始まりの庭

(クロジュリ ※死後ネタ)

 

 
書物の匂いがした。すう、と息を吸い込む。は、と吐き出す。それから、目を開ける。
見えたのは白い天井と古い書棚、書物。どれにも全く見覚えは無い。だが焦りを感じることもなかった。本来ならば焦り慌てなければいけないところだと思う。自らの置かれた状況を素早く把握し、対処し、必要ならば脱出を試みなければならない。そのはずなのだが、そのような気は、全く起きなかった。
白い天井に視界がちかちかと光る。目を慣らすように何度も瞬きをする。光りを遮るように手をかざす。そして漸く、起き上がる。自分の髪は長く、黒色をしていて、それが付いた手に指に絡む。いて、と小さく声をもらす。首の後ろに手を回し、束ねてねじって肩にかけた。
寝そべっていたのは白いベッドだった。二人くらいゆうに眠れる広いベッド。それが書棚と書棚の間に置かれていた。ぐるりと辺りを見回すが、書棚とこのベッド意外には特に何も見当たらない。寝室でもないのにどうしてベッドがあるのか。それどころか書庫に適当にベッドを押し込んだだけの様にも見えた。ベッドに入っても本が読みたい人の趣味だろうか。そう考えると少しおかしくて、笑う。ある人の顔が思い浮かぶ。急に、懐かしく、恋しく思えた。
着ていた上はシャツ一枚と、下はパンツ一枚だった。寝間着にしては少し堅苦しい。これくらいの格好は丁度、あの古城の拠点で休みの日、気楽に歩き回っていた時に着ていたそれに似ていた。
床へと足を下ろす。靴もスリッパも何もなかったので、裸足のまま探索を始める。ぺたりと間抜けな足音が立つことも気にせずに歩く。ここはとても静かだった。何の音もしない。それが緊張感に繋がることもない。静けさが心地良い。知っている空気の気配がする。
書棚と書棚の間を抜ければ、更に書棚の海が広がっていた。きちんと整列され丁寧に本が並べられた書棚がどこまでも、どこまでも続いているかに見える。並ぶ本は新しいものから古いものまで様々だ。ただ背表紙に書かれたタイトルは、どれもこれも人の名前の様に見える。視線でそれらを撫でながら、書棚の奥へと進んでいく。天井だけでなく床も白かった。まぶしい。明るい。
ふと「先輩?」と口から声が零れ出た。
全く意識をしていなかった為、自分の声に驚いた。はっと口に手を当て苦笑する。とても、懐かしい気分になった。こうやって書物と書物の間をさまよって、あの人を探すことがよくあったからだろうか。それとも、この景色がなんとなくあの人に似ているからだろうか。
「なんて」と誤魔化すように声に出す。だというのに「こっちだ」と返事があったものだから、飛び上がるほどに驚いた。
実際に一歩飛び退いて、背中が書棚にぶつかる。幸い書物が反動で飛び出てくることはなかったが、音が出た。「いってぇ」という自分の声も出た。それに対し、笑い声が聞こえてきた。書棚を飛び越えて、奥から響くように。
「マジ?」と呟く。
「起きたなら、早く来い」
あまりに懐かしい声に、懐かしく急かされる。それだけで胸がいっぱいになる。息が、胸がぐっと詰まる。
瞼の裏に焼きつく、最後に見た景色は夜空だった。
星が薄らいでいくあれは明け方だったかもしれない。その時に見えた、あの人の顔が心に刺さっている。ざくりと、とても深く。きっとこの苦しさは、その時の何かに起因するのだろう。あれは、あの記憶は。
「ロウ」と呼ばれる。「こっちだぞ」と声が笑っている。「迎えに行ってやろうか」と可笑しそうに言うものだから「行けますよ!」とむきになって返事をした。
声のした方へと足を伸ばす。書棚を越え、書棚を越える。書棚しかないな、と呆れかえる頃、棚の隙間からゆらゆらと揺れる尻尾が見えた。目印代わりにでもしてくれているつもりなのだろうか。こちらの足音が近付いていることを察知すると、尻尾の揺れがぴたりと止まった。そして引っ込むと、代わりにクロノが顔を覗かせた。とても、楽しそうな表情で。
