(ジンヤス)
一日 AM10:00
その時ヤスツナは、特に何かをしていた訳ではなかった。
時間としては勤務時間内。六魔将の服に身を包み、帯刀し、立っていた。不夜城の敷地内にある、風通しがよく空の見える場所。端的に言えばさぼっていた。
敷地内と言えども、城そのものからは少し離れている。木々に囲まれた、抜け道の様にひそやかな一本道。そこを延々と進んだ先にあるぽつりとした空間。ここが最近のヤスツナのお気に入りの場所だった。
暇ができると抜け出してここへ来て、好きなだけ風に吹かれて、そして戻る。ただそれだけだが、これが密かな楽しみだ。
なんのために作られた場所なのかは分からない。庭というには手入れがされていなかった。植物は無造作に伸び放題だし、誰かがこの場所を覚えているのかも怪しい。それでもここは周囲を遮るものが少なくて、空が広く見えた。何より風が良く通る。
今日も見上げた空は青く遠い。まばらに浮く雲は白く緩やかに流れている。風は静かに吹き続けて、木々の葉を揺らしている。風の音ばかりがする。全くいい天気だ。
空を仰いで大きく息を吸う。今日も風は笑っていると一人頷くと、ふと空に陰りが見えた。突然現れた陰りは、どうも人の形に似ている気がした。
それが何なのか目を凝らす暇もなく、急な衝撃がヤスツナを襲った。。
何が起きたのかさっぱり分からないが、地面にうつ伏せで倒れる。背中が重い。頬と掌にひやりとした土の感触がある。ついでに言えば体の色んな場所が痛い。
どうやら何かが落ちてきて、下敷きになったらしい。六魔将ともあろう者が避けられないとは、なんたる不覚。
しかし未だ背中に乗っている質量から考えれば、これでも軽傷に思えた。背中に乗っているのは人くらいの重さと大きさがあった。
「悪いな」
背中から男の声がして、上に乗っていた重みが消えた。本当に人だったらしい。何故人が空から。いったいどこから現れたのか。それにしても悪びれた様子の無い、気のない声だ。
「クッション助かったよ。おかげで無傷、……ってあれ?」
声の主は、どうもヤスツナが起き上がらないことを不審に感じたらしい。
体は痛いが、別に起き上がれないほどではない。ならなぜ起きないのかといえば、目の前に散らばっていた飴の包みを拾っていたからだ。カラフルな包みはヤスツナの物ではない。ならきっと降ってきた男が落とした物だろう。
見たことのある飴だ。魔界では割とメジャーで、ヤスツナもよく食べる。
「あー、えっと、ヤスツナ? もしかして死んだ?」
「死んでない」
困惑して少し慌てはじめた声に、思い出した様に返事をして体を起こす。
起き上がりながら体に付いた土を払い落していく。乾いた砂で助かった、あまり汚れが残らず済んだ。「だよな、さっき生きてたし」と男は勝手に納得して、勝手に安堵の息を吐いた。
落っこちてきたその男に、見覚えは無かった。緑の服に緑のキャップ。さっぱり覚えがない。いったいどこの誰なのか。なんで上に落ちて来たのか。気にならない訳ではなかったが、取り敢えず最後にてのひらに付いた砂を払った。
「これくらいで死ぬような軟な作りはしていないさ」
「なら良かった。あ、でもちょっと擦りむいてる」
男が手を伸ばし、ヤスツナの頬を指先で払った。
ぱらぱらと砂粒が頬を流れ落ちる感触と共に、細かい痛みが走った。なるほど、さっき倒れた時に擦れていたらしい。
「大したことはない」
「そーだろうけど。綺麗な顔してるし、なんか申し訳ないな。痕にならないといいね」
「ああ」と頷いてから、おやと疑問になる。普段直接容姿を褒められることがないものだから、後追いで言葉が迫ってきた。急に気恥ずかしい気がしてくる。
誤魔化すように口を引き結び顔を上げれば、言葉を吐いた本人は全く気にしていない様子で辺りを見回していた。
「ところで、ここって不夜城であってる? 荷受ってどっち」
「荷受?」
「お届け物」と脇に抱えていた小さな箱をさした。なるほど、宅配の業者だったのか。通りで見ない顔なわけだ。
「それならそこの道を延々行けば城に付く……その先はまた中で聞いた方がいい。ここからだと少しややこしいからな」
