(アリシュレ)
あれは寒い日のことだった。
季節は冬、気温は低い、雪が降っていたかもしれない。あまり景色を覚えていないのだ。ただ、自分の吐息が目の前で煙って漂って、視界を遮って、邪魔だと思ったことは覚えていた。たゆたう冬の吐息の向こうに広がっていたのは、美しい程に凄惨な光景だ。
あるのは一面の赤と黒の濁った絨毯。その真ん中で一人少年が立っていた。赤色を滴らせる刃物。少し長い金色の髪が風にのって揺れる。青白い顔がこっちを向く。きらきら輝く蒼い瞳と目が合った。
あまりに鮮烈な光景だった。何年も経った今でも鮮やかに思い出せるくらい、強烈な衝撃を持ったイメージだった。
しっかりした足取りで死体の山を踏み越えて少年が歩いてくる。目の前まで来ると立ち止まる。低い背丈。見上げてくる青の瞳。値踏みするような視線。
ただその光景を見ていた。眼前で、直ぐそこで、目の前で起きている光景なのに遠い景色のようだった。フィルムの中の映像のようだった。映画の様な少年は唇に人差し指を当てた。内緒、を暗示する仕草。
そしてその人差し指が伸びてきて、近付いてきて唇に触れた。現実だとその時囁かれた気がした。触れた指先は少し、血の味がした。
それから振られる刃。
初めて見たのはあの、クリスマスの日だ。
◆
教団に来てから少し経った。
勧誘され連れて来られ、小さなラボを与えられた。前に居た研究所に比べれば狭い部屋だったが、機材も何も過不足なく与えられていた。実験材料や資料を高く積み上げるタイプではなかったので、それで事足りていた。新しく提供されたこの場所に特に感慨も無かったが、不満も無かった。
けれど一つこの場所に、シュレディンガーが気になることがあったのは確かだ。
深く検討することもせず、二つ返事で付いてきたのには一応理由があった。
そして今、迷子になっていた。
ここで生活をするようになって、少しの時間は経ったが行ったことのある場所というのは限られている。主にラボの周りと、建物の敷地外への通路。それくらいだ。探検するような趣味はないし、探さずとも必要な物は揃っていた。うろつく理由がなかった。それに迷子になる様なタイプでもない。地図は読めるし通った場所を忘れたりはしない。
それでどうして迷子になっているかと言えば、人を追い掛けていたからだ。
シュレディンガーが長らく追い求めていた初恋の影が見えた。金色の髪、蒼色の瞳。あの姿が見えて、追い掛けた。どうして追い掛けたのかと問われると返答は難しい。話し掛けたかった訳ではない。かける言葉は持っていなかったし、会話がしたいわけでもない。ただ姿を見ていたくて追ったわけでも、勿論ない。
ここに来てから彼を見掛けたのはこれが初めてではなかった。前に一度だけ。来た初日に。少女と話している姿を遠目に見た。穏やかそうな笑みを口元に乗せる横顔を見た。その時に違和感を覚えたから、というのが追い掛けた理由としては一番近いように思われる。ただ正解ではない。
かすかに見えた後姿を静かに追い掛けた。瞼の裏にちらつく残像と、現実を重ねて認識しながら廊下を進む。教団の中には似たような扉の部屋が沢山あった。廊下は規則正しく並んでいるようで複雑だ。単調な道を進む。時折日の当たる場所にでる。あまり覚えていないが中庭の類だろう。
ぐるぐると歩き続けた結果、姿を見失った。ある角を曲がったところで完全に姿が見えなくなった。近くを歩き回ってみたが見当たらない。それどころか他の誰の姿もない。いつの間にか薄暗い場所に居た。地下かもしれないし、建物の奥まった場所かもしれない。どこだかはまるで見当がつかない。
足を止めて暫し考え込む。もう少し記憶を整理すれば自力で戻れるような気もする。それにしても、あの後姿はどこへ行ってしまったのか。この奥にも何かあるのか。何が、あるのか。
視線を足元に落として考え込んでいると「迷子?」と耳元から声が聞こえてきた。驚いて飛退き、背後を振り返る。あんなに近付かれたことに気付かなかった。状況整理のために脳みそが走る。
