花冠と湖

(ファティビビ)

 

 

 

電話を貰った。

「息子が出来たの、会いに来てね」
受話器の向こうから聞こえたのは、少女のように愛らしく柔らかな、よく知った声だった。私はその時、あまりに驚いた。驚きすぎて、危うく気に入りのカップを割ってしまうところだった。は、とも、え、ともつかない言葉と共に、指の間からカップが滑り落ちそうになる。けれども、なっただけ。実際はほんの少し、ミルクティーの水面が揺れただけだった。
どんな気持ちになっても、どれだけ驚いても、表面をそれだけに取り繕える自分のことを、私はそれなりに気に入っていた。
私のだいすきな彼女に、赤ちゃんが出来たらしい。
いったい相手はどこの馬の骨かしら。そんな相手がいるなんて、聞いたこともないのだけれど。どうしようかしら。殺してしまおうかしら。
着々と物騒な考えに浸りながら、ミルクティーで唇を湿らせる。私の大好きな、水色の髪と蝶の様な羽をはためかせる、少女の様な彼女。どうして彼女のことが好きなのか、と問われると答えることが難しい。さてどうしてだったかしら、と私自身首をかしげたくなる。
そういえば結婚式にも呼ばれていないわ、と気付いた頃に誤解が発覚した。彼女のお腹に新しい命が宿ったわけではないらしい。こどもを預かることになったので、頑張ってママをするの、と言いたかったようだ。
なんてややこしいことを言うのよ、という気持ちと、早とちりして相手を殺そうと考えたなんて恥ずかしい、という気持ちが僅かに入り混じる。まあ、誤解と分かったので、この澄んだ確実な殺意はいったん取り下げる。けれどきっと、本当にそういう相手が彼女に出来たら、私はこの発想をまた呼び戻すのだけれど。
「それで、いつなら暇なのかしら」と手のひらを返したように上機嫌に私は問い掛ける。
「いつでもよ」と彼女は声を跳ねさせた。

