明日の夕食

(ジンヤス)

 

 

ヤスツナの家を訪ねるのが半ば日課になった頃だ。

配達の仕事を終え、夕食の時間帯に間に合いそうならば訪ねる、そうでないならまた明日。とはいえ夜遅くなった時でも、なんとなくふらりと訪ねることもあった。まあ気分である。
初めの頃は何を喋っているんだか分からないような変な奴だったが、暫くした頃から会話が成立するようになった。今でも放っておくと一人で喋っていたりするが、それほど気にならなくなったのは慣れなのかなんなのか。まあなんでもいいが、ヤスツナの作る飯が美味い。飯が美味いのだ。
他に飯を作って提供してくれる相手も居ないので、ヤスツナが特に上手なのかそうでないのか比較は出来ない。だがジンソクにとっては美味しい飯だ。それに変わりはない。最近では少し作り方を教えてもらうようになった。簡単なものから教わって、レシピが複雑になってくると手書きのメモをくれるようになった。それを見ながら家でもたまに料理を作る。しかし結局、ヤスツナが作った方が圧倒的に美味いのだ。なのでつい家を訪ねてしまう。
今日は仕事が早く終わった方だった。夕食時に間に合うかは微妙な時間だが、ヤスツナのことを考えていたら腹が減ってきたし、顔が見たいような気がしてきた。あの妙に綺麗なヤスツナの顔。無音声にすると絵画である。好き勝手に喋らせておくと何を言っているか分からないことが、ただ残念だ。会話をさせれば割と普通。ぐうと鳴った腹を押さえる。
自らの能力を使用して、瞬間的に魔界まで移動した。
すっかり見慣れた玄関を前にして、呼び鈴を押す。ぴんぽんと軽い音が中から響いてくる。今日はまだ飯の匂いがしない。これは支度前かもしれない。そうしたら二人分の飯を作ってもらおう。もし早めに食べて綺麗に片付け終わった後だった場合は、困ったな、どうにか口説いて作ってもらうしかない。
今日の飯はなんだろうなとわくわく待っていたが、さっぱりヤスツナが出てこない。首を傾げながらもう一度呼び鈴を鳴らす。待つ。出てこない。
おかしい、と思いながら携帯電話を取り出し掛ける。コール音が鳴る、家の中から微かに着信音が聞こえる。しかし一向に電話を取らない。帰ってはいるらしい。ならどうして出て来なければ電話も取らないのか。
一旦電話を切りポケットにしまうと、代わりに鍵を取り出す。銀色の有り触れたデザインの鍵だ。それを玄関のカギ穴に差し込んで回す。能力を使えば家の中に飛ぶことも可能なのだが、折角貰ったので使わない理由もない。結構前に貰った合鍵を、こうして実際使うのは初めてだった。なんとなくどきどきとした。
前に面倒なので直接家の中に飛んだ時に「君は素直に玄関から入って来られないのか」と苦言を呈されたことがあった。あの時は土足だったので、家の中に足跡を付けたところに怒ったのだろう。あれは反省した。次から靴を脱いで手に持ってから移動するようにしたら大層呆れた顔をされた。それから暫くして合鍵を貰った。
家の中は暗かった。外はもう日が傾いて薄暗くなっている。建物の中では真っ暗に近いくらいだ。
「ヤスツナー」
家主の名前を呼びながら靴を脱いで三和土を上がり、慣れた調子で家の中を進む。「居ないのか」と居間の電気を付ける。全く返事がない。明るくなった部屋の中をぐるりと見回すと、低い机の向こうでヤスツナが転がっているのが見えた。
なんだ寝ていたのかと息を吐くが、近寄るとどうにもおかしいことに気付く。寝ているというより、倒れているような気がする。無造作にうつ伏せになっている。無性に不安になってきて駆け寄り、肩を叩くが反応がない。さっと血の気が引く感じがした。慌てて抱き起すと、顔の右半分程がうっすらと血の滲んだガーゼで覆われていて余計に青くなった。
「ヤスツナ!」と再度名前を呼び、体を揺する。こういう時は揺すらない方がいいのかもしれなかったが、気が回らなかった。なんだこの怪我は。もしかして死んでないよな。
脳みそが混乱を極めて来た頃、んんと唸ってヤスツナが目を開けた。緑の瞳がぼんやりと覗く。片目だけできょろきょろと周りを見回すと、ジンソクの顔に焦点を結んだ。
「じんそく?」と不思議そうにつぶやいた。
何ごともなかったように起き上がっると一つ大きな欠伸をした。じんそくの口から盛大なため息が出て行った。なんだ寝ていただけかと、
「君が居るってことはもう夕飯時か。思ったより寝てしまったな、というかどうしたんだ、顔色が悪いぞ」
「ヤスツナが死んだみたいに寝てるからだろ。どうしたのその怪我」
「これか。昼間に少しへまをしてしまってな。目の上あたりがパックリ切れただけで大したことはない」
「だけって。そんな大きなガーゼ貼り付けて血も滲んでるのに?」
「もしかしてまだ血が止まってないのか?」
「や、分かんないけどガーゼ赤いよ」
「それは困ったな、取り替えるか」
やれやれといった様子でヤスツナが隣りの部屋に行くと、箱を抱えて帰ってきた。救急箱のようだ。中からガーゼの替えや消毒液を取り出す。「鏡」と呟いてまたどこかに行こうとしたのでとっさに引き留める。
「替えたげるよ」
「それは悪いぜ、と言いたいところなんだが、そうしてもらえると助かる。どうも片目だけだとやり辛くて仕方がないんだ」
