書物の記憶

※村人Aとブラッドと人としての人生を終えているクロードの書の話

 

 

 

仕事の終わりに、酒場に足を踏み入れる。
明日が休みだと思うとどうにも浮足立ってしかたがない。週の終わりに酒場に行く。それがささいな楽しみだった。ただ同じことを考えている奴らが、今日は些か多いらしい。
扉を押し開けた先、酒場は混み合っていた。
「こんなに繁盛するような店だったっけ」と店主に向かってぼやくと、包丁を振りかぶられた。おいおいそれはないだろう、と肩を竦めてそそくさと奥へ進む。
この際相席でも何でも仕方がない。とにかく座れて、目の前に皿を置くだけの場所があればいい。だがそこまで条件を下げても、そうも上手くいかない様子だ。
店内には知った顔も、同僚の顔もちらほらと見える。更に見知らぬ団体が多数。どうやらこの団体客のせいで、些細な楽しみが奪われかけているらしい。そう思うと僅かに腹立たしいような、言う程でもないような、なんとも言い難い気持ちになる。
空席を求め奥へ奥へと足を進めていくと、一人しか座っていない四人掛けの丸いテーブルが見つかった。そこ以外でも四席中一席なら空いている、といったテーブルはいくつか見える。だがそこに混ざるのはあまりに窮屈だ。むしろなぜそのテーブルだけ、一人しか座っていないのだろう。訝しみながら隙間を抜け「すまない」と声をかける。
「相席してもいいだろうか」
開いている椅子に手を掛けながら尋ねて、そこで漸くその人の顔を見た。今までは人混みに隠れて見えていなかった。見て、ああそりゃあ一人で座っている訳だ、と深く納得した。
一人でのんびりと食事をする男は、彫像の様だった。
すっと通った鼻筋と、長い睫毛に赤色の瞳。整った輪郭。白い髪の隙間から覗く耳は、気のせいでなければ尖っている。そのどれもが全て、過不足なく整合性が取れた様子で顔に収まっていた。
声をかけたことで、その男の赤い瞳がゆらりと動き、こちらを向いた。瞬きを一度すると、瞬間彫像に命が吹き込まれたように表情が動く。はっと目が開き、やけに嬉しそうに口元が緩んだ。誰も寄せ付けない彫像のように座っていたというのに、とても人好きのする笑みだったものだから面食らってしまう。
「構わないよ、退屈をしていたところだ」
そう返事があったことがとても不思議に思え、話しかけたのはこちらだというのについ呆けてしまった。あ、と口が開いたまま幾ばくかの時が流れる。どうしたんだという様に彼が首をかしげたところで、漸く我に帰った。
「ありがとう」と言って椅子を引く。「ご覧の有様なもので、貴方に断られたら帰るしかなかったところでした」
向かい合って座ると、何故だか自然と言葉が改まってしまう。
変なむず痒さを感じながら、カウンターの方を覗いて本日のメニューを確認する。焼き魚にしようか煮付けにしようか。それとも今日のオススメなどあるのだろうか。見慣れた看板娘に向けて手を振ると「少し待っていて」と手を振り返された。
改めて前を向けば、男が興味深そうにこちらを見ていた。興味というよりは、好奇心という様子だろうか。見つめ返し目が合えば「ああすまない」と彼は肩を竦めた。
「敢えて私の前に座った君のことが、不思議で仕方がなくてね」
「……ここぐらいしか空いてなかったですからね」
「そうなんだが、それで諦めて帰って行った人も何人かいたよ。私はよそ者だからね、仕方は無いと思うのだが、些か淋しいものだ」
その帰って行った客、というものの気持ちはとても分かるように思われた。こちらは既に声をかけ、承諾を得て座ってしまったので今更どうすることも出来ない。だがもしもその前に、この人のこの容姿に気付いていたならば自分も同様、諦めて帰っていたかもしれない。
それほどにこの人は人間離れした空気を纏っている。女子ならば騒ぐのだろうかと思わないでもないが、それすらも越したところに立っているようにも思う。なんでも美しすぎると手を触れることをためらうものだ。教会に置かれた宗教画でも、綺麗に磨かれたガラスでも。この人は、そういうものに見える。