「息子が出来たなんて言うから、驚いたわ」
私が肩を竦めれば「ふふ、ごめんなさい」と彼女は上機嫌に笑った。
妖精の住む湖のほとり。私はそこを、お気に入りの洋菓子店の箱を手土産に訪ねた。
ここへ来るのも既に何度目か。その時はいつも彼女と二人きり。けれど今日は、彼女の細い腕に抱えられた、小さなこどもと合わせて三人がいる。流石にこんな小さなこどもに妬かないけれど。
少女の様な彼女の腕に抱えらえたこどもというのは、とてもアンバランスに見えた。腕の中で眠るこどもをあやすように、彼女はゆらゆらと体を揺らしている。それはとても知った光景。母親の様子。けれどもやっぱり、それが彼女とは結びつかなくて違和感がある。こども、彼女、母親、私。
十幾つの少女のようにも見える、無邪気さと愛らしさを持った彼女。この湖の水面の色と、良く似た髪の色を持つ彼女。私はここで彼女と会う度、彼女はあの湖の中から生まれたに違いないなんて思う。穏やかで広くてあたたかな、淡い水色の湖。
私がじっと見詰めていることをどう思ったのか知らないけれど、彼女はにこにこと笑った。
「抱っこする?」なんて想像もしなかった言葉を掛けられたので「遠慮するわ」と首を振る。
「どうして? 可愛いでしょう」
「起こしてしまったら困るんじゃないかしら」
やっと眠ったところだってさっき言っていたじゃない、と寝息を立てるこどもの顔を覗き見る。柔らかそうな金色の髪。顔立ちは、誰かに似ている様な気もしたけれど、きっと気のせい。ふくふくとして、幸せそうな寝顔をしている。
「そうね。なら少し待っていて、向こうに寝かせてくるから」
「そうしたら。その後で一緒にケーキ食べましょう。買ってきたの」
「わあ本当? なら紅茶を淹れて来るね」
「家に上がっても良いなら、私が淹れておくわよ」
「ありがとう、でも今日は外で食べたい気分なの。ほら、天気が良いでしょう」
だから待っていてね、と目配せすると彼女はふわふわと歩いて行った。空を舞わないことが不思議なくらいの、軽い足取りで。
その姿を見送り、私は素直に待つことにした。
外で食べるというのなら、いつものベンチで待てばいいだろうか。湖よりも、森の側へ近い場所に置かれた、木製のベンチ。あそこに座ると木の葉が影になって、寛ぐにとても気持ちがいい。そこでお昼寝をしたこともある。
けれど今日はなんとなく、その気分ではなかった。
湖の方へと近寄って、その縁にそってぐるりと歩く。少し進んだところに大きな岩がある。湖と草原を跨ぐ、大きくて平たい岩。あそこの縁に座り、足先を水に浸すと気持ちがいい。
私はその岩の上に飛び乗って、腰を下ろした。
ここは静かで暖かくて景色もよくて、とても良いところだ。私の住んでいる魔界のお城もとても気に入っているけれど、こういった温かな明るさはない。
ゆるく、瞬きをする。
ここに彼女は一人で住んでいる。それも今となっては過去形だ。これからはあのこどもと二人暮らし。そう思うとなんだかちょっぴり、暗い気持ちがふわりと湧き上がる。綺麗な湖に一滴、墨汁を垂らしたみたいに。
こどもに嫉妬なんて見苦しい限りだわと、頬を膨らませる。そして溜息を吐出す。ああもう、と靴を脱ぎ、足先を湖面に浸した。少し冷たい。
「おまたせ」
声を掛けられ振り向けば、ティーポットとカップを持った彼女が立っていた。
「いつものベンチに居ないから、何処に行っちゃったのかと思った」
「今日の気分はここなの」
「食べるのもここ? それならトレーを持ってきた方がよかったね」
「平気よ。でこぼこしててもカップくらいは置けるし、ケーキは膝に乗せればいいもの」
「もー、お行儀悪くない?」
「あら、いつもと大差ないわよ。それに私と貴女二人きりなんだもの、それくらいいいじゃない」誰も見ていないわ。
手を差し出し、ポットを受け取る。彼女が腰を下ろす場所と私との間に、それを置いた。すこしぐらぐらするけれど、倒れるほどでもない。
彼女が腰を下ろす拍子に、ふわりと水色のスカートが揺れた。その裾からすらりと伸びた脚が、岩肌に触れる。「私も靴、脱ごうかな」と膝を曲げると靴を脱ぎ、同じように爪先を湖面に触れさせた。
その爪先が、水面にもぐる様子がどうしてか不思議に思えた。その時ふと、私は彼女が水面に立てるものと思っていたことに気付く。一緒に泳いだことだってあるはずなのに。今日の私はなんだかちょっぴり、変な気がする。
心の中でひっそりと溜息を吐きながら、洋菓子店の白い箱を空けた。
「わ、チーズケーキ」
「好きでしょ」
「とっても」
ふふ、と笑みをこぼした彼女の小さな手のひらの上に、チーズケーキを乗せる。こんなに小さくて細い手なのに、こどもを抱き上げてあやすのだから不思議でならない。といっても私は、彼女の腕が大振りの剣を振り回すほどの力を隠していることも知っているのだけれど。
おまけでついてきた、安っぽいプラスチックのフォークも渡す。彼女は「いただきます」と言って早速一口目を口に運んだ。
「やっぱりここのケーキ美味しいね」と笑う姿に胸がくすぐられる。
「そうでしょう」と笑って私もチーズケーキを一口切り分ける。ほろりと口の中に溶ける甘さが気に入りだった。彼女の淹れてくれた紅茶も美味しい。文句のない、最高の昼下がり。
「ねえヴィヴィアン」
「なあにファティマ」
「やっぱり子育てって、大変なのかしら」
何の気なしにそう尋ねると、彼女は目を輝かせた。
「もうとっても!」
「あら」
「さっきもだけれど、眠ってくれるまでに時間がかかったり、時々泣きだしちゃったり。ご飯も好き嫌いされちゃうし、思っていたよりもとっても大変」