背後には、シュレディンガーが追いかけ続けていたその人が立っていた。
何故、という疑問で頭の中が埋まる。
「そんなに驚かなくても良いのに」とアリトンが笑った。綺麗な笑みだ。シュレディンガーが身構えたのを見て両手を上げてひらひらと振った。そういう意思はないよ、と言いたいようだ。
「君のラボってさ、このへんじゃないでしょ。道の真ん中に突っ立ってるから、迷子なのかと思って」
この時、アリトンがシュレディンガーのことを知っていることが少し不思議だった。けれどそういうものなのかもしれないと思い直す。彼は西の魔王だ。何も知らない下端ではない。誰が教団にやってきたのかくらい知っているかもしれない。それにシュレディンガーも、水才の冠を持つ存在だった。一介の教団員とは違うのだろう。
「君のラボまで案内してあげようか?」アリトンが目を細めて微笑む。シュレディンガーは返事をしなかった。あの時喋ることをやめてから言葉を口に出した事はなかったし、今も必要性を感じていない。走り書きの言葉を残したり、電子上に少しだけ言葉を乗せたりはするが、その程度だ。それでも首を振ることは出来る。だがそれもしないでいた、というより出来なかった。言葉をどう受け取ればいいのか分からなかった。案内、アリトンが、どうして。
ただ無言で微動だにせず、瞬きを繰り返しているとアリトンが背中を向けて歩き出した。その背中を見詰めていると、少し離れたところで振り返った。シュレディンガーと目が合う。
「早くおいで」
優しい声色で、有無を言わせない空気を含んだ言葉を投げかけられる。シュレディンガーは引き寄せられるように歩き出した。となりまで近寄ると、アリトンが満足げに目を細めて再び歩き出した。落ち着かない気持ちでそれを眺めながら、後に続く。
距離としては人三人分。それだけ開けて歩く。見た覚えがある様な、そうでもないような廊下を歩く。二人分の足音が壁に跳ね返った。近くには誰も居ないのか、このあたりは何の音もしない。
そんな場所にどうしてアリトンが向かっていたのか。どうして気付いたら背後に居たのか。
「もう教団には慣れた?」と話し掛けられたことに、直ぐに気付けなかった。思考の海から浮上し、はっとして横を向けば蒼い瞳がじっとシュレディンガーを見詰めていた。ぞくりとする。しかしそんな気配も嘘だったように穏やかな顔を向けられた。
「君ってあれでしょ、サフェスが連れて来たっていう」
少し考えてから、頷いて答える。反応があったことに気を良くしたのかアリトンが続けた。
「君のことは少し聞いたよ。僕が初恋の相手なんだってね。あはは変なの。僕が女の子だと思ったの? なにが切掛けかは知らないけどさ、男でがっかりした?」
この質問には答えず、というか答えられないで居るとアリトンは暫くして前を向いた。視線の重圧から解放される。背筋のこわばりがほどけて緩む。気を抜いて背中を丸めながら、知らない間に重圧を感じていたことに気付く。よくわからない。この男はなんなのだろう。
彼はあの冬の邂逅を覚えていないのだろうか。シュレディンガーの瞼の裏には今も強烈に張り付いたままのだというのに。
あの頃よりアリトンは髪が短くなった。背が伸びてシュレディンガーに目線が近くなった。顔も大人びた、声も少し低くなった。ほんの些細な事まで比べられるのに、彼は覚えていないのか。それも仕方がない、彼にとっては記憶する程の出来事ではなかったのかもしれない。
暫く無言で並んで歩いていると、見知った光景が戻ってきた。この廊下をもう少し進んだ先を左に曲がり、もう一本向こうあたりがシュレディンガーのラボのある場所だ。
「ここまで来ればあとは分かるね」
そう言ってアリトンは微笑むと去っていた。ただそれだけだった。やけに柔らかな笑みだった。遠ざかる後姿を眺めながら、その笑みを思い浮かべる。過去の記憶に重ねる。