「遅かったな。迷子にでもなっていたのか?」
「ちょっとだけ。本棚しかないんですもんここ。分かり辛いっすよ」
「そうか? 綺麗に並んでいると思うんだがな」
「綺麗に並んでるから、見分けつかないんですよ」
肩を竦めると、クロノがまた愉快そうに笑った。
彼は腕に分厚い書物を抱え、開いていた。背は書棚に預けている。読んでいたのだろう。そんなに厚い本を読むなら、椅子の一つでも持ってきたら良いのに。そうは思うが、椅子の一つも見ていない。あったのはベッドが一つと、沢山の書棚だ。
改めてぐるりと見回すが、他には何も見付けられない。
この場所にクロノが居ることはとても納得がいく。何故だかそう思う。この景色はクロノのものだ。そう感じてしまえば、書棚以外のものがあることにすら驚きを覚えるようだ。ベッドがあっただけでも僥倖かもしれない。この人に抱いているイメージは、そういうものだ。なんていうと失礼だろうか。そうすると自分も驚きの部分に含まれるのかもしれない。
そんなことを思っていたら、じっとクロノに見つめられていた。白髪に黒い獣の耳。軍服ではないが眼鏡は健在で、先程見た尻尾もある。記憶と違わないが、この場合少し変な気もする。
視線が絡んでも、熱烈な眼差しは逸らされなかった。紫がかった瞳にじっと見られると落ち着かない。目力がある上に、整った顔立ちをしている。どうにも迫力がある。そして少し、照れてしまう。根負けしてこちらから視線を外せば愉快そうな笑い声が頬にかかった。
「あっ、の。ここ何処ですか」
今更ですけど口にし、一呼吸置き、改めてクロノをみる。彼は含みのある笑顔を浮かべていた。いたずらっ子みたいだ。この顔は、良く知っている。
「死後の世界といったところか」
「何言ってんすか、って言いたいところなんですけど。正直、あーなるほどなって気分ですよ」
「ほう、呑み込みが早いな」
「だって、貴方、昔の姿をしてる」
自分が黒の牙に居た頃の姿。
死後の世界だというなら、やはりあの薄らぐ星空の光景は現実に起きたことなのだろう。あの時のクロノは顔の半分を仮面で覆っていた。上手く言えないが、今と少し違う顔立ちだったような気もする。その差は年月から生まれるものだろう。だがこのクロノは、昔の姿だ。自分が一番良く知る、一番長く眺めていた姿。
「因みに俺は、幾つに見えます?」
「二十代くらいだな。俺のところに居た頃だ」
「ですよね」
肩にかけていた黒髪を手繰り寄せる。鏡がないため確かめられなかったが、やはりそうかと納得する。懐かしい色に指を通す。
クロノが胸ポケットから何かを取り出すと、投げてよこした。受け取ったそれは髪留めだった。「何でもってるんですか」貴方使わないでしょうと尋ねれば「お前が使うだろ」と言われた。そうなのだが、そうではなくて。
髪を束ね直すと、若い頃の様に高い位置でくくった。さらりと背中を撫でる感触が懐かしい。クロノが満足そうにこちらを見ていたことが、こそばゆかった。
「にしても、何で俺も貴方も、昔の姿なんですかね。死後ってこう、死んだ時の姿なのかと思ってました」
「さあな。俺も死んだことはこれが初めてだからな」
「そりゃ、そうでしょうけど」
「というかロウ、俺のことを貴方って呼ぶのをやめないか。その格好でそう言われると落ち着かん」
「え、あ……無意識でした」
「さっきは先輩って呼んだだろ」
「そう、なんですけど。なんか、あの」
今更、恥ずかしいじゃないですか。というのは言葉に出さずとも伝わったらしい。視線を泳がせるとまた笑い声が降ってくる。恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。今は確かにあの頃の見た目をしていて、気分も多分あの頃のそれに違いが、確かに死ぬまでの記憶もある。無邪気に先輩と呼び掛けられるような歳ではなくなっていた記憶がある。