「じゃあ座って」
素直に正面に座り直したヤスツナの顔に手を伸ばす。恐る恐るガーゼを剥がすと、確かに目の上が切れていた。思ったより大きい傷だ。痛々しい。なんか、苦しい。
「うわ、これ病院とか行った方がいいんじゃないの」
「見た目ほど大した傷じゃないんだぜ。位置が悪かったから血がどばっと出ただけだ」
「どばっと出てんじゃん」
「でも浅いし見た目ほど酷くはないんだ。暫く血が止まらなくて流石に今日は仕事にならないから、昼で切り上げて帰ってきたけど。数日で良くなる程度だ」
「ウソだろ」
「君が思うよりも、魔物はタフなんだぜ」
目を閉じて傷を消毒されながらヤスツナはくつくつと笑った。全然面白くない。
傷自体は塞がりかけていたが、まだ少し血が滲んでくる。乾いて貼りついた血を優しく拭きとり、塗り薬を付け新しいガーゼで上から覆う。テープで固定したあと、ガーゼの上から傷口近くに口付けた。「なんだ?」とヤスツナが言うので「出来たよ」と返事をすれば目を開けた。
「有難う」
「どういたしまして。まだ少し血が出てたから大人しくしてた方がいいよ。てか、その傷でうつ伏せで寝るってバカだろ」
「いやあれは、ちょっとくらくらして取り敢えず寝ようと思ったら、ああなっていただけで」
「それ気絶したんじゃないの」
「いや、きちんと眠った」
どうしてそこで胸を張るんだ。「本当に大丈夫なわけ」
「平気だ。これくらいかすり傷程度だ」
「ウソ吐いてない?」
「……かすり傷は言い過ぎたな。切り傷だ」
「ああもう」分かった、と溜息を吐く。とぼけている訳でもない様子なので、本当に大丈夫なのだろう。なんだかやけに疲れた。背中を丸めていると、思い出した様にお腹が鳴った。ヤスツナが笑う。
「飯にしようか。今から作るから暫く待っていてくれるか」
「いいよ、今日は。怪我人に作らせるのは気が引ける」
「本当に大したことないから気にするな。それに食べない訳にもいかないし、簡単なものになるがすぐに」
「だから、俺が作る。ヤスツナは待っててくれればいいって」
そう提案すると、ヤスツナが驚いた顔で固まった。まさか、と顔が言っている。まさか料理を作れるのか本当に大丈夫なのか、という顔に見える。失礼な話だ。
「教えて貰って料理するようになったんだ、これでも」
「そうだろうが、その。君に作らせるのは何というか、申し訳ない」
「いいから、そこ動くなよ」
まだ何か言いたそうな顔をしていたが無視して台所に向かう。
ここで料理をしたことはないが、普段ヤスツナが料理をしているのを眺めているので勝手は知っている。冷蔵庫を覗き食材を確認する。何を作ろうか、というか何なら作れるだろうか。
食材はかなり詰まっていた。これなら何でも作れそうだ。そうだ親子丼にしよう。卵料理の応用編として、ごく最近教えてもらったところで記憶に新しい。材料をそろえ、棚から包丁を取り出す。気分の問題で腕まくりをする。
包丁を握り、鶏肉を一口大に切り分ける。玉ねぎの皮をむく。あれ、玉ねぎってどうやって切っていたっけ。教えて貰った時はどうだったっけ。サクサク切っていた気がする。そこまで細かく見ていなかったな。早速つまづいた。なんとも面目ない。
首をひねってどうにか記憶を呼び戻そうと奮闘していると、背後から手が伸びてきてするりと包丁を奪い取られた。
「こら、大人しくしてろ」
「見てるだけというのはどうにも落ち着かなくて」
「片目しか見えてないんだから危ないだろ、ほら包丁返して」
「これでも刃物の取り扱いに関しては君より心得があるからな。片方見えないくらいで不安定になるような鍛え方はしてないぜ」
「そりゃそうだろうけど」
「それに、作り方忘れただろ」
「わ、忘れてはない」
「そうか」
くすくす笑うとヤスツナが玉ねぎをさくりと刻んだ。ああそれそれと思う形にあっという間に切られる。材料を見て「親子丼か」とあっさりと言い当てられた。「この前教えたな」と声が楽しそうに転がって、妙に胸が苦しくなった。
「君は卵を溶いてくれ」
「といて」
「ボールに割って、混ぜて」
「ああ、あれ」
棚からボールを取り出し手渡される。そこのに卵を割って入れた。最近殻が入らなくなったのだ、ちょっとは上達した。ヤスツナが教えるから。
ヤスツナはジンソクの左側に立っていて、こっちからではガーゼに覆われた方しか見えない。痛々しい傷と滲む血と、うつ伏せになった背中を思い出す。さっきから、苦しくて仕方ない。なんでこんなに苦しいんだ。
表情は見えないが、ヤスツナが料理をする手元は見える。包丁を置いて菜箸に持ち替えて、鍋を火にかける。
「君に作ってもらうのはまた今度にするぜ」と笑われた。
ジンソクに料理を教えたのはヤスツナだ。包丁の握り方も、材料の刻み方も、食材の組み合わせも調味料も、調理器具の名前も、全部知らなかった。知ってしまうとどうやって知らないで生きて来たのか分からない。当たり前に毎日繰り返す作業だ。
それを教えたのは、ヤスツナだ。
ガーゼに覆われた右目を見る。胸が絞られて息が詰まる気がした。
「どうしてくれるんだ」
お前がいつか死ぬかもしれないことに気付いたじゃないか。