血が巡っているのだかも怪しいくらい白く透き通った指が、くすんだ色のグラスを持ち上げた。葡萄酒を傾ける姿は最早表現しようがない。見惚れるという次元を踏み越え呆気にとられていると「注文どうぞ」と背後から声を掛けられた。
振り向いた先で看板娘が微笑んでいて、その見知った姿の現実感に安心する様な気がした。それでも上手く言葉が出てこず、しどろもどろになりながら焼き魚と海藻の和え物と酒を注文した。酒は直ぐに出できた。それから今日は繁盛しているからサービスと言って、揚げ物を一品おまけで付けてくれた。
酒で喉を潤すと、ようやく一息つけた気がする。は、と息を吐く。顔を上げれば向かいの彼はまだこちらを見ていた。なにか、と落ち着かず首を竦める。
「折角なので、話にでも付き合ってくれないだろうか。このところ誰とも話していなくて」
苦笑に近い笑みでそう言われると、不思議に思えども断ることは出来なかった。むしろ言葉が出てこなかった。「はあ」なんて間抜けな吐息が零れ出る。それだけでも嬉しそうに目を細められたことが、ひたすらに不思議だった。
「旅でも、しているんですか。人と話さないって」
「そんなところかな。あちこちふらふらしていてね、この街に来たのは昨日の夜。宿を取るために話したりはしたけれど、それとこうした雑談はやはり違うだろう」
「まあ、分かります」
彼は空になったグラスをテーブルに戻すと、その指先をテーブルの別の場所に置いた。何かを撫でる様な仕草を見て初めて、そこに一冊の本が置かれていることに気が付いた。
古ぼけた分厚い本だ。
丁寧な装丁が施されている様子で、古い割にとてもしっかりと本の形を保っている。表紙にも背表紙にもタイトルらしき文字は見当たらない。掠れてしまっているのか書かれていないのかは定かではない。
そんな本を、彼はとても慈しみ深い瞳で見つめていた。その姿に見入っていると、不意に彼がゆるりと手を上げた。それがなんの動作なのか、一瞬分からなかった。けれど「同じものをもう一杯もらえるかな。ああはやり二杯で頼むよ」と話しているのを見てやっと、注文をしただけだということに気が付いた。「はーい、少しお待ちくださいね」と笑う声が背後から聞こえた。
テーブルに葡萄酒が二杯と、自分の頼んでいた和え物が届いた。一度に二杯も飲むとは酒豪なのだろうか。などと呑気に的外れなことを考えていれば、グラスの片方がこちらへと差し出された。
「暫く話しに付き合ってもらいたいからね。これは私から君に、お礼の先払いということで」
「そんな、いいんですか」
「むしろ安いくらいじゃないか?」
なんて、けらけらと笑われる。
いったいどれほど話に付き合せられるのだろうと俄かに不安になった。勿論今更断ることもできずにそれを受け取る。自分で頼んだ酒の残りを一気に煽り、代わりにそのグラスを引き寄せた。
酒をごくりと嚥下する途中「実は私は吸血鬼なんだ」などと彼が言うものだから少し咽た。
ごほごほと咳込んだ後数度深呼吸をし、目を大きく開き彼を見る。彼は冗談なのだか本気なのだか分からない様子で楽しそうに笑っていた。
「信じても信じなくてもいいよ。作り話だと思ってくれてもいい。これは酒の席だからね」
「……ちょっと、信じちゃいそうですけどね。貴方は、そんな雰囲気ありますよ」
「ふは、君はいい人だね」
「それはどうでしょう」
この一瞬で幾らか酒が回ったかと思う程、首を捻ると頭がふわりとした。
思い出したように揚げ物を口に運ぶ。海老だった。これは思った以上に繁盛しているらしい。サクサクパリパリと噛み砕く途中で「あの」と声を出す。
「その本は」
空いている方の指を伸ばし、彼が優しく撫でているその表紙を指差した。話題としては悪くないのではないか、などと思う。気になるのも事実だ。
酒場で酒を飲みながら読書をするというのはまず聞かない。そもそも彼も撫でているだけで読んではいない。テーブルの上に酒と食事と、古ぼけた本が並んでいる光景というのはどうにも不思議だった。ならばさっさと尋ねてしまうに限る。
