少年の神様

(小さいアサナとオベロン)

 

 

その時少年は一人で森を探検していた、小さな歩幅で木々の隙間を抜ける。この森を抜けると、どこに着くのかが知りたかった。もしかしたら違う世界かもしれない。もしかしたら世界の果てかもしれない。ただただ幼い好奇心だった。
落ち葉を踏み、枝を踏み、木の幹の横を通り抜け、木漏れ日を浴びて遠くへ遠くへ。
ふと振り返り、帰り道が分からないと気付いたのは、随分遠くまで来てからだった。
ざわざわと草木が揺れている。ほんのりと日が傾く。薄暗くなって足元の影の形が曖昧になっていく。次第に怖くなってきて、小さい手をぎゅっと握りしめる。体の周りがざわざわと揺れた気がした。
誰か! と叫んだ声が大きな風に乗った。
ごうっと風が吹いて、声が遠くまで流れていく。辺りの木が大きくしなった。
そして背後で何か重たい物が地面に落ちる鈍い音と「いってえ」という男の声が聞こえた。
驚いて振り返れば、金色の生き物が倒れていた。
この時まだ気付いていなかったが、少年には魔術師の素質があった。

小振りな杖を手に少年はまた森を歩いていた。
今日は探検ではない。探検というにはもう随分見知った光景なのだ。この道を通るのも、もう何度目か分からない。初めはただ木が乱雑に生えているだけに見えた森の中も、今ではくっきりと道に見える。
通り慣れたその道を進み、森の奥を目指す。暫く行くと少年が秘密の練習場と呼んでいる場所にでる。周りと比べれば木の本数が少なく、開けた空間だ。
前はもっと荒れていたが、来る度に少しずつ手入れをしている。今では随分すっきりとして快適だ。木を切り倒した時に作った丸太の椅子では読書も出来る。いつかはあの辺りの木にハンモックをかけたいなあ、なんて考える。
自分の素質に気付いて以降、少年はここにやって来ては覚えたての魔法の練習をしていた。ここなら誰にも迷惑はかけないしそれに、と杖を構える。
意識を集中し、辺りに風を起こす。自分の背後から前方に向けて吹き抜けるイメージ。その通りに風が流れ、木々が揺れた。
ざわざわと木の葉の擦れる音に混じって「わざとやっているだろ」という声が聞こえてきた。
声の方を見上げると、木の上で寝ている男と目が合った。
金色の髪、金色の瞳、なんだかきらきらした服。森の中、木の上には似つかわしくない姿。
彼は欠伸をすると目を擦った。そしてまた目を閉じて寝始めようとするので「待って、寝ないで」と慌てて声をかける。渋々といった様子で彼は再び目を開けた。
「寝てるんだ、邪魔しないでくれないか」
「あっ待って! あのこの前はごめんなさい、僕のせいで木から落としてしまって」
少年が頭を下げると、彼は渋い顔をした。その表情に思わず口をつぐみそうになるが、かれこれ二か月くらいここに通い詰めて、やっと再会できたのだ。めげずに次の言葉を探す。
けれど中々言葉が見付からない。ぱくぱくと息を吸い込んでいると、彼は面倒くさそうな顔をして木の上から降りてきた。さくりと落ち葉を踏む軽い音が立つ。あの時振りに間近で見た顔は、相変わらず神々しかった。
「かみさまみたい」と思わず口にすると、彼はさらに険しい顔になった。慌てて「ごめんなさい、凄く綺麗だったから」とまた頭を下げる。
怒って帰ってしまったらどうしようと肩を震わせていると、ため息が降ってきた。顔を上げると、彼はただ眠たそうな顔に戻っていた。再び欠伸をして、近くの木の幹にもたれるように座り込んだ。
「また迷子?」
「今日はちがうんです。あなたを探していて」
「なんで」
「お礼を言いたくって。この前は道を教えてくれてありがとうございました。あと貴方に言われたとおり僕魔術師の素質があるって。それで最近勉強を始めたんです」
「そ」と彼は大して興味の無さそうな返事をすると、目を閉じてしまった。
帰ってしまうわけではないことには安心したが、眠ってしまったらおはなしが出来ない。
そわそわと顔を覗き込みながら「あの」と声をかける。少しの間を置いてから金色の瞳が半分ほど覗いて少年を見た。
「ここには良く来るんですか。住んでいる場所は近いんですか」
「たまに来る。すごく遠い」
「遠いの? ならどうしてこんなところまで?」
答えてくれたことに嬉しくなって、更に質問を重ねると彼は一瞬考える様に黙った。
それからほんの少しだけ、笑った。
「サボり」