「どーも」
律儀に頭を下げると、男はヤスツナが指差した方へ歩きだした。
背中が風に吹かれながら遠ざかっていく。それを見送りながら、はたと思い出して「ちょっと待って」と呼びとめた。
「なに」と男が振り向く。真ん中だけやけに長い前髪が、風になびいて揺れている。ちょっとばかりそれに気を取られながら近寄り、手に持っていた物をさしだした。
「これ、あんたのか?」
飴の包みを受け取った男は、暫し考える様に観察した後、何か思い当たったらしい。あ、と声を上げて、少し笑った。
「この飴、俺初めて見たんだけど、魔界特有の物?」
「他で置いてあるのかは知らないが、魔界製だな。疲れた時に食べたりもするし、割と有名だ。というか、あんたのじゃないのか」
「いや俺のだよ。さっき貰ったんだ。ふうん疲れた時とかか、それで」
なにやら勝手に納得した様子で、男は飴の包みをポケット押し込んだ。それから帽子のツバを掴み、被り直しながらヤスツナの顔を見た。
まじまじと見た。
「拾ってくれてどーも。折角貰ったし、大事に食べるよ」
にこりと笑い掛けられて、形式的な会釈を返しながら妙な気持ちになった。
何か変な気がする。
十日 AM11:00
ヤスツナは今日休みだった。
アラームに起こされることなくのんびりと起き、簡素な朝食を取り、洗濯機のスイッチを入れ掃除機を掛ける。
それらの作業を一通り終えると、窓を開け放ち風通しが良い部屋の中でごろごろと寝そべっていた。このまま昼食の時間までゆっくりすることにしよう。
窓辺で風鈴が風にそよぐのを眺める。悪くない休日だ。そのままうとうととし始めた頃に、呼び鈴が鳴った。
来客の予定はないがいったい誰だ。実のところ、休日にわざわざ家に訪ねてくるような間柄の存在はほぼ皆無だ。まず客ではないだろう。
そういえば先日通販していた事を思い出した。到着予定日が今日くらいだった、ような気がするのでそれかもしれない。
玄関に向かう途中で「お届け物でーす」というのんびりした声が響いてきた。やっぱりかと思いながら玄関扉を開ける。開いた扉の隙間から風が抜けた。緑のキャップを被った青年が、ダンボールを脇に抱えて立っていた。
「えーっとヤスツナさ、あれ」
「あっ」
箱を差し出しながら顔を上げた、その顔には見覚えがあった。
半月近く前、突如ヤスツナの頭上に振ってきたあの男だ。金色の髪、風に揺れる長い前髪、緑掛かった灰色の瞳。
「この前の」と思わず指差せば「どうも」と律儀に帽子を取って頭を垂れた。
「配達業だったのか」
「前に会った時も配達してたでしょ」
「言われてみれば」
「まあいいや、はい荷物。宛名間違いなければここに判子」
「あ、ああ」
促されるまま送り状の名前を目で追って、玄関に置いていた判子を受領欄にぽこりと押した。
「どーも」と送り状の控えと荷物を手渡される。
荷物の受け取りだけならこれで玄関を閉めてお終い、で良いのだがなんとなくぼんやりしていた。青年の背後に見える空が青い。天気もいい、風も吹いている。
よくわからないがそれが画になると思った。眺めていると目が合う。
「そういえば、あの後体なんともなかった? 顔の傷治った?」
「あれくらいなんともない。傷もこの通りだ」
かさぶたもはがれ、もう何も残ってない頬を見せると、青年が表情を緩めた。
「痕になんなくてよかったね」
「当たり前だ」と頷いてから、変な返事だったと首をひねる。
なんとなく調子が出ない。天気も良くて風も心地よいのに変な感じだ。
この違和感はなんだろうと考えていると、青年がポケットを探って小さな紙切れを一枚取り出した。それを差し出される。なんとなしに受け取れば名刺だった。
「どこにでも荷物届けるから、良かったらひいきにしてね」
じゃーね、と言い残した青年の姿はいつの間にか消えていた。足が速いのかなんなのか。
名刺には何やら色々な肩書と共に、ジンソクと書かれていた。
そういえば何故ジンソクは、ヤスツナの名前を知っていたのだろうか。出会ってから名乗った覚えもないのに。ああ送り状の名前を見たのか。
見たのか?