「これかい?」
男の指先が、本の縁を辿るように撫でた。それが本に向けられる仕草とは到底思えず、些かドキリとする。ドキリという表現もおかしなものだが、それ以外に言いようがなかった。
「君は過去の英雄を呼ぶことのできる書物を知っているかい?」
これに首を横に振ってと答えると、彼は簡単に説明をしてくれた。
過去に存在した英雄や武人や国王、それから人ならざる存在にはたまた神まで、そのものの一生を綴った書物であり、そこから実際にその人物を呼び出すことができる書物があるのだという。俄かに信じがたい話だが、彼が吸血鬼であるという話題からこのテーブルは始まっている。酒の席だと割り切り「なるほど」と全面的に受け入れた。
「これもその一冊なんだ」
「それが?」
「そう。誰が書き増やしているのかは知れないがね、意外と世には沢山あるんだ」
「そういうものなんですか。全く聞いたことがありませんでしたよ」
「見る人が見なければ、ただの本だからね」
「なるほど。それで、貴方の手にあるその本にはいったい、誰の一生が綴られているんですか」
そう尋ねると、彼は目を丸くした。何故か分からないが驚いている様子だ。首を捻ると葡萄酒のグラスを手にもった。そして一口飲み込みテーブルに戻すと、腕を組んだ。
「言い辛いことなら良いです」と言葉を足すと「いやそうではなくて。もうずっと誰にも紹介していなかったものだから、何と言っていたかを忘れてしまった」と至極真面目な口振りで答えられた。それがここ数百年とでもいうような単位を思い浮かべさせるようで、とても不思議だった。
「私の古い、なんだろうね。友人、というと少し違うような気がするし、知人というほど疎遠ではない。なんだろうねえ」
「貴方と関係のある人なんですか」
「そうだよ」
「雲をつかむような話だったので、てっきり実際には会ったこともないような、おとぎ話や歴史書に出てくるような誰かの書物だと思っていました」
「ああなるほど。ふふ、これはね私が凄くよく知っている子の本だよ」
「ならそれは、恋人か何かだったんですか」
撫でる手付きがあまりに優しいので、そういうことかと思った。なので素直にそう尋ねたのだが、彼は曖昧に笑って首をかしげるだけだった。そして「それならそれでも良かったのだけれどね」と苦笑した。
「この子はね、生前とても優秀な子だったんだよ。だからどこかで書として綴られているかもしれないと思って、ずっと探していたんだ」
「本当に、誰が書いているかは分からないんですね」
「そうなんだ。だから宛てがなくて探すのにとても時間がかかってしまった。それでも、見付けられてよかった」
そう言って慈しみ深く悲しげな笑みを浮かべる姿は、絵画じみていた。
それにやはりこの人は、数百年や千年という単位で時が流れる様な話し方をする。実際どうなのだかは分からない。尋ねてしまうのもいいかもしれないが、きっととても、永い時間を言うのだろうと予想された。
何せ前提が、彼は吸血鬼である、なのだから。
「そういえば、君はお墓に意味はあると思うかい?」
急に絵画から生き物に戻ったかと思えば、そんな質問をされたため返事がしどろもどろになってしまった。質問を投げかけてくる存在である、ということを一瞬で忘れてしまう。
そして何故急にそんなことを聞かれたのだろう。ただこれに、彼はあまり返事を期待していない様だった。
「私はよく分からなくてね。そんなものがなくてもあの子を私は覚えている。むしろ時と共に、何故お墓があるのだか分からなくなるんだ。けれど墓標をたてたのが自分である以上、その下に眠っている姿というのも知っている訳だよ。恥ずかしながらね、この本を探しに出掛けるまでの間私はそこそこ派手に腐抜けていたんだ。ぼんやりと長く過ごしたよ。墓標を眺めてはなんとなく悲しくなるだけの、怠惰な時間を過ごしていたんだ」