「それは大変なものを押し付けられたものね」
「でもね、とっても可愛いの。さっきの寝顔見たでしょう」
そうね、と笑う。けれど私の目には、今こうしてきらきらと話をする彼女の方が余程愛らしく映っていた。
「寝顔と言えば、貴女も子守唄を歌ったりするのかしら」
「もちろん」
「なんだかあまり、イメージがないわね」
「失礼しちゃう。私だって子守唄くらい歌えるのよ。ほら、きーらーきーらーひーかーる、おーそーらーのほーしーよー」
「それって子守唄だったかしら?」
「違うの?」
「さあ、私は子守唄歌ったことないから分からないわよ」
「なら今度私に歌ってみて」
「私と一緒に眠る気?」
「前は時々していたじゃない」
ねえ、と笑い掛けられ私は返答に困ってしまった。確かにそうなのだけれど。
子守唄なんて。誤魔化すように大きく口を開け、ぱくりとチーズケーキの残りを口に含む。むぐ、と口をつぐむ。もくもくと口を動かしていると、彼女が声を立てて笑った。
いつの間にか彼女の手元からは、チーズケーキがなくなっている。いったいいつ食べ終えたのか。器用なものねと思っていると、彼女の指先がこちらへ伸びてきた。水色に塗られた指の先が、私の唇の端を撫でる。
「ついてる」
目を細めた彼女の指先に、チーズケーキのかけらがついていた。それをためらいもなく、ぱくりと口に含んだことに少しばかり驚いた。驚くようなことでも、なかったのだけれど。
こくりと喉が鳴る。
「ファティマのそういう、時々油断しているところ可愛いよね」
「……それはどうも、光栄だわ」
平静を装って、紅茶に口を付ける。カップの中身を空にすると、それを見計らって彼女が手を小さく合わせた。
「ごちそうさまでした、美味しかったね」
満足そうな笑みを私に向けた後、彼女はふわりと軽やかな動きで立ち上がった。重力なんて感じていないみたいに。陳腐なたとえだけれど、私は時折彼女が天使に見える。それもあながち、間違ってはいないのだけれども。
靴を履いていない裸足で岩の表面を踏めば、ぺたんと気の抜けた現実的な音がたつ。ぺたぺたと歩いて「ファティマ」と彼女の声が呼ぶ。振り向いた先、湖とは反対側へ、彼女はぴょんと飛んだ。着地した先の草花が揺れた。
「裸足で草を踏むのなんて、いつ振りかな」
「あら、そうなの?」
「大人になってからって、そういう機会がぐんと減るでしょ」
「それもそうね。けれど貴女はなんだか、裸足の方が似合う気がする」
「ふふ、なにそれ。一応褒め言葉として受け取っておくね」
「そうしてくれると嬉しいわ」
くすりと笑えば、同じように笑みが返される。
彼女の指先が、私を招いた。呼ばれるまま素直に立ち上がる。手を伸ばせば、掴まれて引かれた。導かれ岩肌を降りれば、素の足の裏が瑞々しい草を踏みつける。
「ねえファティマ、あのね」
「今度はなにかしら」
「花かんむりって作れる?」
またどうして、と疑問に思いながら「作れると思うけれど」と答える。
「本当? なら教えて欲しいの」
お願いという言葉と裏腹に、半ば強引に手を引かれた。こっちよと呼ばれ、花畑へと導かれる。靴を置いてきてしまったことが少しだけ、気になった。
「さっきね、向こうの花畑で遊びながら、花かんむりを作ろうと思ったの。でもすっかり忘れちゃっていて、上手に出来なくって」
「珍しい。こうういうことって、私より貴女の方がずっと得意だと思ってたわ」
「やっぱりやらないと忘れちゃうね」
苦笑した彼女と共に、辿り着いた蓮華の花畑へ腰を下ろす。彼女の指先が、蓮華を一本手折った。並んで腰を下ろすと、草木の色をした私のスカートが、湖の色をした彼女のスカートに重なる。まとめた長い髪が、草花を撫でる。こうしてみると、私と彼女はとても違う。初めからそんなことは、分かりきっていることなのだけれど。
蓮華の花を指先で撫でる。作れるとは言ったけれど、果たして私も覚えているだろうか。彼女のように、忘れてしまってはいないだろうか。少しばかり不安を覚えていると、彼女に手を取られた。掴まれ、彼女の膝の上へと導かれる。その先で、先程手折った蓮華を指に巻き付けられた。
「これくらいなら出来るんだけれどね」
「……私、貴女のこういうところ嫌いよ」
「ふふ、私は照れて悪態吐いちゃうファティマのこと好きよ」
もう、と頬を膨らませながら、薬指にまきつけられた蓮華を睨む。左となりに座った彼女は、嬉しそうに笑っているばかりだった。
気を逸らすように蓮華を三本摘む。二本を束ねて、そこに一本を巻き付ける。もう一本摘み、また巻き付ける。たしか手順はこれでいいはず。これを幾度か繰り返しているうちに、形が出来てきたのでふと安心した。
手を進める。ただ、指に巻き付いた一本がむず痒い。外すことはしないけれど。
少しずつ編まれていく蓮華を覗き込むように、彼女が私の肩にもたれかかってきた。あたたかな肌が重なる。水色の髪が肩をくすぐる。
甘えた声で、名前を呼ばれた。私はそれに、淡々と答える。
「あの子が大きくなるころには、きっと私たち敵同士ね」
「そうね、元から味方同士でもないのだから」
「ふふ、そうだね」
「そうなったらこうやって、貴女の好きなチーズケーキを一緒に食べることもなくなるわね」
「残念ね」
「ええ、とっても」
編み上がった蓮華の花かんむりを、彼女の頭に乗せる。似合うわよと言おうとした言葉は、声にならずに飲まれて消えた。
凄く近くで、ヴィヴィアンが、私のとても好きな顔で笑っていた。
「ねえファティマ。チーズケーキが好きなのは、私じゃなくて貴女だよ」