十六日 PM7:30
ヤスツナが家に帰ると、ポストに紙切れが入っていた。
仕事を終え、夜空を見上げたりしながらふらふらと帰宅した。その時に一応と覗き込んだポストから白い三角がはみ出ていたのだ。
手紙が届くとは珍しい。どうせダイレクトメールだろうと引っ張り出すと、縦長で小さいぺらんとした一枚の紙だった。
不在票、と書かれた紙には前にジンソクに貰った名刺に押されていたのと同じマークが書いてあった。
ジンソクとはあれから(クッションにされたり名刺を貰ったりしてから)数回会った。といっても毎回がこの玄関先で、なのだが。
荷物を届けて貰って、受け取りの判子を押して、なんとなくちょっと話して。ただそれだけ、なのだが意外とそれが楽しみであったりもした。
ジンソクがやってきて、玄関の扉を開けると風が揺れる。開いた扉の隙間から心地よい空気が流れ込み、部屋の一番奥の窓から抜けていく。その風の流れが目に見えるようだった。
それはさておき、この不在票はなんなのだ。
ジンソクは荷物の配達予定時間にきっちり来る。なのでこんな紙切れを貰うのは初めてだった。そして今は、これといって届け物をされるような覚えがない。特に通販もしていないし、勝手にどこかから何かが送られてくる覚えもない。
なんの不在票なのだと思い目を凝らすが、どこからの荷物だとか、どんな荷物だとかは書いていなかった。記入する欄はあるくせに。
書いてあるのはジンソクの名前と、彼が使っているマークと、電話番号、それから備考欄に「電話よろ」の短い一言だけ。
不思議に思いながら部屋の中に上がった後、電話を取り出した。
書かれていた電話番号をプッシュしながら、仕事着を脱ぐ。電話を耳に押し当てながら上着をハンガーにかけ、愛刀を丁寧に所定位置に置き、ついでに部屋着に履き替えようと下を脱ぐ。
コール音を鳴らすことおよそ5回、相手が電話を取った。
「ジンソクです」という妙に眠たそうな声が聞こえてくる。電話越しに声を聞いたのはこれが初めてで、そわりとした。
名乗れば「あ」と声が起き上がって、がさがさと雑音が続いた。
不在票が入っていたがいったい何の荷物だ、どうしたんだ、これなんだ、とあれこれ言うことを考えていたのだが「今から行く」の一言を先に言われた。うえにそこで電話を切られた。訳が分からない。
無音になった電話を眺めながら首をひねる。今から来るといったが一体どこに居るんだ。何分後くらいにやって来るんだ。
これでは家から出られないではないか、と考えながら特に外へ出る用事も無いなと思い直す。晩飯でも作るとしよう。
と、思った瞬間呼び鈴がなった。
慌てて部屋着のズボンに足を押し込んで、玄関に向かい扉を開けばそこにジンソクが立っていた。
何となくいつもと格好が違う。心なしかラフで、帽子をかぶっていない。帽子の有無だけで随分と雰囲気が変わるものだと眺めていると、ジンソクがダンボールを抱えていないことに気が付いた。
配達に来たのではないのか、というか何故もう居るのだ。
「早かったな、近くに居たのか」
「家に居たよ」
「いえって、近いのか」
「結構遠いかな。常界にあるし」
とても簡単に言うがここは魔界だ。
二軒向こうから来たような早さだったが、いくら統合世界になったとはいえ魔界と常界は隣の家ほど近くない。もしやジンソクなりのジョークなのか、と頭を悩ませていると「あれ、知らなかったっけ」と首を傾けた。
「俺この能力生かして配達の仕事してるんだよね。だからどこでも直ぐに時間通りにお届けできるんだ」
「そうだったのか。全く知らなかった」
「話したような気がしてたんだけどな」
「初耳だ。本当に家から来たんだな、というか何をしに来たんだ? 配達じゃないのか」
「ああうん。遊びに来た」
「どうしてだ」
「今日は久し振りに配達の件数少なくってさ。昼から暇してたし、折角だからヤスツナに会おっかなって」