まあ急に思い立って、城を出たのだけれど。と昔話をする様子でけらけらと笑われた。その隙間、本当に淋しそうな表情が垣間見えたので、なんと声を掛けたらいいのだかが分からなくなる。いつの間にかテーブルには焼き魚が運ばれてきていた。箸を指す。少ししょっぱい。
ようやく口から出せた言葉は「見付けられてよかったですね」だった。とても陳腐だったにも関わらず、彼は嬉しそうに目を細めてくれた。それに何故か少し、救われたような心地がした。
「うん。けれどね、見付けたは良いんだが私では呼び出すことが出来なかったんだ」
「呼び出すためにも何か、必要があったってことですか」
「そういうところだね」
まあ私には分け与える魂というものが無いのだから仕方がないのだけれど。と言った彼の言葉はとても理解が出来なかった。ただ「そうですか」としか答えられない。彼はまたその本の表紙を撫でた。
「……呼び出すのには何か資格が必要なんですか。それとも触媒だとかの物? はたまた何かに、選ばれなくてはいけないんですか」
それこそ噂に聞く、聖剣の様に。
「私も詳しくは知らないのだけれどね、きっと才能に近いんだろう。ともかく私には呼べなくて、だからと言って手放すことも出来なくて、ずるずるとこうして過ごしているんだ」
「呼び出せる人を探したりは?」
「考えたのだけれど、こうなってしまうと逆に呼び出すことが怖くなってしまってね。怒られてしまうかもしれないなとか、色々と考えるんだ。一番嫌なのはそれで、愛想を尽かされてしまうことなのだけれど」
既に死んでいる人に愛想を尽かされる、というのもなんだか不思議な響きだった。けれども彼の言葉は真剣そのもので、心から不安に感じている様子だった。
塩焼きにされた魚を崩して口に運び、奢ってもらった葡萄酒を飲み込む。彼はあまり食事をとっていない様子だ。酒のグラスが一つと、干物の乗った皿が一枚。改めて見比べると、この彫像のような人が干物を食べているというのはあまりに不思議だった。
現実を掠めたことで余計に現実離れしてしまった、そんな気がする。
「試しにやったら、呼び出せたりしませんか」
不意に思い立ち、彼の大事なその本に指を向ける。
自分が試したら、何かの拍子に呼べてしまったりはしないのだろうか。呼ぶために必要なのは儀式なのだろうか、素質なのだろうか、運なのだろうか。はたまたその全てなのだろうか。
知らぬ素質が自分に備わっていて、上手くいったりはしないのだろうか。
その提案に対して、彼は困ったように笑って返した。
「呼べてしまったら、君に嫉妬してしまいそうだなあ」
「……でも貴方では呼べないのでしょう」
「そうなのだけれど。長く時間が経つといけないね。余計なことばかり考えてしまう。それにはやり、今更怖いんだ」
自嘲気味に笑った彼は、髪と同じ白色の睫毛を揺らして目を伏せた。視線は本の表紙にたっぷりと注がれている。
いったいどんな人がその本に綴られているのだろう。それがあまりに気になった。こんな人にそこまで言わせるような存在とは、いったいなんだろう。
優しげで寂しげなその眼差しは、とても本を眺める視線とは思えない。何が見えるのだろう。彼の視界には、本以外の何かが見えているのではないか。そう思えてならない。
不意に彼が顔を上げ、こちらを見た。そして急に晴れやかな笑顔を見せられたものだから、驚いて言葉が消える。
「長々とこんな話を聞いてくれてありがとう。話しを合わせてくれて嬉しかったよ」
「……いえ。興味深かったです」
「はは、やっぱり君はいい人だね。ああでも本当に、この話を誰かにしたのは何百年振りだろう。凄く、懐かしい気持ちになった」
それならよかったですと頷いて、彼の言葉をすんなりと受け入れてしまう。
初めに彼は、話を信じなくてもいいと言った。なので話半分に、酒のつまみに聞いていた。話しも合わせていた。だがこれまでの言葉の全てが、どうにも嘘とは思えなくなっていた。
本当にこの人は吸血鬼で、永い時間を旅していて、愛しい誰かの幻を大事にその手に抱えているのではないか。
ふわりと酔いが回りまどろむ。
視線の先でその人は、とても美しく目を細めていた。