そこへ降ってくる笑い声がなんだか悔しくて、睨むように見上げた。だというのにクロノは慈しむような表情でこちらを見ていたものだから、何も言えなくなってしまう。
「ロウ、どうした」
「……いいえ、なんでも」
「そうか?」
「はい。ところで先輩は、今何してたんですか。見た通りかもしれないですけど」
「ああ見た通り、本を読んでいた」
「死んでまで?」
「ここは本くらいしかないからな。お前が起きるまで暇で暇でしかたがなかった」
「俺、あれは寝てたんですか?」
「寝てたぞ。俺は先に起きた」
「はあ、よく分かんねえ」
「言っておくがこれ以上は俺も分からないからな。気付いたら寝ていたことに変わりはない」
そうなんでしょうけど、と首を捻る。こちらだって多分死んでいると思うのだが、実感は限りなく薄い。
何かが違うとは感じる。それを具体的に言うことは難しい。
「ん? ……え、マジでここって本しかないんですか?」
「見て来るか? 行ってきていいぞ。俺は暫くこの棚を読んでいるからな」
「折角先輩と会えたし積もる話しもあるんですけど……やっぱ現状把握は大事っすよね」
「初めて見る書物を与えられたときみたいな顔をしているぞ」
「それって新しい玩具を、っていうんじゃないんですか。まあ、ちょっとアタリです。危険は無さそうだし、少し歩いてきます」
笑うと、クロノは目を細めて答えた。
ベッドに倒れ込む。歩き回って疲れたという訳ではない。書棚しか見当たらなかったため、いい加減に違うものが見たくなったのだ。
「こっち来てくださーい。ベッドのとこー」
転がりながらそう大声で呼ぶ。何の返事もなかったが、程なくしてクロノが書棚の隙間から呆れた顔を覗かせた。
「こっちこっち」とベッドの端を叩いて呼ぶ。肩を竦めながらも素直に近寄ってきてくれる。クロノはベッドの端に腰を下ろすと、こちらを振り向いた。手を伸ばされ頭を撫でられる。絶句する。間抜けに口を開ける。恥ずかしかったとも言う。
「で、どうだった」
「……えっと、なんもなかったですね。本ばっか。ここにベッドがあることが奇跡でしょ」
「だろう」
「ですが、途中で奇跡的に紙とペンを見付けたので見取り図を描いてみました。まあ、だいたい書棚ですけど」
ぺろりと一枚紙を差し出すと、クロノの指につまみ上げられた。手袋をしてないな、とこの時初めて気付いた。
「ほう。相変わらずこいうい作業が上手いな」
「お褒めに預かり光栄です。まあ密偵とかやってましたし得意ですよ」
「拠点の見取り図も描いてたのか?」
「描きましたけど、先輩がくれたのと一緒でしたよ。不用心だなって思ってました。ああでも、地図は無線機じゃ報告できないし、国には流してないんで」
「不用心で済ます気は無かったからな」
「え、マジ」
「……そういう意味じゃないぞ」
殺して口封じの意味じゃないことは分かりますよ、とクロノの尻尾に手を伸ばす。触れる寸前で逃げられてしまった。逆に先端で手の甲を突かれる。
こういう他愛のないやりとりが久しぶりなので急に、また恥ずかしくなる。隠れようにもベッドには毛布の類が一切ない。枕もない。自分の服装も心許ない。仕方がないのでごろりと転がってクロノに背中を向けた。
クロノ相手に表情を隠す理由はとっくの昔になくなってしまっているので、油断がすぐ顔に出てしまう。背けなければ照れたことが伝わってしまう。背けたところで伝わってしまっているのだろうが。束ねた髪を撫でられる感覚があった。
「こうしてみると、本当に書棚しかないな」
「でしょう。生活空間全くないんですけど、別のところにそういうのはまとまってたりします?」
「いや、この中にはない」
「じゃあ外? ここは書庫だけとか? そういえば外ってどうなってるんですか。ドアとかもなかったんですけどどうやって」
「いや、外は俺も出ていないから知らないな」
「出てないんすか。先輩なら壁壊して外出るくらい出来そうなのに」