「それで、どうして不在票なんだ」
「昼過ぎに来たら居なかったから」
なるほど、とも確かに思うのだが釈然としない。
話しの筋は通っている、ような気がするが、どうしてそれでジンソクが家に遊びに来るのかが全くピンと来ない。そんなに気安い関係だっただろうか。嫌という訳ではないが、腑に落ちない。混乱の極みである。
「配達はないけどお土産あるよ」
ジンソクがどこからともなく白い箱を取り出して、ヤスツナの手を取って掴ませた。今まで手ぶらじゃなかったか? と疑問になる。渡されたのは両掌ほどの大きさの箱だった。ひんやりとしている。
「たまに甘い物取り寄せてるじゃん、だからケーキ好きかなって」
それ、と箱を指差される。よく見れば、見たことのあるロゴの入ったシールが箱に貼られている。美味しいらしいと噂をたまに耳にする、常界の洋菓子店のシールだ。
とりあえず、ジンソクを家に上げることにした。
いや別に流石にケーキ、いや手土産を持参されたのに、はいどうもと帰すのは気が引けた。それだけだ。なんだか分からないが細かいことを気にしても仕方がない。
相変わらず扉の隙間から、ジンソクの後ろから良い風が吹いてくる。それだけで、何も問題はない気がしてきた。
「おじゃましまーす」と律儀に挨拶をしながらジンソクが靴を脱いだ。迷いなく三和土を上がる姿に妙な慣れを感じたが、気のせいかもしれない。
大事にケーキの箱を抱えながら居間へ向かう途中、肩をつつかれた。
「ヤスツナ」と呼ばれもしたので振り返ると、ジンソクがやけに近いところに居た。
おや意外と睫毛が長いな、などと思っていたら肩を引かれ後ろを振り向かされる。何故こんなにジンソクの顔が近いのだ、と思考停止をしているほんの一瞬の間に、唇に何か触れた。柔らかく押し付けられて、そしてジンソクの顔と一緒に感触が遠ざかる。
ここで驚いてケーキの箱を取り落さなかったことは称賛に値すると、後々思った。
なにゆえにキスをされたのか、全くこれっぽっちもさっぱり心当たりが無かったので、ヤスツナは驚いた顔のまま固まっていた。意外と嫌悪感はないな、とか思う余裕もない程だった。
対して仕掛けてきたジンソクはというと、ヤスツナの顔を見て首を大きく傾けていた。なんか変だ、とでも言いたそうな顔をしている。それから少し時間を置いた後に「あっ」と声を上げた。
「もしかして、今日って何日」
「十、六日だったような気がする」
「あー……」とバツの悪そうな顔をしながら「寝起きだったからかな」だとか呟いている。ヤスツナは相変わらず何のことだか全くさっぱり分からない。
「間違えた、ごめん」
謝られてさらに思考は混乱した。
謝られたし間違えられた。何と。何と間違えたんだ。
そうか間違えたのか、通りでキスなんていきなりされるわけだ、なるほど解決だ。と思わなくもないが、いったいどこの誰と間違えたんだ、という良く分からないもやもやに包まれる。ヤスツナと名前を呼んだくせに何と間違えたというのだ。
それが顔に出ていたのかは定かでないが、ジンソクは慌てて手を振った。
「誰かと間違えた訳じゃないよ」
「なら何を間違えたんだ。人にその、キ、キスをしておいて」
「ああキス云々は、えーと、今十六日だから……来週分かるよ」
「は?」
「何を間違えたかって言うと、まあ大体一ヶ月近く間違えた」
なんの話だ。
そう思いながら結局晩ご飯をご馳走し、食後に二人でケーキを食べた。
ジンソクは「折角夜に来たのに今日は帰るしかない」と言い残してその後帰った。
どういうことだ。
二十二日 PM10:00
その日ジンソクがやってきたのは夜も遅い時間だった。
いや別に、来週分かると言われたものの、ジンソクが来ないことには何の話か分からないじゃないかと思い、ついつい欲しいと思っていた雑誌をわざわざ通販した訳ではない。