あんなにも本人なのに、別人のようだった。
初恋の光景はどこへ行ったのか。
◆
別の日。
シュレディンガーはラボで機材の調整を行っていた。ケーブルが床を縦横無尽に走っている。機材に命令を打ち込むキーボードの音だけが部屋に響いている。その隙間、時折電子音が混じる。
作業に没頭していると、部屋の扉が滑る音がした。ノックの一つも無しに入ってくる存在に心当たりがない。それよりもこの調整のことで頭が埋め尽くされていた。あと一つ、何かをクリアすると次のステップに進める。その確信だけに突き動かされてモニターを目で追う。
部屋に踏み込んできた気配に、敵意がないことは分かっていたのでそれで良かった。一段落してから振り返っても遅くない。そう思っていたのだが、聞こえてきた声にプチンと集中が途切れた。
「ふうん、思ったより綺麗にしてるんだ」
振り返れば、アリトンが立っていた。その背後から、開けた扉から廊下の光が漏れてくる。彼が部屋の中に進んでくると、扉が滑って閉まる。光が制限される。シュレディンガーが目を見張っている間も構わずアリトンは部屋を見回していた。
「もっと煩雑にしているかと思ってたよ」
確かにこの部屋は綺麗に使っている方だ。というより物で溢れかえらせる性質ではないという方が大きい。データになるものはデータに。まとめられるものはまとめて、出来るだけコンパクトに。その他は自分の脳みその中だ。
アリトンがシュレディンガーの座っている椅子へ近付いてくる。どうしてここにという疑問と、何をしに来たのだろうという興味を押し退けて、彼が手に持っているものが気になった。それにアリトンも気付いたようだ。シュレディンガーの視線を辿り、手元を見つめて「これ?」と首を傾けた。
「ロジンがね、お土産にくれたんだよ。知らない間に出掛けてたみたいでさ、美味しいクレープがって話していたけどよく分からなかったな。女の子はそういうの好きだよね」
喋りながらクレープをかじって、尚も近付いてくる。どうしてクレープを食べながら、ここに来たのか。謎は深まるばかりだった。ついには直ぐそばにまでやってきた。椅子に座っているから見上げなければ顔が見られない。アリトンはモニターに流れる文字列を眺めた後、視線だけ動かしシュレディンガーを瞳に移した。
「一口あげようか」と悪戯に微笑みかけられる。そうは言いながらクレープをかじったままだ。「けど君は食べないんだったね」
残念だね、と目を細めるとまたモニターへ視線を戻した。咀嚼するアリトンの口元を少しの間眺めた後、再び作業に戻った。かたかたとキーボードを打ち込む。けれど先程一度集中が切れてしまった。勘が戻ってこない。それに、アリトンがとなりに立っている。
それでもなんとか作業を進める。無理矢理プログラムを押し込んで、形作る。なんの作業をしているのかを分かっているのかは知らないが、アリトンはただ見ていた。走る文字列。モニターの光がアリトンの顔をほんのりと照らしていた。
クレープを食べ終わると口を開いた。
「君って、食べもしなければ喋りもしないよね」
そう言われる。彼の視線はモニターを眺めたままだ。キーボードを叩く手を止める。暫く呼吸を置いた後、アリトンがシュレディンガーの顔を見た。それだけでなく、顔を寄せられる。睫毛の一本一本を数えられるほどそばに寄られる。覗き込まれる。目の奥にある何かを見られているのではないかと思った。
「僕と、意思疎通をはかりたいとは思わないの」
まじまじと見詰められそう問われ、呼吸の仕方を一瞬忘れた。息が詰まる。瞬きすらしないでいると、アリトンの顔が離れた。また見下ろされて、見下されて、微笑まれる。
シュレディンガーはキーボードに指を滑らせた。
――何の用で来たの。
そう尋ねると、アリトンは愉快そうに口元を釣り上げた。
「何も」
◆
気になることがありシュレディンガーは廊下を進んでいた。記憶を辿り規則正しく歩いていく。