「そうだが、ロウがいつ起きるか分からなかったからな」
これに、それはどうも、としか答えられなかった。というより、そう答えられただけマシだったようにも思う。
クロノの下に居た時は、起きなかったせいで置いて行かれた任務は数知れずだ。起きないならば置いていくぞと脅されたことも何度だって。さっきから恥ずかしくなったり照れたりすることばかりだ。いっそ腹立たしい。クロノ側にはさっぱりそういう様子がないだけに。
「近く一緒に出てみるか。外に」
「……いいですけど、ドアないし壁壊すんですか」
「それは作る」
「作れるもんなんですか? 工具とかもないですけど」
「多分な、作れる。折角だから他に生活に必要な物をリストアップしてくれるか。まとめてやる」
「理屈全然分かんないんですけど、そもそもここ居住空間として何も成立してないですよ。暮らすなら要る物しかないです」
「分かった分かった、ほら全部書け」
「もー、分かりましたよ」
突き返された見取り図を受け取る。ポケットにしまっていた万年筆を取り出す。これもよく見れば、クロノが持っていたものに良く似ていた。正確に言うと、クロノが持っていた物を自分が借りたままにしていた物だが。
紙の余白に、思い付く限りのことを書き連ねる。寝室に台所に浴室に、あれにそれに、ついでに意味もなくワインセラーも書いた。これには首を捻られたが却下もされなかった。些か甘すぎる対応をされている気がする。これは要らないだろう、と言われるかと思ったどれもが「ふむ」と許容された。これを甘やかされていると言わずになんというのか。もう少し我が儘でも言ってみようか、などと考えていると急に追い出された。
ベッドから降ろされ「暫くあっちに行っていろ」と言われ驚愕する。
「なんで」とちょっぴり情けない声が出た。それにクロノは苦笑して「気が散るから一人で作業させてくれ」と言った。
「作業なら、手伝った方が早くないですか」
「そうでもない。気にするな。ロウは向こうで本でも読んでいてくれ」
「えー、椅子もないじゃないですか。地べたで読むんですか」
「椅子? 椅子くらいなら直ぐ出せるぞ。どいういやつが良い」
「……なんか言ってる意味良く分かんないんですけど」
「いいから言ってみろ」
「じゃあ、持ち運べるくらいの大きさで軽くて、座り心地良いやつ」
「注文の多い奴だな……」
「あれ、黒の牙の書庫に置いてあったやつみたいなのがいいです」
広い書庫で本を読む為に、クロノが持ち込んだ椅子を思い出す。あまり軽くは無かったが、持って移動は出来るほどの大きさの割に座り心地は良かった。時々借りて読書に勤しんでいたことが思い出される。あの椅子を使っていたのは、自分とクロノくらいだった。あそこに読書家は少なかった。必然的にクロノと語らうことが多かったように思う。
「わかった」とクロノは言うと、顎に手を当てゆっくりと一度、考える様に瞬きをした。何の意味があるのだろうと思っていれば、膝裏に何かが当たった。かくりと膝がおられる。「うわっ」と声を上げて後ろに倒れた、と思ったのだが思ったより近くに地面があった。正しくは地面ではなく座面だった。
気付けば椅子に腰をかけていた。
「……なんですかこれ」
「お前も多分だが、出来るぞ」
「いや、よく分かんないです」
「そのうち説明してやる。取り敢えず今は向こうに行っていろ」
「あー……、はいはい」
ひらひらと揺れる手の動きに追い出されるように、椅子を抱えて移動する。
本でも読んでいろと言われたが、何を読もうか。書棚の隙間を進むが、やはり人名が書かれたものばかりだ。一度椅子を置き、気になる名前を探す。おとぎ話で聞くようなものから、実在したと言われる人物、神と言われる存在まで様々な名前が続いてく。
背表紙を指先で辿る。ふと、良く知った名前が見えた。
「待たせたな」
その一言めでは、話しかけられたことに気付かなかった。
