラッドにじっと見詰められている。気がどうにかなりそうだった。
まず、唇がてのひらに触れた。
隙間から覗く舌の色は、ブラッドも当然赤色だった。そこは一緒なんだな、なんて、ぼんやりと考えた。
ふっと吐息が肌を撫でる。親指の付け根に牙が触れ、ぷつりと、皮膚が破れた。