呼び鈴に落ち着かない気持ちで玄関を開ければ、封筒を抱えたジンソクが立っていた。そこは予定通りなのだが、今日は開いた扉から風が流れて来なかった。変だ。
「あーっと、はい、判子」
ここ、と受領欄を指差される。
元々ジンソクはあまり声に張りがあるタイプではなかったが、今日はより一層だ。瞼は重そうだし、声どころか喋り方もふらふらしている。言葉の後に深く息を吐く苦しそうな音も聞こえる。随分体調が悪そうだ。
受領印を押しながらジンソクの顔色を伺う。この前の事を聞こうと思ったのに、もうそれどころでもない。
「体調悪そうだが、大丈夫か」
「あーうん。ちょっと最近、面倒な仕事立て込んでて」
「顔色酷いぞ」
「そんなに」
「かなり」
今すぐ寝てくれ、と言いたいくらいの顔色だ。
風邪の類ではなさそうだが、疲労が色濃い。この後配達の途中で倒れるんじゃないか。考えただけではらはらする。
「疲れているなら休んで行ってもいいぞ。この後がその、立て込んでいなければな」
提案したあとに気付いては遅いが、流石に出過ぎた申し出だったかもしれない。いまいちジンソクとの距離感が分からない。そう言えば好きに場所を移動できるようなことを言っていた。それならば家に帰って休んだ方が早いのでは。
考えていると、ジンソクの灰色の瞳と目が合った。息をのむ。直ぐに視線はほどけて、ジンソクははあと息を零した。
「お言葉に甘えようかなあ」
さっと片付けを済ませ、部屋に上げる。
とりあえず寝て貰おうと思ったのだが、来客用の布団という物が無かったのでシーツだけ掛けかえた自分の布団を貸した。
「これじゃヤスツナはどこで寝るの」という疑問を呈しながら、ジンソクは倒れるように寝た。本当にばたりと倒れて、即寝息をたてはじめたのでかなり驚いた。随分疲れていたらしい。この状態を見ると、休んでいけと声を掛けて良かったと思う。掛布団をかぶせた後、ヤスツナは隣りの部屋に移動した。
そういえば先週のあれがなんだったのか聞き忘れた。
まあ仕方ないと、気を逸らす為にも刀の手入れを始める。これが一番集中できる。からりと静かに窓を少しだけ開け、夜風を部屋に流しながら刀を抜く。
じっくり手入れした後、となりの部屋を覗き込むとジンソクはまだ眠っていた。あれから一時間と少し。まああの疲労具合なら朝まで起きなくても不思議ではない。
起きた時に直ぐ食べられる物でも作っておくか、と台所に向かう。何かしていないと落ち着かない訳で決してはない。
それにどこで寝たら良いのか分からないのだ。ジンソクのとなりで寝るわけにもなあと考えながら、冷蔵庫を覗く。簡単に食べられて栄養がありそうで疲れた体に良さそうなもの、雑炊あたりならどんな不調でも食べられるだろうか。材料を見繕って包丁を握る。
一人用の小さい土鍋を火にかけことことと煮込み、そろそろいい具合だなというところで寝室の襖が滑る音がした。髪の毛をあっちこっちに跳ねさせた、まだ眠たそうなジンソクが欠伸をしながら立っていた。
「おいしそうなにおいがする」
「雑炊を作ったんだけど、食べられそうか」
もうひと欠伸しながらも頷いたので、火を止め鍋ごと食卓に移す。取り皿を出している間にジンソクは座布団の上に座っていた。まぶたの動きはゆっくりだし、気を抜けばまた寝そうだ。
「熱いから気を付けて食えよ」
「はーい、いただきます」
直後、取り皿を無視して土鍋から直にすくって口に運んだものだから、火傷するんじゃないかとはらはらした。だが全く熱そうな様子はない。ごく普通に黙々と食べすすめている。熱いのには強いのだろうか。
それにしても絶妙なタイミングで起きて来たものだ。即寝落ちするほど眠い上に、雑炊の匂いで起きてくるほど腹が減っているとは。どういう生活をしているのか心配になる。
スプーンをくわえたまま、ふとジンソクがヤスツナの顔を見た。食べているうちに目が覚めて来たのか、眼差しがしっかりしている。
「ヤスツナは俺に親切すぎない?」