背もたれにぐっと背を押し付け、椅子に沈むように座り本を開いていた。分厚く重たい本は持ち上げたまま読むことがとても難しい。膝の上に載せ、片手で支え、片手でページを捲る。手書きの文字を目で追う。時折はらりと背から降ってくる黒い髪を避け、背中へと戻す。それを繰り返し、誰かの世界を覗き見る。
「おい、ロウ」
再度呼び掛けられ、そこでやっと気が付いた。
顔を上げればクロノが腰に手を当て、苦笑しながらこっちを見ている。瞬きをする。膝の上の書の重みと、彼の顔を比べて漸く書物の世界から現実へと呼び戻された。現実、というと違うのかもしれない。ここを何処と呼ぶべきなのだろう。やっぱり死後の世界だろうか。それ以外に言いようもない。
「せんぱい」という言葉がするりと口から出た。それを聞いたクロノが満足そうな笑みを零した。
「終わったぞ」
「え、なんでしたっけ」
「お前が居住空間にしろと言ったんだろう。俺みたいに書を読み耽って過ごすなら要らなかったか?」
「え、あ、いる。要ります。だってまた、先輩と食卓囲みたいし。ソファに並んで座りもしたいし」
願望が勝手に唇の隙間からぽろぽろと滑り出て行くものだから、言い切った後で驚いて、焦った。言い過ぎたと口を引き結ぶが既に遅いらしい。にやにやとクロノが目を細め口元を緩め、書棚に背を預けてこちらを眺めていた。「そうか」と彼が言う。良く知った声で。
「随分熱心に読んでいたが、誰の書を読んでいたんだ」
「これやっぱり、誰かの書なんですね」
「それで英霊を呼び出すことはできないがな。だが書かれている歴史は事実だ。時折違うものもあるが」
「どっちなんですかそれ」
「物による。それのタイトルは」
「帝国王シュナイデル、ですよ」
「ふは」とクロノが吹き出した。「またそんな身近なところを」と笑われる。知らない誰かの名前の中に知った名前があれば、そちらの方を手に取ると思うのだが。そのへんの感性は違うのかもしれない。それとも、クロノにとって知った名前とは読破済みなので気にならないということなのだろうか。
「それは、史実が書かれているぞ」
「へえ、やっぱり。聞いた話も書かれてるし、でも、知らないことも多く書かれてますね。あの人のこと、結構知らなかったんだなって思いました」
「シュナイデルは代替わりもするからな、書物の量は多いぞ」
「見ましたよ、巻数」
ずらりと並ぶ背表紙を見ている。直属の上司であった相手とはいえ、流石に引くほどだ。その中で、自分の見ていたその人が書かれたページは、きっと少ない。この本の中に書かれている知っていることは、知識として持っているものだけだ。
「俺が居なくなった後のことはこんなことになってたのか、とか結構驚くこといっぱい書かれてますね。知った人の事が色々書かれてるんで、これ知ってたら俺何か出来てたかなとか、考えたりしてました」
「死後に起きたの出来事に対しては流石にどうしようもないだろう。ロウが今手に持っているのも最近の巻じゃないか」
「そうなんですけど。あ、じゃああの人も死んだら、ここで会ったりしますかね」
「さてな」
「そういえば、死後の世界って言いますけど、他の人って居ないんですか。外に出たら会ったりするんですかね」
「なんだ、俺と二人じゃ不満なのか」
そんな台詞の割に、クロノの声は妙に自信に満ちていた。それが少し不服だが「いいえ」としか答えられない。何が不満なことがあるだろうか。
書棚から背を離したクロノが、靴裏を鳴らしながらこちらへと近寄ってくる。一歩一歩と歩いていることを伝えるように。近付いていくことを知らせる様に。存在を認識させるように。
となりへ来ると、クロノはまた書棚に背を預けてしまった。それが丁度、こちらから見えにくい場所だ。近いから、見えない。振り向こうとすると肩に手を置かれた。手元の書を覗き見られている気がする。はらりとページを捲る。