あの日あのまま姿を見失うことなく後ろをついていったら、何所に着いたのか。
やはりあの時、あそこで意図的にまかれたように思う。今日のシュレディンガーは冷静だ。道筋を思い浮かべ頭の中で立体へ置き換えていく。
あの時アリトンに声を掛けられた場所へ着くと、あとは予測で進んでいく。これまで歩いてきた道、アリトンが背後に回る為に使っただろう道。取捨選択しながら歩いていけば薄暗い方薄暗い方へと道が絞られてくる。あまり人が通ることがない場所のようだ。教団内部にも、立ち入りが制限されている区画がある。ここも本来ならそういう場所なのかもしれない。シュレディンガーが知らないだけかもしれない。
もう少し進んだ先、扉が二つあった。廊下の突き当たりに一つ、もう一つはその少し手前、今シュレディンガーが立っているそば。漠然と当たりだろうと思った。あの奥にある部屋に着く前にまかれたんだろう。
ここまで辿り着いたからといって、あの部屋の扉を開けるつもりはなかった。ただ何かがあると確認できただけでよかった。あの扉の向こうに何があるかが知りたい訳ではない。開けてはいけない扉なのだ。
戻ろうと踵を返した時に、ガチャリとドアノブの回る音が後ろから聞こえた。近い。奥の部屋ではなく、近くの扉があいたんだろう。開いただろう扉の隙間から冷えた空気が流れ込んできて足元を撫でた。同時に濃い血の匂いが漂って来たものだから振り返った。血まみれのアリトンが立っていた。
扉が閉まり、アリトンの視線が流れてくる。
「君こんなところで何してるの」と問われるが、勿論返答はしない。
言葉を書きこむ何かがあれば、どうしたかは分からない。けれど、やはり返答は出来なかったかもしれない。どうして血まみれなのかだとか、怪我をしたのかだとか、一体どこから来たのかだとか、あの奥の部屋はやはり君の部屋なのかだとか、聞いてみたいことは幾つかあった。でもアリトンが、目をきらきらさせながらあまりに美しく微笑んでいたので、何も言えなかった。
「ああ、これは全部返り血で僕は全くの無傷だよ。ちょっと邪魔な物をね、消してきたんだけど。あはは、そんな事に興味はないかな」
楽しそうに笑うとアリトンが歩み寄ってくる。よく見れば片手に彼の愛剣が握られていた。ぽたりと血が落ち、点々と伸びる。シュレディンガーは動けないでいた。アリトンの蒼い瞳が薄暗い廊下でも分かるくらいに輝いていた。あのクリスマスのことを思い出した。血に濡れて、目がきらきらしている。やっぱりこの人が初恋の人なのだ。そう確信した。
そして自分は今ここで彼に殺されるんだろう。
そう思った。それも悪くはないとも思った。けれど待てどもその瞬間は訪れず、ついに眼前まで迫ってきた。この距離では剣が振り辛いだろうと考えていると、アリトンが背伸びをして、ディラックに触れた。唇で。
長い睫毛が直ぐ近くに見える。金色の髪が揺れる。すぐそばで輝いている青い瞳が見詰めてくる。食べられて死ぬのかもしれないと思った。
「君の言う初恋にこういう気持ちは含まれないんだろうね」アリトンが笑った。「君は悪い子だね。僕の部屋を探していたんでしょ」
そう言われると反論は出来ない。素直に頷くと声を立てて笑われた。「迷子になったって言えば面白くないから見逃してあげたのになあ」と言う言葉の意味はよく分からなかった。
「いいよおいで。僕は君の初恋を踏みにじることにした」
シュレディンガーの反応を待たず、アリトンはあの奥の扉の方へ向けて数歩進んでいった。そして振り返った。首を縦にも横にも振っていないのに、彼は答えが分かっているみたいだった。
「自分で付いてくるのと、僕に手を引かれるのと、どちらか選ぶんだ」
言葉に呼ばれて一歩前に踏み出せば「良い子だね」と微笑まれる。アリトンの方が随分年下なことを忘れそうだった。彼のそばまで近寄ると、結局手を掴まれた。乾いた血が付いていてザラザラした。
「内緒に出来るね。シュレディンガー」