「いきなりなんだ」
「荷物を配達してくるだけの俺に布団貸してご飯作ってくれる、のはちょっと親切過ぎでしょ。いっそ心配になるくらいだけど、六魔将の余裕? とかなの」
これには流石に絶句した。
荷物を配達してくるだけ、といったか。いきなり遊びに来てケーキ持ってきて、晩飯食べてその上。
「先週いきなりき、キスしてきたくせに、だけとはなんだ」
「先週?」
ジンソクは全く身に覚えがない、という様な顔をした。
記憶するに足らないくらいの出来事だったのか。それともいちいち覚えていられないほどだというのか。しかし先週は誰かと間違えた訳じゃないとかなんとか。
訳が分からない、と思うのも既に何度目か。
ジンソクは考える素振りを見せながらも、雑炊を食べる手は止めなかった。綺麗に空にして「ごちそうさまでした」と言ってスプーンを置くと、何か思い当たったようだった。
「あー、なんとなく把握した」
「なにをだ。説明してくれ」
「今はちょっとムリ。でもいきなりキスしてきた相手をまた家に上げて親切にしてくれるってことは、ヤスツナ俺のこと好きなの? じゃあキスしよっか」
「先週はいきなりしてきたくせに! なに、を今更」
「まあまあ、お礼ってことで」
「お礼にならないだろ」
「じゃあ俺がしたいからで」
「じゃあってなんだ」
問答を繰り返している間に、机に手を付いてジンソクが身を乗り出してきた。
慌てて仰け反ると襟を掴まれる。
「イヤじゃないならいいんじゃない? キスくらいでどうしたの。カッコイイ顔してる割に経験少ないとか?」
「は」
「図星? まあ俺はどっちでもいいけど」
掴まれた襟が引っ張られる。ジンソクの顔が近付いてくる。
どうしてこんなことに。
二十六日 PM2:15
ヤスツナは書類を睨んでいた。
こいう事務処理は好きでないのだ。しかし机の上には書類がたまっていて、近くの席では部下が見張っている。早く確認して判子を押せという圧力を感じる。
「今日は風の具合が悪い」と逃げようとすると「良いからそれが終わるまで動かないでください」と言って遮られた。渋々書類に目を通す。六魔将という立場も楽ではない。
判子を押すなら受領印の方がいい、などとぼんやり思いながら、どうにかこうにか書類を片付けていく。判を押したそばから部下が回収してさばいていく。こういう堅物で真面目そうなやつは、ライキリの方にでも付いていてくれればいいものを。
「すんません、荷物届いてます?」
いきなり扉が開いて、みたことがある様なない様な顔のやつが入ってきた。部屋の中を見回して何かを探している。
「荷物って」と部下が返答した。
「今日の午後の配達で届く予定のやつなんですけど」
「午後はまだ引き取りに誰も行ってないな、まだ荷受じゃないのか」
「マジすかー、仕方ない自分で行くか」
「なら俺が行ってくる」
ここぞとばかりに持っていたペンをぽいと放りだし、席を立った。
「ヤスツナさんはまだ仕事あるでしょ」
「風が俺を呼んでいる」
「呼んでません」
捕まえようとしてくる部下の手をすり抜けると、足早に部屋を出た。部下の怒鳴り声が聞こえてくる気がしたが、これは空耳だったことにしよう。
長い廊下を進み、荷受けへと向かう。
事務処理に飽き飽きしていたので丁度良かった。それに配達ということはジンソクが来ているかもしれない。確か最初に見た時もここに配達に来ていたはずだ。
どれ程の配達をジンソクが担当しているのかは知らない。でも居たら運がいいし、居なくてもあそこから出てこられただけで気分転換になった、ということで良しだ。
暫く歩いて荷受に着くと、辺りを見回した。さてうち宛ての荷物はどこに。
実はここに引き取りに来るのは初めてなのだ。どういう分類で荷物が積まれているのかも分からない。
人を捕まえて聞いた方が早いなと思い始めた頃、ジンソクの姿を見付けた。荷受けの担当だろうか、誰かと喋っている。ので、取り敢えず近寄って声を掛けた。