日課のように森に風を吹かせる。
少年の練習場はすっかり整えられていた。丸太のベンチはきちんとした椅子になり、ついでに机も出来た。ハンモックは木の間にかけられている。
折角あるんだし使ってくれてもいいのにな、と見上げるが誰かが寝ていた事は今まで一度もない。あそこで寝ていてくれたら分かりやすいのだけれど、と思いながら強めの風を森へ流す。
どんな魔術の練習をする時でも、まずはこれからだ。轟々と風が吹き抜け、落ち葉を巻き上げる。
風に乗って背後から松ぼっくりが飛んできた。それを避け、飛んできた方を振り向けば、眠そうな顔をした彼が居た。
「寝てるって言ってるだろ」
「貴方が名前を教えてくれないから、呼べないんですよ」
「俺が居ても居なくても勝手に練習してたらいい」
「貴方が居ることに気付かないで魔法を使って、失敗して巻き込んだりしたら嫌ですから。それかもっと分かりやすいところで寝ていてくれたら良いんですよ」
あれ使っても良いですよ、とハンモックを指差すと彼はなんとも言い難い表情を見せた。これは使ってくれなさそうだ。
せめて同じ木の上に居てくれたら分かりやすいのだけれど、毎回違う場所で寝ているから探し難い。それに頑なに名前を教えてくれない。どうしてだろうと考えてみても分からない。未だにやっぱり彼はこの森に住んでいる神さまなのではと思うこともある。そう言うと嫌そうな顔をするので言わないけれど。
彼は木の上から降りてくると、少年の作った椅子に座って机に肘を付いた。そしてまたうとうと舟をこぎ始める。いつ見てもだいた眠そうにしているけれど、いったいどういう生活をしているのだろうか。
木漏れ日が彼の髪をゆらゆらと照らしている。きらきらして、やっぱりとても綺麗だ。見惚れていると、肘をついている方の腕に真新しい傷があることに気が付いた。手の甲から腕の方へ切り傷のような物が走っている。深くはなさそうだが痛々しくて鳥肌が立つ。
近寄って彼の向かいの椅子に腰を下ろす。その気配に気付いたように目を開けた。
「手を貸してください」と言うと、だらりと垂れさがっていた方の手を上げたので「反対の手です」ともう片手に手を伸ばす。
傷のある手を取り、魔術を使う時に使用する杖をかざせば、するすると傷跡が薄まっていく。それを眺めていた彼が驚いたように目をパチリと開けた。
「回復系の魔術も覚えたんですよ」
「もうそんな段階か。早いな」
「そうでもないです。勉強を始めてからそれなりに時間経ってますし」
「そんなに? そういえば、大きくなったな」
「貴方の外見は変わりませんね」
「人間とは違うんだよ」
「やっぱりそうなんですね」
すっかり傷跡が消えた彼の手を離す。
人間でも神でもないなら、彼の種族はなんなのだろう。気にならなくはないが、なんでもいいかとも思う。相変わらずふらりとここにやってきては、うとうとと眠って、少し会話をして、ごくごくまれに少年の食事を一緒に摘まむ。それだけだが、それだけでも良かった。
傷が無くなった自らの手を見て彼がふと「ありがとう」と呟いたので、心臓が止まりそうになった。どうしてか分からないがとても、とても驚いた。止るかと思われた心臓が逆に鼓動を早めていく。酸素が体の中から減っていく感じがして、慌てて息を吸い込んだ。
「怪我、どうしたんですか」と誤魔化すように尋ねる。
すぐに返事はなかった。顔を上げれば彼は少年をじっと見ていた。そして口を開く一瞬前、ほんの少し金色の瞳が黒色に光った気がした。
「戦争」

不意に名前を呼ばれ目を開けると、辺りはすっかり暗くなっていた。
知らない間に眠っていたようだ。机に伏していて、腕の下でノートが皺になっている。急いで起き上がり、机上のランプに明かりを灯す。
名前を呼んだ相手は少し向こうに立っていた。暗がりの中にぼんやりと姿が見える。
気まぐれにやってくる彼だが、今回は随分と間が空いていた。久し振りの再会に思わず胸が躍る。久し振りですね、と笑うが返事はない。
「また怪我をしたんですか?」と尋ねる。
彼から話し掛けてくるときは、怪我をした時が多いのだ。少年が回復術を使えると知ってからは度々それだけの為にやってきた。小さな切り傷から、火傷の痕まで。頼ってくれることは嬉しかったが、それ以上に増える傷にはらはらとした気持ちがつのって苦しかった。
戦争っていつまで続くんですかどこで戦ってるんですか何と戦っているんですか、貴方は無事でいられるんですか。言葉はどれもどうにも伝えられなくて、全部心の内だ。その中でも、もし僕が一人前の魔術師になったら、という言葉を一番多く飲み込んでいる。回復術だけでなくそもそも傷を負わない為の方法の勉強だってしている。本当は攻撃するような術の方が出来は良かったけれど、それは後回しにしていた。
返事を待っても、一向に反応を示さないので「どうしたんですか?」ともう一度訪ねる。ランプの取っ手を掴み立ち上がり、彼へと歩み寄る。
ゆらゆらとした灯りが森を照らすが、相変わらず彼の輪郭ははっきりしない。暗闇に滲んで良く見えない。
すぐそばまで寄った時に、やっとその理由に気が付いた。
「髪の色、どうしたんです」
彼の金色だった髪が、真っ黒になっていた。
俯いていた顔を上げて少年を見たが、その瞳もまた黒色に変わっていた。髪を染めた、だとかその程度ではないことを、この時察した。彼の纏う気配の質にも大きな変化が起きていることにも気が付いた。なにか、とても良くないことがあったのだろうと漠然と思った。
少年が次の言葉を発するより先に、彼が口を開いた。
「背伸びたな」
そう言われて、彼を見下ろしている事に気が付いた。
「成長期、ですから」
「そう」
「貴方が来てくれなかった間に、結構伸びたみたいです」
「来る約束してるわけでもないだろ」
そう言われてはっとした。約束は、確かにしていないけれど、そうではなくて。今日彼が何を言いに来たのかを勘付いて、もしかしてと思った言葉を口から出すか悩んだ。けれど、こればかりは聞かないでいられなかった。
恐る恐る、口を開く。
「もう会えませんか」
そういう何かがあった、そういう気がした。そうしてさよならを言われるのではないかと身構えていた。なのに言葉はなかった。
問い掛けへの答えもなかった。
代わりに名前を呼ばれた。
「マーリン」と呼ばれる。
呼び返す名前を未だ知らなかったので「はい」としか返事が出来ない。彼は一度目を逸らして空を見た。空は真っ暗で、木々の隙間から星が覗いている。
もう一度名前を呼ばれる。目が合う。
この時なんて返事をすれば良かったのか、今もずっと分からない。

彼は最後に「なんでもない」と言った。