「理由は知らないが」とクロノは言った。それが先程の質問への回答だということは分かった。それもそうだろうな、と納得して、書に目をおとす。だというのに「まあきっと、俺の我が儘だろう」なんて言うので文字がさっぱり目に入って来なくなってしまった。
恨みがましく振り向いて見上げると額にキスをされた。全くずるい。せめてもの反論として「うわ、」とだけ返す。膝の上の書物を閉じる。
「何か食うか? 折角台所を作ったしな」
「……食材ってあるんですか」
「ああ、出した」
「ほんと、仕組み分かんないんですけど、死後の世界だとかいうし、本だらけだし、貴方は我が儘とかいうし。でも多分、それなりに好きにできるんでしょうね」
「相変わらず異常事態への順応は早いな」
「じゃないと死にますからね」
「今回は既に死んでいるのだがな」
笑い声を零すクロノに手を取られ、椅子から立ち上がった。思いの外勢いがつき、よろめいて肩がぶつかる。すぐ耳元で笑い声が聞こえた。並んで立つと、記憶と違わない位置に彼の瞳があった。「思い通りになる割に、背は相変わらず俺より低」いんですね、と言おうと思ったのだが叩かれてしまった。どつかれた肩を押さえて、懐かしいなあと思う。
クロノはそのまま振り返らず、書棚の間を進んで行ってしまった。慌てて追いかければ突き当りの壁に、扉が出来ていた。なるほど、こうしたか。
書棚の配置は変えず、部屋を奥に増やしたようだ。つまり増築。それなりに、と先程言ったがこれはやりたい放題なのではないか。
彼の言うとおり自分にも出来るのだろうか。ためしに念じてみる。手を広げる。馴染んだ感触。カノッサ、カノッサ。あいつはどうなったのだろう。カノッサに死後の世界はあるのだろうか。いくら思えども、結局手には何も現れなかった。
扉を開け中へと入っていくクロノを追う足を一度止め、振り向く。部屋の中で書物は整理整頓され、延々と詰まっている。これはどこの景色なのだろう。クロノの、どの辺の記憶の一部なのだろう。
「ねえ先輩」
「なんだ」
「俺の書ってどこにあるんですか。折角だし、読んでみたい」
「お前は目の前に居るだろ」
開いた扉から美味しそうな匂いが漂ってきた。もう出来ているのだろうか。準備がいいなあ流石だなあだとか思う。そしてふと思い当たり、視線をクロノへと向ける。彼もこちらを訝しむように見ていた。
「あれ、俺って書なんですか」
「違うが」
「じゃあ、なんで」
「本人が居ればそれでいいだろう」
「……そういう、もんですかね」
「俺にとっては過不足ないな」
「じゃあ、先輩の書もここにはないってこと?」
「今は無いな。読みたいなら出してくるぞ」
「読みたい!」と大きく踏み込みクロノに迫る。勢いが付きすぎたのかたじろがれた。取り繕う様に「です」と付け加える。
「分かった。食事の後で出してやる」
「やった。あ、全部ですよ。俺が居なくなったあとのも、全部」
「面白いものでもないぞ」
「だって先輩は、俺のこと全部知ってるじゃないですか。俺だって読みたいですよ」
そういうものか、とクロノが腰に手を当て首を捻る。少し笑っている。まんざらでもないのだろう。なんだかおかしい。
ふわふわとお腹の減る匂いがする。なんだろう。スープだろうか。クロノの手作り料理というのは、かなり珍しい。なにせ料理をしている暇が取れない。何度食べたことがあっただろう。もしかして、ここでこうして二人で、よくわからない死後の世界を過ごしていたら、ねだればいつでも食べられるのだろうか。それはすごく、なんて贅沢な。
ぐう、と鳴りそうで鳴らないお腹を押さえる。クロノが笑って背を向けた。追いかけて、敷居を跨ぐ。ふと、星の流れる色を思い出した。
「あ、先輩。あの時は、ありがとうございました」
これにクロノは、振り向きそうで振り向かない、そんな角度で返事をくれた。

とても短く「ああ」とだけ。
(#ふぁぼした人であみだして当選した人一名に一冊だけ作るコピー本プレゼント 企画→性癖をつめこんだクロジュリ)