「午後の配達の、うち宛ての荷物はどこだ?」
「うわっヤスツナさん! なんでヤスツナさんがわざわざ荷受けに?」
「荷物探しているやつが居たから、引き取りに来た」
「いえ、六魔将ともあろう方がなんで引き取りにと……」
「そういう日だってある。ああ受け取りはやっておくから、戻って良いぞ」
軽くあしらうと、担当は渋々離れて行った。別の業務に戻りながらも、様子を伺ってくるのが見える。まあ大した問題ではない。
「えと、誰でもいいんすけど、荷物の確認してもらっていっすか」
「分かった。ちょっと待ってくれ」
差し出されたリストを見ながら、ジンソクの後ろに積まれている荷物をざっと確認する。ついでに、さっき彼が探していた荷物と思われるものも見付けたので確保する。
確認を終え、受領書に判子を押す。いつもと同じ作業なのだが、職場でとなると妙な気分だ。
「ここで会うのは新鮮だな」
「はあ」
受領書を返しながら笑うと、ジンソクは気のない返事で首を傾けていた。
なんかいつもと違う気がする。まじまじと見詰めれば「なんすか」と眉を寄せた。この前会った時も調子が悪そうだったが、今日も随分顔色が悪い。
「大丈夫か、顔色が悪い」
「あー、最近忙しいっすからね」
「まだ調子悪いのか」
あまり良くならないとなると、風邪かはたまた別の病気なのだろうか。俄かに心配が募って、手を伸ばしジンソクの額に触る。
「熱は無いな。風邪じゃないか」
「ちょっと疲れ溜まってるだけなんで、へーきっすよ」
それなら良いが。
それにしても今日は妙によそよそしい。いったいなんなんだ。仕事モードなのだろうか。でも仕事と言えば自宅に配達に来るのも仕事じゃないのか。
変な感じだなと思いながら、ポケットを漁る。
「もう行ってもいーっすか。配達まだあるんで」
「ちょっと待て」
帰ろうとする腕を掴んで引き留める。ポケットから飴の包みを引っ張り出し、封をあける。黄金色の飴玉を摘まんで、ジンソクの口に押し込んだ。
いきなりだったからか大層驚かれた。後ずさられて身構えられる。これはちょっと傷付く。
「え、なに」
「ただの飴だが、疲れた時に食べると少し楽になる。前に持ってただろ」
「飴?」
もごもごと口を動かすと「ほんとだ甘い」とわずかに表情を和らげた。
「流石にここじゃ寝て行けというわけにもいかないからな。これくらいしかやれないけど」
隠し持っていた飴を全部取り出して、ジンソクの手に握らせる。不思議そうな顔をして包みを眺めていたが、しばらくすると顔を上げた。頬が飴の形に少し膨らんでいるのが愛らしかった。
「すごい俺のこと気遣ってくれるけど、そういう性分なの?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあ、俺のこと好きなの?」
「そっ、」
「そんな訳ないか、会ったばっかだしね。じゃあまたね」
ぺこりと頭を下げるとジンソクは姿を消した。一瞬で居なくなり、代わりに風が吹く。相変わらず綺麗な去り方だ。風も心地よい。
いやいやそうではなく。
今なんて。
二十八日 PM7:00
考え込むこと二日間。特に結論は出ていない。
今日も仕事を終え、家に戻り風呂に入り出て、居間で愛刀の手入れをする。
そのルーチンをこなしながら、ジンソクの発言が頭の中を行ったり来たりしていた。愛刀の手入れは一番無心になれることの筈なのに、さっぱり頭の中身がなくならない。
やはり何か変だ。
一昨日の不可解な発言を皮切りに、過去へと記憶をさかのぼっていくとまあ色々とおかしい。最初からおかしかったと言えばおかしかったが、一昨日の事を踏まえると、とある仮説が成り立たなくもない。
しかしこれ以上考えたところで仮説の域を出ないし、この仮説も突拍子が無い気がする、ような気がする。
