小ネタ

(クロジュリ)

 

 

 

「何か、そんなに大事じゃないものを一つください」
軽口を叩けば、視線の先でクロノが耳をひくりと動かすのが見えた。その怪訝そうな顔がおかしくて笑う。「そんな構えないでくださいよ」と笑い声に乗せてこぼすと、ため息が返ってきた。
昼間の執務室は暖かい。窓からは日差しが入ってきて室内を温めてくれる。光がちょうど膝にかかって、少し暑いくらいだ。
今はクロノ専用の執務室にいた。広いけれど一組織の頭目の執務室としては狭いような、そんな部屋。クロノは窓際の執務机に座り、書物と書類の山に埋もれるようにして仕事をしている。片付けられないのは仕事ができない証拠、なんて聞いたこともある。だが彼のあの様はそれとも違う。クロノはとても仕事のできる人だ。とても仕事ができるので、最短でこなそうとするとああなるらしい。雑多に見えるというのに本人に窮屈な様子はない。手早く書類がめくられ、万年筆がさりさりと紙の上をなでていく。
見ているだけで面白い、なんて思うのはおかしいだろうか。
眺めていたいのはやまやまだが、それでは自身に与えられた仕事が片付かない。彼から一度視線を外す。右手に握った万年筆をくるりと回す。借り物の万年筆はとても書き心地がいい。
「くれか」とクロノの視線がこちらの手元に注がれる。「貸す、ではなく」
「はいはい。これみたいに貸すじゃなくて、ですよ」と万年筆とを掲げて答える。
「また急に、どうした」
呆れ交じりの声に「まあ」と肩をすくめる。
急と言われれば確かにそうだろう。実際思い付きで口にした。ただ思いついたのは急だが、何かほしいなと思っていたのは前からだ。口には出さないが。
「ロウが何を考えているのかは知らないがな、俺としては先に貸しているものを返してもらおうかと言いたいところだな」
「はは、まあそうっすよねえ」
「だがまあ、何かほしいというならそうだな。今貸しているそれ。その万年筆をやろうか。それとも蓄音機か、火打石か、どれでもいいが」
「あ、それは返すんで、別のものがいいです」
「返す気はあったのか」とクロノが驚いて見せた。
苦笑して「もちろん、返す気はありました」と答える。
確かにどれも借りていて、借りたままになっている。だがくれてもいい気のものだったとは知らず、少し驚く。あれもそれも、決して安いものではないはずなのに。
話題の誘導の仕方を間違えてしまったかもしれない、と後悔した。
自分に向けられる感情に疎くはないので、彼が与えてくれようとしているものを察してしまう。感じ取ってしまう。注ぎ込まれる彼の愛情は、人の身には余るものばかりだ。受け取って、どこにしまえばいいのだかわからない。拾いきれないほどぱらぱらとたくさん、降ってくる。拾うつもりもなかったのに、こぼしたくもなくなってしまったことがただただ厄介だった。
むず痒くなって、にわかに苦しく思っていれば、クロノは笑っていた。彼も他人の感情に対しとても察しが良い。よすぎていつも困ってしまうほどだ。知られなくてもいいことまで、知らない間に知られている。恐ろしい。けれど、嫌いでもない。
むしろ、なんて考えていれば引き出しの開く音が聞こえた。クロノが書類から手を放し、執務机横の引き出しを開けていた。木のこすれる音がする。重たくて心地の良い音だ。彼の姿に良く似合う。
から、ごそ、と引き出しの中をいろいろな物が転がる音が聞こえる。ぼんやりと眺めていれば、クロノが目を瞬かせたのが見えた。
時々見せる、無邪気で嬉しそうな、人間の少年にも見えるような表情。あの顔を見ていると、思考回路がこんがらがる。何千年も生きている、化け物にも等しくそこかしこから疎まれてすらいるような存在とはとても、思えないような顔をする。
その落差にくらくらとやられてしまう。ばかばかしい、と客観的に自分のことを思う。だというのに不愉快になれないので、きっと、自分はもう駄目なのだろう。
「ほら」
ほうっと見惚れていると、急に彼が腕を振り上げた。何かを握っていた様子の手がふっと開かれる。放物線を描いてなにかが、飛んでくる。「うわっ」と声をあげながら慌てて手を開き、投げてよこされた物をつかんだ。
思ったよりも重たい影が手のひらにぶつかる。少し痛い。
握り締めた手を開くと、くすんだ色の古ぼけた髪留めがあった。顔を上げればクロノが笑っている。どうして笑っているんだろう、なんて考えてしまう。
「なんすかこれ」と尋ねると、呆れ切ったように鼻で笑われた。
「何か寄越せといっただろう」
「そこまで横暴な言い方はしなかったと思うんですけどねえ」
手を傾け髪留めをじっくりと眺める。ずいぶん古いものようだが傷んでいる様子ではない。売り飛ばしたらいくらになるんだろう。それ程に繊細なつくりをしていた。
これはそんなに大事じゃない物、ではないと思うのだが。
クロノが察したように先回りをして、言葉を付け加えた。
「俺はもう使うことがないからな。全く大事じゃない物だ」
「……もう伸ばさないんですか」
見当はずれな質問をすれば、彼は笑った。笑って机上に転がっていた万年筆をつまみ上げた。さり、とペン先が滑る。「この方が楽だ」
「ロマンのない答えだなあ。俺、先輩の神長いところ見てみたいなー、なんて」
「今から伸ばしてもそんなに伸びないぞ」
「そう……ですけどね」
「まあ伸ばさないがな」
「ケチ」
軽口を叩きながら、髪をほどく。前にどこかで、何かの買い出しの時に買ったんだったか、そんなことも思い出せないくらいどうでもいい髪留めを膝の上に置く。代わりに今受け取った髪留めを使い、髪を結う。
「似合いますかね」と結び目をクロノに向けて見せると「変わったように見えん」と情緒も何もないお返事があった。
もう少し何かあるだろうと唇を尖らせる。お世辞でも言えばいいのに。どれだけ恥ずかしいセリフでも様になるように口から出せる人だというのに。なんてサービス精神の無さだ。はあ、と息を吐きだす。
「まっ、ですよね」
目立つ装飾の髪留めでもないですし、と肩にかかった黒髪を払う。
「ああ。だがお前の長い髪は好きだからな」
「はあ」
「だから、髪留めをやったんだ。切るなよ」
悪戯っぽく笑う瞳がこちらを、射るように見つめていた。
口から次の言葉が出ていかない。よく回る舌が自慢だというのに。何も言い返せない。悔しい。でも、だが。
やっとのことで息を吸い込む。
タイミングを合わせるように「いいな」と追い打ちをかけられては「はい」としか返事ができなかった。

「本当にずるい人だ」と、髪を結いながら独り言をこぼす。
肩にさらりと、束ねた白い髪がかかる。