(ジンヤス)
今日の配達分は全て片付いたことだし、そうだヤスツナの家にでも行こう。
ジンソクがそう思ってから行動に移すまでは早かった。なにせ一瞬で移動できる。一度自宅へ帰り、仕事着を脱ぎ捨てると楽な格好に着替えた。仕事着も別に窮屈ではなかったが、そのまま眠るには向いていない。かといってパーカーも眠るのに向いている訳ではないが、なんとなく若干マシな気がした。
着替えついでにシャワーを浴びていくかを少し悩み、直ぐにヤスツナの家で借りればいいかと思い直して靴を履く。まずは会うのが先でいいや。
玄関の施錠を確認しながら、着地先を考える。直接玄関前に飛んでもいいのだが、若干腹が減っていた。肉まんでも買ってから行こうか。ヤスツナの家には直ぐ食べられる物だとか、ジャンクな食べ物だとかの買い置きが極端に少ないのだ。一人暮らしの割に、そういう物が少ないことがジンソクには信じがたかった。まあ毎回料理を作って出してくれるのは有難いことだが。
だがやはり、晩飯が出来るまで待つとなるとこの腹の減り具合では少しつらい。
そんなことを思いながら移動した。
結局ヤスツナの家から少し離れた場所に飛び、肉まんを買った。
かじりながら時計を確認すると、思っていたよりも早い時間帯だった。ヤスツナが家に帰って来るのが、大体このくらいの時間だと思う。それも不在票を入れた場合、この時間に電話が掛かってくることが多いというだけだ。正確な彼の帰宅時間は知らない。それでもここから歩いて移動すれば、丁度良い頃に着くだろうか。
日が急速に傾いて、夕暮れの赤から夜の青に移り変わっていく。肉まんの最後の一口を平らげると、視界のかなり先の方に見慣れた影が映り込んだ。奥の路地から出てきて、ジンソクの進行方向と同じ方へ歩いて行く。目を凝らしてみると、丁度いいことにヤスツナだった。しかし姿は見えるものの距離はそれなりに離れている。走って追いかける事も出来るが、ちょっと面倒なくらいの距離だ。
少しだけ悩み、やはり飛ぶことにした。
地面を蹴り、ヤスツナの少しだけ後ろに着地するように狙いを定めて移動する。瞬間、景色が切り替わり、ヤスツナの緩くうねる金色の髪がすぐ目の前に迫った。
さて声を掛けようか肩を叩こうか。
伸ばした手が肩に届く前に、ふっとヤスツナの背が遠ざかった。代わりに正面から強い風が吹いて、首元に小さい痛みが走る。
気付けば首元に刀の刃が添えられていた。勿論その刀を掴んでいるのはヤスツナだ。さっきまで刀は肩にかけた鞘に納まっていた。気を抜いていたにしても、いつ抜刀したのかまるで見えなかった。思わず目を丸くする。ヤスツナがすっかり夜の色に切り替わった明かりの中で、緑の瞳をぎらぎら光らせていた。
その一瞬後、背後に立っていたのが誰かを確認したヤスツナが「なんだ、君か」と表情を崩した。
「奇襲かと思ったぜ」
安堵に息を深く吐くと、刀を鞘に納めた。一連の流れる様な動作を見守ったのち、ジンソクは思い出した様に「驚かせて悪かったよ」と謝った。ヤスツナもああいう顔をすることもあるのか、と今更ながらに思った。
「いや俺の方こそ悪かった。普段なら勘違いしたりしないんだが」
「なんかあったの」
「まあな。少し嫌な仕事をしてきた」とヤスツナは無理矢理に笑った。「今は出来れば君には見られたくない時だった」
鞘を肩に掛け直しながら地面に視線を落とすと、深呼吸を繰り返し彼はなんとか表情を緩めようとしているようだった。だが未だに目だけが暗がりで鈍く輝いている。一度強く目を閉じると、取り繕う様に顔を上げた。さっきよりは少しだけましな笑顔になっていた。
「ところで何の用だったんだ。配達か?」
「いや、遊びに来ただけ」
「そうか。なら夕飯は」
「まだ」
「じゃあ帰ったらまずは夕飯だな」
何が食べたい、とこっちを向いたヤスツナの視線が首元に吸い寄せられた。かと思えば指先が伸びてきて、首に触れる。少し痛い。そういえばさっき切れたのだった。
「すまなかった、怪我をさせるつもりはなかったんだが」
「ちょこっと切れただけだし平気だけど」
「でも少し血が出ている」
切り傷をなぞった指先には確かに血がついていた。それでもほんの少しだ。擦りむいたのと変わらない。手当てすら必要ないくらいだろうから、気にするほどじゃない。
ヤスツナは難しい顔をしたまま、血の付いた指先をまじまじ眺めた後、ぺろりと舐めた。「普通の血の味だな」
「なあヤスツナ、セックスしようか」
「は」
「あんた今そういう顔してる」まだ目がギラギラしている。
緑の瞳がジンソクを見た。ついさっきまで戦いに出ていたんだろうなと分かる顔だ。そういう顔だ。まだその衝動がくすぶったままの顔だ。
それでもまあ、すぐに頷いたりはしないだろうと予想していた。のだが、ヤスツナが面白そうに笑ったのでジンソクは面食らった。
「悪い誘いじゃないな」