刀の手入れを終えたところで、腹が空いてきた。夕食でも作るかと台所に立ち、包丁を握る。そして少しばかり多めにおかずを作った。
夕食の支度が整ったところで、電話を取ってくる。前に貰って捨てずに取ってあった不在票を発掘し、書かれていた電話番号にかけた。
電話は直ぐにつながった。
「あれ、配達今日は無いけど。どしたの」
「いやその、晩飯まだだったら食べに来ないかと」
「行く」と一言、電話が切れる。代わりに呼び鈴が鳴った。相変わらず本当に早い。
もしかしたら別の人かもしれない、とは思ったが玄関を開けた先に居たのはやはりジンソクだった。
「相変わらず、すぐ来るんだな」
「そういう能力だしそういう売りだから。あ、良い匂いする」
聞きたい事は色々とあったが、まずは家に上げる。お腹が空いてきたとこぼしながら、ジンソクが慣れた様子で座布団に座った。今日はいつものジンソクらしい。
食卓の支度を整え、箸を握る。即席で作った煮物の割に上手く出来たなと心の中で自画自賛していると「あ、おいしい」と向かいから聞こえてきた。褒められるとこそばゆい。箸を進める姿を伺い見る。
「今日は顔色良さそうだな」
「やっと仕事が一段落して落ち着いたからね」
「そうか、それは良かった」
そのまま夕食を食べ終えて、食器を洗い片付け終わる。
話しを切り出すタイミングを見事に見失った。
尋ねる前に帰ってしまったらどうしようかと思ったが、ジンソクは居間でごろごろしていた。凄く寛いでいる。我が家か。
「仕事はその、かなり忙しかったのか」
「まあね。今回はちょっと面倒なのが重なって、酷い目にあった」
「もういいのか」
「もうちょこっとだけ残ってるけど、ほとんど落ち着いたよ」
「ところで、一つ聞きたいんだが良いか」
「いいよ、どしたの」
「直ぐに来るのをそういう能力と言っていたが」と、一旦言葉を切る。少しためらった後、結局率直に尋ねることにした。
「もしかして時間も移動してないか」
口にしてから恐る恐る顔を伺うと、ジンソクは目を丸くしていた。突拍子も無さ過ぎて呆気にとられているのだろうか。そうだよな流石にそんなわけがないか、と思ったのだが、彼はけらけら笑うと口元に人差し指を当てた。
「内緒ね。けっこー秘密だからこれ」
「ほ、本当にそうなのか」
「喋っちゃダメだよ。ばらされるとちょっとメンドイ」
「言いふらしたりはしないが……」
言いふらす先もこれといってないし。
だがこれでジンソクの言動の不可解な部分にも納得がいった。どういう順序だったのかまでは知らないが、少なくとも一昨日がジンソクにとっての初対面だった、ということなのだろう。
随分時間を移動しているものだ。
むしろ順序良く会っていたことの方が少ないのではないか。いきなり親しくなるし、いきなりよそよそしくなる。訳が分からないことばかりなはずだ。
そういえば、最初にキスされたときは一か月後がどうとか言っていた。あの時はもう随分親しい様子だったが、あれはいつ頃のジンソクだったのだろう。
「今はどうなんだ、また時間移動してきてるのか?」
「今はリアルタイム」
「そうか。ならその、日時を間違えてやってきていきなりキスしてきた覚えはあるか」
「え?」
ないのか。
ということは、あれはまだ先のことなのか。
もうめちゃくちゃだ、訳が分からない。思わず顔を覆う。
ジンソクが転がってきて「どしたの」と問い掛けながら腕を引っ張ってくる。顔を見ようとしないでくれ。
この先、割と近いうちに、訪ねてきたジンソクと挨拶の様にキスをするようになる現実に気付いてしまったところなのだ。顔が熱い、いい加減にしてくれ。
「頼むからちゃんと時間通りに来てくれ、段階がめちゃくちゃだ」
「段階って、ああ。ヤスツナってほんと顔カッコイイ割にそういうの初心だね。恋人居たことないの?」
「よ、余計なお世話だ」
「あーでもそういうところ嫌いじゃないよ。むしろ好きかな」
「もうかんべんしてくれ」